95.春雷、鶺鴒を穿つ
――疲れていたのだろうか。
気がつけば私達は、抱き合ったまま眠っていた。
のそりとベッドから起き上がりながら、陛下は「よく寝た……」とつぶやいている。
その顔はどこか呆然としているようにも見えた。
「よく……寝てしまった……」
「お疲れだったのでしょうね」
「いや……もっと……もっとこう、……もっと、……あるんじゃないの? こういうときって……」
「陛下……? いかがされたんですか?」
よくわからないが、陛下は一人思い切り自問自答している。何か物凄い失敗を犯したような様子だが、いったい何があったのだろうか。私は少し考える。
「……陛下の翼は暖かくて、寝心地よかったですよ」
「ええと、そうじゃなくて……ああ、記憶開放ってこんなに魔力使うんだ……知らなかった……」
「……はあ……」
「まさか……熟睡……」
どうやらもっと、何か別の事をしたかった様子だ。確かに忘れていた記憶の話など、私も話したいことはいっぱいある。
「また次の機会もありますよ」
「……そうだね……あるといいね……」
「陛下、こちらこそ申し訳ありません。陛下の腕の中で眠ってしまうなど、不敬なことを……」
「何言ってるの、今更」
寝起きの顔のまま、陛下はふにゃりと笑う。そのまま陛下は手を伸ばし、私の髪を撫でる。
「寝癖ついちゃってる」
「……直してきます」
「ここにいて。もうちょっとだけ」
「承知いたしました」
陛下は私を背中から抱きしめ、そして肩に顔を埋める。
翼がはたりと揺れて、象牙色の髪が頬に触れてくすぐったい。
私よりも大きな体と大きな腕で、こうして甘えるように抱きしめてくるのが不思議な感じがする。
よほど、最近お疲れだったのかもしれない。
「陛下」
「ん?」
「陛下のお立場だと……こうして、一緒に時間を過ごす方もなかなかいらっしゃらないのだと思います。私でよろしければ、いつでもこうしてお傍にいますので。ご用命あらばいつでもおっしゃってください」
肩に埋めたままの頭が揺れる。陛下が笑う気配がする。
「斎は僕の気持ち、分かってないふりをしているの? 分かってて、そういう事いってるの?」
「……気持ち、ですか?」
なにか察していないのだろうか。私は陛下の触れる重力を感じながら、ひとつひとつ考えてみる。
陛下は私の事をずっと覚えててくれていた。
陛下は私と熟睡した。
陛下は今、すごく甘えたそうだ。
「……気持ち………………」
私は考え込んだ。
「……」
頭のどこかに栓がされているようで、全く何も思い浮かばない。『スイッチ』を入れて頭を活性化させても、なんとなく意味がない気がする。全く頭が働かないのだ。
「申し訳ありません。……陛下がすごくお疲れで、こう……人肌に頼りたいときがお有りということしか……」
「誰でもいいわけじゃないんだよ」
「承知しております。……陛下の御尊顔をまっすぐ見られる相手も限られていますもんね」
「……そういう意味じゃないんだけど……」
陛下は言いながら、私をぐっと引き寄せる。後ろに倒れかかるようになって慌てて顔を見上げると、陛下は目を細めて微笑んでいた。
「今はこれでいいよ。……斎との時間は、長ければ長いほど幸せだから」
「陛下……?」
長ければ長いほど?
陛下の言葉選びにきょとんとしていると、陛下は私を見て、笑った。
「ねえ、斎」
「はい」
「君とこうして来たかった」
ふと、陛下の目が私の襟元に注がれる。
なにかあっただろうかと思ってるうちに、陛下はそっと私の襟に指を触れた。
「耳飾り」
「あ」
「ずっとここにつけてくれてるんだ」
「申し訳ありません。耳に穴をあけていないので」
「挟む形のものに作り替えさせようか」
「いえ、できればいただいた形のままで、大事にしたいので……」
「……そう」
そう言うと、不意に陛下は真面目な眼差しで私の襟に触れる。
「陛下……?」
襟の裏に指が入る。
喉に陛下の指が触れ、襟の中でうごめく。
「……ッ……」
そして刺していた耳飾りの留め具を一つ、外す。
陛下の手はそのまま離れ、その指先には耳飾りがあった。
「いい事思いついた」
灰青色の瞳が細くなる。時折見せる、猛禽を思わせる眼差しだった。
「開けてあげる」
「え」
薄い唇から八重歯をのぞかせ、陛下は笑う。次の瞬間、耳飾りを持った手のひらでバチッと小さな火花が散った。
小さな春雷で耳飾りの先端は尖り、微かに煙をたなびかせている。
「消毒したよ」
「……その……消毒って……」
綺麗な美貌で言うには随分と乱暴な消毒だ。
「……もしかして、そのまま、刺すんですか?」
思わず身を起こして向かい合うと、陛下は耳飾りを手のひらで弄びながら私を上目で見る。
「嫌なら、しないけど」
「……」
陛下は私に手を伸ばす。
ただその手の伸ばし方は、私が嫌なら逃れられるような伸ばし方だった。
近くで見る灰青色の透き通った瞳の表情が、抵抗なんてできなかった。
耳にあたたかな指が触れる。
「ッ……」
それと同時に熱した固いものが触れ、私は息を飲む。
――空けられる。
ぎゅっと目を閉じて痛みを待つ。
「…………」
「…………」
「…………嫌がらないの?」
陛下の声は、彼も悩んでいるような声に聞こえた。
「陛下が望まれるのでしたら」
「……僕が望まないのなら、斎はしたくない?」
目を開けると、こちらを案じるような陛下の顔が近くにあった。
息が触れるような距離で、陛下は私を見ている。
――これも、望めば全てが手に入る人ゆえの悩みなのだろう。
「私、は」
声が掠れる。陛下の視線が恥ずかしくて顔が熱くなる。頭に血が登ったらだめだ。余計に痛くなってしまうのでは、と思う。
思ってもどうしようもないけれど。
「つけたいので、襟につけてました。刺していただくのなら、陛下がいいです」
私は意識して笑顔を作った。ちゃんと笑えただろうか。
ぶつり、と音が聞こえる。
痛みよりもその音のほうが痛かった。
「……ッは………………」
息を詰めていたのを吐き出す。じんじんと痛みが、雷に打たれたように痛い。
「じゃ、もう一つ」
陛下は私の襟からもう一つを外そうとして――私の様子に眉を下げて手を止める。
「もう一つはやめよっか」
「え、……しかし」
「そのかわり、こっちは僕が貰っていい?」
「ひゃ」
もう一度、襟に陛下の指が触れる。
息を詰めているうちにもう一つの耳飾りも外され、陛下はそのまま、自分の耳飾りを外す。
慣れた手付きで私の耳飾りを右耳につけると、髪をかきあげて見せてきた。
「ほら、おそろい」
「そ……そうですね……」
透き通る肌と、象牙色の柔らかな髪。耳朶にぶら下がる白い組紐の耳飾りが、そこだけ妙に安っぽくて浮いて見える。
「私が使ったもので、なんだか申し訳ないですね」
「そう? ……僕は、嬉しいけど」
陛下は目を細めて、髪の毛を下ろして耳を隠す。
「僕だけの秘密にしたいから、普段はつけないけど。かわりに、そっちの耳飾りあげるよ」
「えっ」
軽い調子で手のひらに耳飾りを乗せられ、私は慌てる。
琥珀が嵌め込まれたそれは意外なほどに軽かったけれど、価値の重みは相当なものだ。いわゆる下賜、だ。
「す、すごいものではないのですか? これは」
「ふふ。僕が皇帝になった時に父から直接譲られたものだよ。目録にはない私物だから安心して」
「そ、そう言われましても」
手のひらに乗せたその価値に、指が震えそうだ。
「……よろしいのでしょうか、私が、こんな……」
「それ雪鳴に預ければ、いいお店で襟留めに変えてくれると思うから」
「変えて良いんですか!?」
「変えて。そしてつけて欲しい」
「でも……」
陛下は無言でにっこりと微笑み、耳飾りを包むように私の手をぎゅっと包み込む。
有無を言わせない態度に、私は折れるしかない。
「……はい……かしこまりました……」
私が陛下からもらったというのを、雪鳴さまに示せ、という意味だ。
私は何がなんだかわからない気持ちだった。
一体、私は、私なんかに、どうして、こんな。
「うーん……このままじゃ暗くなっちゃうね。帰ろっか」
陛下は伸びをひとつするとベッドから降りる。
私も一緒に降りようとするが、うまく力が入らずぺしゃりとベッドに倒れ込む。
「斎?」
「……足腰が……力が、入らなくて……」
「……うそでしょ?」
陛下は目を見開いて笑う。
「嘘じゃ……ないです……」
どうしてか、私は足に力が入らなくなっていた。よろよろと立ち上がろうとする私に、陛下は困った顔で笑う。
「ふふ。まるで、僕がなにかしたみたいじゃない」
「……すみません……」
「まあ、しちゃったけど」
陛下は微笑んで、手を差し出す。
「ほら、つかまって」
私は陛下の手につかまる。
手に触れることが不思議と当たり前のことのような感覚がする。
少し体重をかけて握ると、陛下はそれより強く、優しく握り返してくれた。





