94.私が助けた滅亡帝国の『愚帝』は綺麗な天使でした。
「斎。起きて。……夢は終わりだよ」
陛下の優しい静かな声が聞こえる。
気が付いたとき、私の目の前には目を閉じた陛下の顔があった。
額が触れている。陛下の穏やかな息遣いや、翼から漂うほのかな香油の香り、頬を包み込む大きな手のぬくもり――五感から、少しずつ意識が現実に戻ってくる。
「……陛下…………あの……」
顔を少し離した陛下が目を開く。そのかんばせに、今見た『夢』と目の前の現実がぴたりと重なる。あの華奢で痛々しかった『春果お兄さん』と、今目の前で優しく微笑む『陛下』が重なっていく。
「思い出した? サイ」
声変わりをしていても、柔らかな口調と小首をかしげる仕草は変わらない。
私は胸がいっぱいになった。
「陛下。……陛下。あの時、……あの時、翼が……」
「そう。僕はあの時君に助けられた。気が狂いそうだった僕に手を伸ばしてくれた、たった一人の人」
「……陛下……ご立派になって…」
「君こそ。頼もしくて、綺麗な女の子になった」
私の手を取り、陛下はこつ、と額を合わせる。
「僕は君のこと、心から尊敬していたんだよ」
胸の奥から、温かなものがいっぱい溢れてくる。
この人はずっと私を見てくれていた。覚えてくれていた。
「君に助けられて気づいたんだ。強い力を持って生まれたのなら、それをきちんと活かさないとって。辛い運命を抱えても、一生懸命生きてる君を見て……僕は立派な皇帝になろうと思えたんだ。僕の生き方で、僕の大切なものを守っていこうと……父や来夜がなし得なかったことを、僕が受け継いでいこうと。僕の人生で、大切な人たちの人生を肯定していこうと」
「陛下……」
「僕は君に、胸を張って会いたかったんだ。中央国の鶺鴒の巫女と、東方国の皇帝として」
「私は……処刑されるような、悪い巫女になっちゃいましたが」
「君にはどうしようもない運命だったでしょ? 最後まであらがった君は立派だったよ」
陛下は微笑む。
「最後、命乞いもせず、恨みごとも言わず――焼かれる家をまっすぐ見つめ、そして背筋を伸ばして婚約者に頭を下げる君は、本当に綺麗だった。ずっと思い出の中で大切に思っていた小さな女の子だったのに、びっくりするくらい、綺麗なひとになっていた」
「褒め過ぎです。……あのときは、汚くてみっともなかったはずです」
今思えば恥ずかしい。
抱き上げられたとき、ぼろぼろだった私は本当にみすぼらしかったはずなのに。
「あの時は……本当に、ありがとうございます」
「こちらこそ。君のお陰で、僕は『愚帝』にならずにすんだ」
陛下の口から出た言葉に、私は電撃を受けたような衝撃を覚え、そしてすっかり忘れていた前世の記憶を再び思い出す。
前世、いわゆる『脳死周回』で適当にスキップしたスチルの中で『愚帝』として斃れた彼の姿を。
破壊された東方国の広場、落雷と豪雨。泥まみれになった白絹の衣。
土気色の肌、ぐちゃぐちゃになった、象牙色の髪。
身代わりを見捨てて宮廷から逃亡したと謗られた、滅亡帝国の『愚帝』。
もし、サイ・クトレットラがあの日、春果お兄さんを助けようとしていなかったら。
悪夢におびえるばかりで行動をしていなかったら。
陛下が東方国と共に滅亡する『愚帝』となったシナリオそのままの運命が陛下に訪れていたとしたら。
「私は……知らない間に、陛下の運命を変えていたんですね」
「そうだよ。僕はあの日君に出会ったから、自暴自棄で寂しい、ちっぽけな皇帝にならずにすんだ」
私は知らない間に、彼が滅亡する運命を変えていたのだ。
彼はきっと、これからも愚帝と呼ばれることはないだろう。
「ねえ」
陛下が少し低い声で問いかける。ぞくり、と体が甘くしびれるのはどうしてだろう。
「はい」
「……抱きしめてもいい?」
「聞かれなくても……」
「皇帝だから命令で許されるとか、勝手に抱きしめてもいいとか、そういうのは嫌なんだ」
陛下の声が震えているのに気づく。陛下は色白の頬を真っ赤にして、思いつめた顔をしている。まるで私の返事によっては泣き出してしまいそうなほどに。
愛しいと思った。
「斎が嫌なことはしたくない。斎が『皇帝だから』許してくれることも、したくない」
「私は、春果さまに抱きしめられたいと思っています。……私で、よければ、ですが」
言い切るまえに、私の体は春果さまに引き寄せられ、きつく抱きしめられていた。
「ん……」
「斎」
ふわふわの髪が顔にふれてくすぐったい。吐息が、首筋に触れる。
陛下が確かにここに生きていて、現実で抱きしめられている鮮やかな感覚。陛下の、纏った柔らかな絹の向こう側に固い腕の感触がある。その奥に温かな体温がある。
「陛下……」
陛下の頬に、私はためらいつつも頬を寄せる。それに呼応するように、静かに翼がふわりと広がる。
私はそのまま、陛下に包み込まれた。
陛下――春果様の体は、とてもあたたかだった。