96.寵愛と責任
来夜は作業部屋に差し込んだ月光を見やり、『スイッチ』を閉じた。眼鏡を外して目頭を押さえ、そしてうんと体を伸ばす。『鶺鴒の巫女』――斎が考案したこの魔力を用いた作業は非常に効率的だった。
作業を止めた来夜のもとに鵲がぱたぱたと寄ってきて、甘えるように肩へと止まる。
「わかった、わかったって」
来夜は魔力を帯びた彼らを撫でながら、外出用に少年の姿になり、長すぎる袖をまくりあげた。
「……さて、行こうか」
眼鏡がずれるのを押さえながら、来夜は満月に照らされた道の暗がりを歩く。魔力で気配を消しているので衛士に見つかることもなく、そのまままっすぐ呼び出された北宮までたどり着いた。
北宮を見上げれば、高楼で一人、月を眺める呼び出した本人――春果陛下の姿が月明かりに浮かんで見えていた。春果のそばには酒があるようだ。南方国産のものだ。
「陛下」
来夜が礼をすると、彼は薄絹を捲ってにこりと微笑み、こちらへ手招きする。来夜は鵲に変化して軽く空を舞い、ひらりと服をなびかせながら高楼に降りた。
「下戸が珍しいですね」
「うん。そろそろあっちから客が来るから、少し慣れとかないとねと思って」
陛下はあまり酒に強くない。実際、今日もあまり旨そうには飲んでいなかった。
「南方の酒、強いんですから。気をつけてくださいよ」
言いながら、来夜は髪を縛る白練りの絹帯をほどき、大人の姿に戻る。陛下は眩しいものを見るような目で来夜を見やる。
「その姿になるんだ?」
「子供の姿で寝酒に付き合うのはどうかと思いますし」
それからしばらく、来夜は陛下と共に無言で酒を傾ける。
月がまばゆく、陛下の翼も月明かりを反射してつやつやと綺麗だ。しかし彼の表情は昏い。
「どうして、」
来夜に言うというよりも、独り言のように陛下はつぶやく。その力のない表情に、来夜はかつての幼かった教え子時代の陛下を思い出していた。
「僕はどうして、もっともっと望んでしまうんだろう。斎は本当に、恩人の女の子って気持ち以上のものはなかったんだ」
「存じております。……人間は欲深い。みんなそんなものですよ」
「まあ、僕は皇帝だけど」
「そうですね」
「酒で逃げられるものでもないです。選択というものは」
有翼の佳人は翼を大きく広げ、そして膝をかかえ、閉じこもるように翼で体を包む。
「僕は斎を后にはできない。后にしてしまえば、彼女を悲しませることになるから」
「最初からわかっていて、貴方は特別扱いをしたのでしょう。その特別扱いをして変わってしまった、ご自身の心に責任を取りなさい。……あの娘の心にも」
春果は「はは、」と乾いた声で笑う。そして手元の書簡を手繰り寄せた。
ぱらりと開くと、そこには遠い南方国からの書簡が広げられていた。
『巫女婚礼の儀について 南方国王 九瀬・壹岐之香』





