92.回想/春果お兄さん
お兄さんはサイと一緒に部屋に倒れこみ、そしてかすれた声でサイに尋ねた。
「君は、……だれ……?」
胸はなく、肩も腕も骨ばっていたので、サイは『お兄さん』だとすぐに分かったけれど。彼の顔立ちだけ見ると、今まで見たこともないような綺麗な女の子のようだった。
お人形のような綺麗なお兄さんは、サイの手首を掴んだまま、真剣な顔をしてもう一度問いかける。
「君は、誰?」
引っ張り込んだサイのことを、まだ信じられないといった風な顔をしている。
「サイ・クトレットラと申します」
サイは立ち上がり、ドレスの裾をつまんでお辞儀をした。
彼も挨拶をしようとしたが、
「――ッ!!!」
顔を歪めて床に崩れ落ちる。サイは急いでかけよって、彼の背中を撫でる。そして外に漏れないように小声で声をかけた。
「大丈夫、ですか?」
「ありがとう」
彼は一言お礼をいい、よろよろとベッドまで戻っていく。
「……ぐあ………」
背中には大きな翼が生えていて、彼の意思とは関係なく、ばさばさと動いている。
サイは大きなベッドによじ登り、お兄さんの両手を握る。
「君、何を……」
お兄さんが咎める前に、サイは息を吸い込み、魔力を放出する準備をする。
ひとまずとにかく、応急手当だ。
「『私はサイ・クトレットラ。鶺鴒の加護を持つ鶺鴒の巫女』……ええと……『私サイの魔力を、この眼の前のお兄さんに分け与えます。お腹のなかから、熱いものが、魔力が、手を通って、お兄さんにながれこみます』」
サイは目を閉じ、魔力を分け与えるイメージをした。
本来は彼の名前を知らなければできない方法だが、まずは少しでも痛みを取ってあげたかった。
サイは『言葉』の力を自分に作用させ、まずは魔力を肚で練る。そして胸を通って、腕から、つないだ手のひらまで魔力を流れさせていき、そこから彼へと注がれていくのをイメージする。
本来流し込みたい量の半分くらいしか流せないけれど――だんだん、彼の体の強張りがとれていく。
「……はあ……」
お兄さんが目を閉じて吐息を吐く。
すっきりと穏やかな表情をして、サイの魔力を受け入れていた。
深呼吸を何度かくりかえすと、お兄さんは灰青色の瞳を開いてサイを見た。
「君の魔力、強いね……。そうか、魔力が強い上に、正しく修練を積んでいるから……ここで、僕の魔力が暴走しているのに気付いて、癒やしに来てくれたんだ」
サイは頷く。
彼の言葉は聞いたことがない抑揚がついていて、先ほど表に立っていた武官と同じ訛りなのだとわかる。けれど武官の人にくらべてずっと綺麗で滑らかな言葉遣いなので意味は取りやすかった。
「ありがとう。でも見つかったら重罪だよ? ……危ないこと、もうしたらだめだよ」
「私は『鶺鴒の巫女』です。苦しんでいる人がいるのに、放っておけません」
「……優しいね」
「でも、お兄さんの言うとおりです。申し訳ありません。もう来ません」
「うん。それがいい」
「……だから、今日、もっと治させてください」
「え」
サイは彼の手を握って訴えた。彼は驚いた顔をしている。
「僕の話聞いてる?」
「私、治せます。『鶺鴒の巫女』だから。治させてください」
「……」
「……だめ、ですか?」
「気持ちはありがたいけれど」
お兄さんは綺麗な目を伏せる。
「……ばれたら君がただでは済まないし」
「もうただではすみません。勝手に入って、翼が生えた秘密の方とお話してしまった私は、もう既に『たいざいにん』です」
彼ははっと目を見開き、そして――自分から生えた、大きな翼を見上げた。
苦笑いする彼は、サイにはとても物悲しそうに、寂しそうに見えた。
「……そうだね。この翼を見られてしまったら、もう何も隠しようがないね」
サイはぎゅっと強くお兄さんの手を握った。
「治してからばれても、治さなくてばれても同じくらい悪いことなら、治させてください。お願いします。すぐに終わります。痛くないし。……しばらくは、楽にさせます。ぜったい」
「頼もしいね」
お兄さんは初めて、ここで弱々しくも微笑んだ。
花がほころぶような微笑みに、サイは胸の奥がどきりとした。
「誰かと話したのはいつぶりだろう。こうして、目を見て話したのも」
「目……?」
「知ってた? 僕の目、魔力が強いから……君みたいな子じゃなかったら、目を見た瞬間、失明しちゃうんだよ」
「……!!」
サイは思わず目を覆う。
その仕草に、たまらないといった風にお兄さんはけらけらと笑った。
「もう遅いって。あはは、君、頭いいの? 抜けてるの? どっちなの」
可憐な見た目とは違う、人懐っこい『ただの男の子』の笑い方にサイはちょっとびっくりした。急に、お兄さんが親しみのある普通の男の子に見えてきた。
「君も迂闊だけど、僕も迂闊だ。はは……迂闊者同士、しかたないね、今日は」
「お兄さん、お名前を教えてもらえますか? 『鶺鴒の巫女』は、お名前を聞くと、一番魔力を出せるんです」
彼はいたずらな微笑みを浮かべ、形のよい唇に人差し指を押し当てる。
「……誰にも言わない?」
「いいません」
「……春果っていうんだ」
「はるか、さまですか?」
「うん。東方国の言葉で、春に実る果実って意味。……国に春をもたらしてほしい、実りをもたらしてほしいって事らしいんだけど」
「素敵なお名前ですね。春果様。……おぼえました」
サイは何度か名前を復唱して……そして、春果の手をにぎる。
『……春果様』
サイは口にした瞬間、ぶわ、と体中の力が漲るのを感じた。
うまく接続できて、彼の本名を知ることができた印だ。これなら大丈夫だ。
サイは春果と両手を絡め、額を合わせ、目を閉じた。
『春果さま。これから、手から肩から温かいのが伝わって、体いっぱい気持ちよくなります』
「……ッ……」
『楽にしてください、春果さま……』
触れた額から、絡み合った指の間から、互いの体の熱が上がっていくのを感じる。
――先程までと全然違う。
『春果さま、』
ええと、こういうときはどう言えばいいのだろう。サイは考えた。
父が、冷えて固まった軟膏を手のひらでゆっくりゆっくり混ぜて柔らかくしているのを思い出す。そうだ、これは柔らかくするんだ。
『とろとろにしてさしあげます。春果様。体を、楽にして……』
「――ッ!!!」
サイは体の中の熱を、目の前の春果お兄さんに注ぎ込むようにイメージした。