93.回想/消えない悪夢と、消えた夢の時間。
その後、春果お兄さんの汗も引き、顔色も見違えるように明るくなっていった。
「動かしても、痛くないかな……」
春果お兄さんは背中の翼をこわごわと広げる。体をすっぽりと包むほどの大きさの褐色の翼は羽の一枚一枚がつやつやと輝いて、宝石のような光沢だった。
「綺麗……」
サイが見惚れていると、お兄さんはその様子に少しはにかむ。
「ありがと。……痛みもすっかり取れたよ。……ありがとう、サイ」
「それは何よりです!」
サイは嬉しくなり、そして状況を思い出す。サイは不法侵入者だ。
「じゃあ、サイは帰ります、さようなら」
「ま、待って」
「……?」
「あ……」
春果お兄さんは口元に手を添え、困惑した顔でこちらを見ていた。とっさに呼び止めてしまったことを後悔しているような、悩んでいるような顔だった。
彼はそのまましばらく黙り込んでいたけれど、数秒視線をさまよわせ――翼を小さく畳みながらつぶやいた。その頬は、きまり悪そうに少し赤い。
「ねえ、サイ。もう少しだけ……話し相手になってくれないかな。……その……僕、最近あまり、誰とも話せていないから」
「わかりました。ここに座っていいですか?」
「うん、もちろん」
サイはベッドに座る春果お兄さんの隣に腰を下ろした。隣に来たサイに彼は眉根を下げて嬉しそうに笑う。細くて柔らかそうな髪の毛も、透き通るように白い肌も、お人形みたいで綺麗だとサイは思った。
「こうして誰かと、目を合わせて話すのも久しぶりだし、嬉しいな」
「春果お兄さんは、ずっとここにひとりぼっちなのですか?」
「うん。……この姿を、見られたらいけないから」
長い睫毛を伏せて、彼は翼の先端を指で弄ぶ。
「今僕は『羽化期』っていってね。翼が生えてまだ安定しない時期なんだ。だからずっと痛いし苦しいし……そういうみっともない所は、人に見せたらいけないんだ」
「私みちゃいましたが」
「……サイはいいよ。もう。仕方ないし」
それからお兄さんとサイは他愛のない話をたくさんした。
サイの生い立ちから、どうして今日、中央国の首都にいるのか。
お兄さんは翼が生える前、どんな生活をしていたのか。どんなことが好きだったか。
「お兄さん、本当のお父さんとお母さんと一緒に暮らしていないんですね」
「暮らしていないどころか、顔もみたことないよ」
「……寂しくなかったのですか?」
「それ自体は、ね。僕にとって育ててくれた人たちと、兄だと思っていた人が本当の家族だと思いこんでいたから。……今更、本当は別の親がいます、生活が変わりますって言われてもね。……まあ、弱音なんて吐いてる場合じゃないし、僕は強くならないと」
「お兄さんは立派ですね。私も頑張らないと」
「サイはがんばってるでしょう? もう、たくさん」
「ううん。まだ足りないんです」
サイは窓の外の空を見やった。空は青くてよく晴れていた。悪夢でも、サイは何度も青空を見ている。
「私は悪夢を見るんです。その悪夢を現実にしないように、一生懸命がんばってるんです」
「悪夢……?」
「怖い悪夢です」
「よかったら僕に聞かせてよ。悪夢は誰かに話せば正夢にならないっていうし」
「そうなのですか?」
両親を不安にさせたくないので、サイはこの夢の話を誰にも話したことがなかった。サイはなぜか、この初対面のお兄さんには話していいような気がした。
それから、サイは夢の話をぽつりぽつりと春果お兄さんに話してきかせた。
自分が『悪の巫女』として、ひとりぼっちになって家を焼かれて処刑される悪夢を。
その悪夢が現実のものにならないように頑張っているのだと。
夢の話だと笑われないか不安だったけれど、春果お兄さんは年下の女の子のサイの不安を真剣な顔で最後まで聞いてくれた。
「……怖くないの? 自分ではどうしようもない運命が」
全てを話し終えた後、春果お兄さんはサイに尋ねてくる。サイは素直に頷いた。
「怖いです。でも、泣いて怖がるのも、自分ができることをいっぱいやった上で怖がるのは別なので。もし正夢になったとしても、お母さんやお父さんやばあばや、領地のみんなや……あと、春果さまに、恥ずかしい女の子にはならないように、いっぱいいい子でいたいんです。もし死ぬことになっても胸をはって、私はこんなひとです!って、『鶺鴒の巫女』として恥ずかしくない子でいたいので」
「……眩しいね」
春果お兄さんはそう呟いて、サイの黒髪をくしゃくしゃと撫でた。撫でる勢いが強くて、サイは頭がゆらゆらと揺れる。
「サイは黒髪です。まぶしい所はないですよ……」
「ふふ。そういう意味じゃなくて」
「眩しいといえば、春果様ですよ。まるで天使みたい」
「天使?……天使って、何?」
「あれ、なんだろう……あれ……?」
この時、サイは前世の記憶と今の記憶が混乱していた。サイ・クトレットラとして得た知識なのか『前世』で得た知識なのかわからないまま、サイは春果お兄さんを見て感じたことをそのまま口にする。
「羽が生えて、髪の毛がふわふわして、とても神秘的な人です。すごく綺麗なの」
「……そうか、……僕は、そういうにみえるんだね、君には」
その時、こんこん、とドアがノックされる。二人はびくりと肩を震わせる。
「春果さま。お食事をお持ちいたしました」
「そこに置いておいて。あと、体を拭くものと着替えも頼むよ」
「かしこまりました」
侍女はあっさりと去っていく。彼が他の人とほとんど顔を合わせないというのは本当らしい。
サイはぴょこんとベッドから降りた。
「そろそろいきますね」
「うん。……さみしいけど、またいつか」
「悪の巫女になって、処刑されて死なないように、私もがんばります」
「ただの悪夢なのに大げさだなあ。大丈夫だよ、君なら」
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その後、サイは両親を紛争で失い、聖騎士アレクセイ・ストレリツィと婚約し住まいを王都に移した。侍女として、医薬局の非正規事務職として勤めながら、サイは春果の前で誓ったように『鶺鴒の巫女』として恥ずかしくない生き方をしようと心に誓い、邁進した。
ある日医薬局を視察に訪れた即位したての東方国皇帝・春果に記憶を消されるまで――サイの中では、『春果お兄さん』とのつかの間の出会いは、一人ぼっちで生きていく人生の中で、きらきらと輝く心の支えだった――





