88.もうそろそろ、君に思い出してほしい
先帝が最期に住まった『北楡宮』は、海を見下ろす崖の上に位置していた。
鶺鴒宮とほぼ変わりないほどの広さだったが、衛士に守られた門の中は無人で、手入れこそされてあるものの淋しい場所だった。
亡き主を弔うように庭園は綺麗な多年草が植えられていた。今は桔梗が盛りらしく、美しい青い花弁があちこちで一斉に咲き乱れている。ひっそりと隠れるように庭師が手入れをしていたので、私は静かに会釈した。
陛下は迷わず回廊を抜け、最奥の寝室へと足を踏み入れた。
不思議な形の部屋で、まるで神殿のようだと思う。
誰もいないけれど掃除はされているようだ。
天井から光が差し込んでいて、陛下の象牙色の髪を淡く輝かせる。
見上げてみると、硝子が嵌め込まれて採光できるようになっていた。
「僕が今日来ると言っていたから、掃除されている。侍従たちはいないよ」
言いながら陛下は上着を脱ぎ、寝台にうつ伏せに寝そべる。そして翼を広げながら、くるり、と仰向けになった。
耳元に海があるように、海の音が大きい。その合間をぬって鋭い風の音も、ごう、ごうと響く。
陛下は仰向けになったまま、私を手招きした。
「こっちにおいで」
「ですが」
彼は少し声に笑みを含ませる。
「誰もいないんだし、いつも同じ寝所にいるでしょ?」
半身を起こしてこちらを見やる陛下は、いつになく悪戯な上目遣いをしてくる。
「それとも、僕が何かしそう?」
「何かとは」
「たとえば、」
「――ッ!!」
陛下は私の手首を掴んで、引っ張ってきた。
「ッ!」
まさか引っ張られるとは思わなかった。
何の抵抗もできず、私は陛下のとなりにぼふ、と顔から落ちる。
「……っ、陛下…………」
私が体を起こそうとすると、陛下は覆いかぶさるように、私の顔の横に両手をついていた。
陛下は私を見つめている。
私はつい顔が緩んでしまう。
「ふふ……」
「……何」
「……陛下、あんがいいたずらっ子ですね」
「この歳の男にこうされて、それ言う?」
肩をすくめるように、翼がふわり、と上下する。陛下はそのまま、ごろりと横に横たわった。
「なんでもいいや。ちょっと浮かれてるのかも」
陛下は天井を見ていた。私もならって、一緒に隣で天井を見る。
「……綺麗な天井ですね」
天井の中心には硝子が嵌め込まれていて、螺鈿を用いた美しい窓枠が支えている。細工は細やかで、四方に神獣のようなものがついている。前世で言う朱雀とか玄武とかだろうか、とよく見てみるが、すべて鳥のようだ――創世神話に出てくる『天鷲』と、彼を助ける十二の巫女の鳥だと。
見事な意匠に目を奪われていると、隣で陛下が静かに「斎」と名を呼んだ。
「はい」
天井を見上げる陛下は、とても平らかな表情をしている。
「先帝――春楡先帝陛下の話は、もう色々と耳にしたでしょう?」
「……全てを知ったわけではありませんが……さわりだけは、うかがいました」
陛下は笑う。
「世間の評価はみんなや、来夜から聞いて判断するといい。僕が言うよりももっと饒舌に、みんな父について語るだろう。……実際のところ、僕は父の政治については語れる立場ではない。生まれてからずっと母の実家――錐屋にいたし、僕を巻き込んで政治が泥沼化しないように、錐屋の家から離れたあとは中央国の大使館に匿われていたし」
「……大変だったんですね」
「寂しかったよ。……最初は自分が皇太子ということも知らずに、自分のことは雪鳴の弟だと思ってた。来夜はただの、家庭教師の先生で……だから本当の両親は別に居て、しかも父は国中から批判されていた『愚帝』だなんて、知ったときは……辛かった」
「陛下……」
陛下は私を見た。間近で、陛下はまるで子供のような顔をして私を見る。
私に手を伸ばそうとして……そして軌道を変え、天井に手のひらをかざす。
「敬愛する先生も屋敷の外では『北方国の奸狐』なんて言われていたしね。彼は誠実に僕たちに学問を教えてくれたのに。彼は宮廷から追放されても、東方国の未来の為に働いてくれたのに……僕の敬愛する人たちは皆、国からはよく思われていない」
「陛下は『賢帝』となることで……陛下の大切な先帝陛下や来夜様へのお返しをしようと思われたのですか?」
「そうだね。僕まで、『愚帝』なんて言われるわけにはいかないから。僕がみんなに認められることで、僕の大切な人たちが間違ってなかったって……証明したい」
彼は体を起こす。そして、私を見下ろして優しく微笑む。
翼が影を作る。天井からの光を背に受けた、陛下に目を奪われる。
灰青色の瞳の中に、私が映っている。
「いきなり……『皇帝』にしかないと言われる翼が背中から生えてきて。「お兄ちゃん」だと思っていた雪鳴が敬語で傅いてきて。怖かった来夜も折檻をぴたりとやめた。両親だと思っていた人たちは別人で、本当の両親は『愚帝』と蟄居処分中の母で。大好きな来夜は『北方国の奸狐』で……」
陛下は饒舌だった。
私以外誰もいない空間、父親の最期の場所。
宮廷から遠く離れ、波の音に閉ざされた場所で陛下は纏っている全てを一枚一枚はがすように、思いのたけを言葉にしていく。
ただの家臣で巫女ならば、陛下の弱音を聞きすぎるのはよくないはずだ。
けれど私は、陛下の幼い弱音がとても、いとおしいと思う。
「……そして、僕は……大人たちから……『お飾り』として求められているのを気づいた。愚帝とすげ替える人形としての、皇帝。幼い頃から『皇太子』として自覚なんてなかった。それなのにいきなり『ばかな父親の代わりに皇帝になれ』と言われても、正直当時の僕はわけが分からなかったし辛かった」
「……そう、でしょうね」
私も母親から『鶺鴒の巫女』を引き継いだ身という意味ならば、陛下と似ているかもしれない。
けれど私は育てられた敬愛する大好きな母に『鶺鴒の巫女』を託された。
陛下は、突然家族だと思っていたものが全て嘘だと明かされ、『愚帝』の父の責任を負った。
その翼の意味は、私には推し量りようもなく、重い。
「背中は毎日割れるように痛いし、すがる相手もいないし、家族だと思っていた錐屋の人々とは離れて暮らす事になって。……寂しくて、辛くて……誰か、僕を助けてほしいと思っていた」
私は身を起こす。
陛下がまるで、今まさに苦しんでいる少年の「春果」さまに見えてきた。
「陛下……春果、様」
「ん」
「頑張りましたね、春果様」
無意識に私は陛下を抱きしめていた。
「――ッ……」
陛下の翼が、ためらいがちに私を包み込む。私は、陛下の胸に額を預けた。
「とても……お辛かったのですね。にもかかわらず、ここまでご立派に『皇帝陛下』としてのお勤めを果たしてこられた陛下の強さを、私は敬愛いたします」
「……どうして、僕が強くいられたとおもう?」
顔を上げると、至近距離で陛下が微笑んでいた。
灰青色の綺麗な瞳は穏やかで優しいけれど、どこまでも寂しそうに見える。
冬の空に似ている瞳は、冬の寂しさの色をしている。
翼に囲まれた空間で、気がつけば私は陛下にすっぽりと包み込まれていた。
「斎」
陛下は静かに私の手を取る。そして、愛おしむように両手で包み込んだ。
「……翼が生える時期の『皇太子』は、ひどく見苦しいものなんだ。毎日苦しみで喘いでいるし、それこそ気が触れたように、叫んで転がり回り続けている。そんな姿を皇帝が人に見せるわけにはいかないよね」
「……確かに……そうなのかもしれません……」
「だから、『羽化』の時期を見てしまった人の記憶は消す決まりになっている」
陛下は私の目を見た。瞳の中、目を見開いて驚く私がいる。
緋暉様とこの距離で顔が近づいたときは、とても怖かった――なのに、私は今目を離せないでいる。
「斎がどうして、僕との出会いを忘れているのか。……それは僕本人が術をかけたからだ。君が僕の、見苦しい姿を思い出さないように」
陛下の顔が近づく。
象牙色の長い睫毛が伏せられて、ほんの少し、顔を傾けて。
陛下の甘い香りが漂う。熱が、顔の直ぐ側に来る。
「あ………」
その瞬間、私は頭が真っ白になった。





