89.回想/サイ・クトレットラという少女
(これは……中央国の、空……?)
気づいた瞬間、体が引き寄せられるように一台の馬車へと近づいていく。
馬車の中には懐かしい姿があった。
(お父様、……お母様……!!!)
彼らのそばには黒いドレスを着た小さな女の子が座っていた。
それが自分、サイ・クトレットラだと気づいた瞬間。
私は当時の光景に呑み込まれていった――
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東方国の国境に位置するクトレットラ領は王都から離れた辺境の地。
聖騎士団に呼ばれて王都に向かうクトレットラ家族は、もう4日も馬車に乗り続けたままだ。
クトレットラ夫妻の一人娘、サイは疲れた顔を見せず、馬車の車窓からずっと外を眺め続けていた。
「……この子はどうしましょう」
「サイは関係がないからね。王都を見聞しておくのも大切だからと連れてきたけれど」
長い髪を結い上げた黒髪黒瞳のサエ・クトレットラ。
茶色のゆるい巻き毛をぼさぼさにした、茶色の瞳のダイス・クトレットラ。
二人はサイの両親で、ほぼ名目だけのクトレットラ領主だ。
「図書館があるんですよね?大人のお話をしているあいだ、私、図書館行ってみたいです!」
両親は娘の言葉に顔を見合わせる。
「確かにサイはもう大人の本をもう読めるけれど……このちいさな子がそれだけ読めるって、図書館で理解してもらえるかな?」
「難しいかもしれないわ」
「本ー!」
「わかったわかった。じゃあ、本はあとでお父さんと一緒に行こう」
「じゃあサイ、お母さんがサイに宿題を出してあげる。いい?」
「なんでしょうか!」
サイが背筋を伸ばすと、両親はおかしそうにする。
曲がったサイのリボンを結びなおしながら、母はサイに宿題を出した。
「王宮を取り巻く城壁の中には、大使館や図書館や聖騎士団の寮や裁判所や食堂や、様々なものがあります」
「いろんなもの……」
「サイは今日、色んな所の門番さんに挨拶をしてまわりなさい。そして、どんな建物があったのか覚えてきて、私たちに教えて頂戴。どんな服装の人達が、どんな風にはたらいているのか、お邪魔しないようにみてきなさい」
「はい」
妻の娘への宿題に、夫ダイスは首をかしげて見せる。
「大丈夫かな? この子一人で迷子になったり、不審者扱いされたり……しないよね?」
「『鶺鴒の巫女』と名乗れるし、いざとなったら魔法で、『防犯ブザー』っぽく音を鳴らすことくらいできるわ、この子は。城壁の中なら少なくとも安全だし、私も魔力が遠くに行かないように意識してるから」
「防犯ブザーって……君、たまに変なこと言うよなあ」
「うふふふふ」
サエは笑ってごまかす。その時馬車がゆっくりと速度を落とし、歩みを止めた。
「じゃあ、いってらっしゃい!」
「はい! お父様もお母さまも、お気をつけて!」
サイは一人ぱたぱたとかけていく。両親は二人でしばらく、その背中を眺めていた。
穏やかな親の顔をした二人の顔から柔らかさが消える。
「……あの子の笑顔のためにも、私達は……なんとしても『聖騎士団』に入るわけにはいかない」
「がんばろう、サエ」
華奢な肩を夫が抱き寄せる。サエは静かに目を閉じ、その胸に軽く頬を委ねた。
「ええ、ダイス。……頑張りましょう」
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サイにとって王都は初めてだった。どこまでも広がる整えられた芝生。見たこともないきらきらとした甲冑の騎士。スカートを翻して忙しそうに働くメイドたち。道は馬車が何台も行き交い、たくさんの侍女を連れた貴婦人に、見たこともない鮮やかな服を着た紳士。
見るもの全てが田舎娘のサイには珍しい。
あちこちを歩き回るサイをみて、人々が多様な態度を見せるのも興味深かった。
咎めるような顔をしたり、不思議そうな顔をしたり、にこにこしたり。
村とは違うのは、話しかけられないことだ。村なら多分すぐに話しかけられるから。
ちょうど表の通りから見えない、暗くて小さな建物が並んでいる所に入る。ちょうど洗濯場だったらしい。洗濯場の隅っこで、年老いた洗濯婦が指をさすっているのが見えた。
ててて。サイは彼女にかけよっていく。
目が合う前にぴしりと立ち止まり、背筋を伸ばしてカーテシー。
「あら、どこのお嬢様でしょうか」
「私、サイ・クトレットラと申します。おばあさま、ごきげんよう。おててがいたいんですか?」
「……こんなところに入ってくると、お父様やお母さまに叱られますよ。早くお戻りください」
「大丈夫です! 怒られません。だって挨拶して回りなさいって言われましたので」
にっこりと笑うサイに、洗濯婦はあっけにとられた顔をする。
「それって……私のような身分の者相手ではないと思いますけどねぇ……」
「それよりもおばあさま。おてて、なでなでしていい? 痛そうで心配になりました」
「……いいのですか? 汚れていますよ」
洗濯婦の言う言葉の意味がつかめず、サイは首をかしげる。サイは領主の娘とはいえど農村の娘で、さらには『鶺鴒の巫女』の娘だ。野良仕事で普段土にいっぱい汚れ、薬品の掃除でぼろ雑巾を絞ってお手伝いをしたことがある少女にとって、洗濯婦はむしろ「清潔なおばあちゃん」だ。
サイはそっと洗濯婦の手を小さな手で持ち上げる。
手は長年のしごとで骨と骨の関節の間が擦り切れて、痛くなっているようだ。
(これは薬でも治らない……一生痛い痛みだ)
サイは両親から教えてもらった知識を思い出しながら考える。そして困惑した洗濯婦を見上げた。
「おばあさま、私はサイ。しつれいですが、おばあさまのお名前をおしえてください」
「なんだね、サイ? 変な名前だね……私はアリアだよ」
「アリアさんですね。……」
サイは息を吸い込む。
「『アリアおばあちゃん、まるで温かなタオルで手を包み込んだように、お手手があったかく、あったかく、いたいのがとんでいきます』」
手が温かな光に包まれ、青ざめていた指先に血の気が戻っていく。
少女に手を握られ、怪訝な顔をしていたアリアは驚いた顔をする。
「すごいですね。お嬢様、魔力が使えるのですか?」
「うん! ちがった、……はい!」
「ありがとうございます。……これだけ上手だったら、いつか聖騎士団のお嫁さんになるかもしれませんね」
「私は聖騎士団のお嫁さんにはならないです。お父さんみたいなお医者さんのお嫁さんになりたい!」
元気いっぱいに口にするサイに、洗濯婦は何かにはっと気づいたような顔をした。
そしてなかったことにするように、優しい笑顔で少女の手を両手で撫でさすった。
「そうなのですね。では、お嬢様は聖騎士団にお嫁さんにされないように、能力は隠しておきましょう」
「はーい」
サイは素直に返事をしてアリアと別れを告げ、そして再び城のあちこちを眺めて回った。
サイは、本当は人を治してはいけないとわかっていた。
魔力の扱いには誰より厳しい母に、それはこっぴどく怒られるからだ。
――それでも、サイはわからない。
痛いと言っている人を治したら、何がいけないんだろう。
サイはできれば、みんなが痛くないのが一番だと思っている。
でもお母さんを怒らせたくない。
だから、お母さんに隠れたところで治してあげると決めていたのだ。
「私は『鶺鴒の巫女』としてちゃんと生きるんだ。生きないと……」
ぶるりと寒気が背中を走る。
サイは、『鶺鴒の巫女』としての能力が開花した頃から悪夢にうなされていた。