0日目 First contact
屋敷の外にはひどい雨が降っている。
わたしはそれを横目に見ながら、料理の乗ったお盆を持って薄暗い廊下を歩く。
廊下の突き当たりの部屋には大きな赤い扉がある。
父さんの執務室だ。
赤い扉には鍵がかかっていて、外からでは絶対に入れない。
床に置いてある昼食の分の、昼に私が置いてから手がつけられていないお盆をずらして持っていたお盆を置く。
父さんはこれで丸三日は何も食べていないことになる。
わたしは扉を小さくノックした。
部屋の中で父さんが音に驚き震える気配がする。
「父さん、夕食を置いておきます。……あの、体調が優れなくとも何か召し上がらないと……父さんでもお体に触りますよ」
「……いいんだ。放っておいてくれ!私にっ……私に近づかないでくれ!」
父さんの声は弱っていない。
少なくとも、部屋の中で衰弱しているということは無いようだ。
「はい……すみません……。何かあれば、呼んでください」
そう言ってわたしは昼食のお盆を持って扉から離れ、廊下を歩く。
いつもの父さんはこんなのじゃない。
普段は厳しくも優しい、高貴な行いをする、わたしの目指すべき父親だ。
それが変わってしまったのはつい最近のことだ。
父さんは研究のため、この孤島にある屋敷に来た。
今回は特別にわたしも連れて来てくれて、いよいよわたしも『勉強』ができるんだと思って喜んでいた。
だけど島について二日目の夜、真夜中を過ぎた頃に父さんが外に出る音が聞こえた。
三日目は雨が降り出した、父さんに異変はなかった。
四日目は、頭痛がするのか頭を押さえていて、洗面所で誰かと話していた。
「黙れっ……黙れ!黙れ!……なんなんだお前は!?」
洗面所に、この屋敷に、この島に、わたしと父さん以外誰もいないのに……誰に、話しかけていたんだろう?
五日目、父さんは朝から様子がおかしかった。
目の焦点があっていないし、うわごとののように何か呟いている。
「来た。来た。来た。あいつが来た……またオレを殺しに来たんだ。だめだ……今見つかったらだめだ……はやく、喰わないと、殺せない」
そんなことを繰り返しながら大雨の降る外に出た父さんに声をかける。
「父さん!研究中に何かあったんですか!?最近変ですよ!」
父さんはわたしの声で正気に戻ったみたいだった。
だけどわたしを見て、自分を見ると、ひどく青い顔をして、家に入ると執務室に閉じこもった。
「父さん……?」
「わたしのことは心配いらない!お前は人を呼んで、先に帰るんだ!」
扉越しに聞こえる父さんの声は何かに必死で抵抗してるみたいに激しかった。
その夜わたしは家の人に連絡をして、島に迎えに来てもらおうとしたけど、三日目からずっと降っている大雨のせいで船を出せないと言われた。
父さんの様子がおかしいことは伝えなかった。
もしそのことが父さんの上の人たちに伝わったら、父さんは間違いなく殺されてしまう。
もしこの時正直に話していたなら、全く違う未来もあったかもしれないけど。
それからほぼ二日経って、今は七日目の夜。
時刻は十一時になったばかり。
わたしはベッドでシーツにくるまって、自分に言い聞かせるように言葉を紡いでいた。
「大丈夫、大丈夫。父さんはすごい魔術師なんだ。だから何があったって大丈夫だ。きっと明日の朝にはいつもの父さんに戻ってる。そうに決まってる」
そうだ、父さんは一流の魔術師だ。
わたしのような見習いとは違う。
わたしの猫に悪霊が取り憑いた時も、たった一瞬で祓ってくれた。
だから今回もきっと……。
そんな考えを打ち砕くように、屋敷全体に轟音が響いた。
それを皮切りに、次々と同じ音が繰り返される。
……執務室からだ。
わたしは急いでベッドから起きて部屋を飛び出した。
廊下を走って執務室に急ぐ。
雨はいっそう強くなっていた。
扉の前に到着した。
中からは今も断続的に音が聞こえる。
この音は、壁を何かで殴りつけて……いる?
「父さん!何をしてるんです!?」
そう呼びかけても、帰ってくるのは衝撃音だけだった。
わたしは意を決してドアノブに手をかけるけど、やはり鍵がかかっているからびくともしない。
扉は子供が物をぶつけたところで破れるものでもない。
……ならば。
扉から半歩離れ、落ち着いて深呼吸をする。
右手をまっすぐ突き出し、手のひらのを扉には押し当てた。
集中して、自身の魔力を意識した。
本来感じることのないものを認識した脳は、それを熱と誤認する。
擬似的な熱を丁寧に、腕を通して手のひらに集めた。
手のひらの真ん中を中心に半径四十センチの円を頭の中で扉に描く。
自身の"内"にある魔力を"外"の扉の一部へ。
ただしそのままではなく、イメージによって運動エネルギーへと変換し、魔力による見えない破城槌を作り出す。
「abblasen!」
衝撃音を立ててひしゃげた扉が部屋の中に倒れる。
わたしは部屋の中に入って見た。
部屋には雨が入ってた。
なんで?
壁がとっくに壊れてたから。
そいつはそこから出ていこうとしていた。
そいつって?
そいつは父さんだったけど、父さんじゃなかった。
そいつは腕と脚が長かった、目は蛇のようだった、頭や背中から鋭い突起が生えていた。
本当に父さんなの?
だけどあの顔は、あの服は、紛れもなく父さんものだ。
「と……」
そいつと目が合った。
ただそれだけで、わたしの体は石になったみたいに動かなくなった。
このままであれば確実に殺される。
締め殺される?腕力に任せて引き裂かれる?あるいはもっと酷い殺され方か。
逃げるにせよ立ち向かうにせよ、体を動かさなければならない。
なのに、指を動かすことも、声を出すこともできない。
息をすることさえ忘れてしまうほどの、恐怖。
見られていたのは数秒だったか、数分だったか。
そいつはわたしに襲う価値もないと判断したのか、壊れた壁から外に這い出した。
雨がそいつの姿を一瞬で隠す。
一人になったわたしは、安堵と混乱で放心状態になり、ぼんやり外を眺める。
夜空は雨雲でどす黒く染まっていて……
星は一つも見えなかった。
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次の投稿は明後日か明々後日になると思いますので、覚えていただけたなら、また読んでみてください。