87.転生前は海なし育ち
「斎は海を見たことがなかったんだよね?」
「はい。ずっと山で暮らしておりましたので……」
「じゃあ、右翼官と海に行ったのが初めてだったんだ」
「はい」
「……本当は僕が一番最初に、斎を海に連れていきたいと思ってたんだけど」
「陛下、拗ねてます?」
「べ、つ、に」
花曇りの空。
首都から抜けると、あたりには一面、青の濃いぐんぐんと伸びる稲穂が揺れている。川沿いには水車がくるくると回り、空を鵲が番になって飛ぶ。
私は陛下の馬に乗せられ、海へと連れて行かれていた。
僕に付き合ってほしい、とはこのことだったらしい。
後ろから護衛の武官と侍女がついてきているが、基本、二人きりのような状態だ。
蜻蛉が、つい、と私達の間を通り抜けていく。
今日の私は巫女装束ではなく、最初に陛下に用意してもらった斉腰襦裙に似た衣を身につけていた。
ひらひらと、灰色の裾が風に舞う。髪だって、おさえていないと風に舞って大変だ。
「同じ城の中ばかりいても息が詰まるでしょ? それに夏以来、斎と二人で出かけていなかったし」
そう言って私を馬に乗せた陛下は、私の腰を抱えて馬を走らせている。二人乗りだ。
正直、恥ずかしい。
随分前に、官吏の身代わりとして男装して禊祓に参加したときも、雪鳴様に馬に乗せてもらったが――私が馬に乗れないことで、迷惑をかけて申し訳ない。
「私も馬に乗れたほうがいいですね」
「どうして?」
「こういうとき、お手を煩わせてしまうので。馬も重いでしょうし」
「遠慮してるの?」
私を抱いて馬を歩かせながら、陛下は首をかしげる。顔も近ければ体も寄り添っていて、私はどんな体勢で陛下に触れればいいのかもわからない。
硬直する私に陛下は笑う。
「触る時はあれだけ大胆なのに」
「それとこれとは……別です……」
陛下は冠はつけているものの、薄衣はかきあげて耳元で留めている。風抵抗の関係だろう、翼は魔力でしまっている。
従者は顔を見ないよう、かなり後ろからついてきている。
素顔を晒した陛下はとてもくつろいだ様子で、表情だけでなく、手の動き一つから声の耳障りまで柔らかい。
衣もいつもの白練りのものではなく、灰色がかった淡い色の衣を纏っている。
私的な場での衣なのだろう。友禅のように、淡く柄が描かれた手仕事が美しいものだった。
「斎は軽いから大丈夫。……それに、こうして一緒に乗るのも僕は嬉しいから」
「そういうものなのですか?」
「そういうもの」
「斎はなんだってできちゃうんだから、たまにはできないことがあるのも可愛いよ」
見上げれば、花曇りの空と同じ、灰青色の綺麗な眼差しが私を見て微笑む。
背中に触れる体温も含め、なんだか体が変にこわばってしまう。
「ん。どうしたの?」
「……っ、いえ、何でもありません……」
こうして腰を抱かれて馬に乗るのも、本当なら恥ずかしい。
陛下に「一緒に乗って」と言われた時――遠慮ができなかった自分もまた、恥ずかしい。
「ほら、海が見えてきたよ。今日は波が落ち着いているね」
「この海風で……落ち着いているほう、なんですか?」
「そりゃあね。冬になるともう、とんでもない寒さだよ。東方国は」
顔を見なくても。
こうして体が触れた状態で、頭上から声が聞こえてくる、それだけでも陛下がそこにいるというのが感じられる。
儀式のときの荘厳な陛下も綺麗だけれど、こういうときの、おっとりと肩の力を抜いているときの陛下が私は好きだ。
少しでも気楽な時間があるのなら、嬉しいと思う。
「斎は何もできないと言うけれど……来夜の本当の姿、見せてもらったんでしょ?」
「本当の姿……どのお姿のことですか?」
「そんなに何種類も見たの!?」
陛下は笑う。
「普段の少年のお姿と……陛下より少し年上くらいの、お若いお姿を」
「一番宮廷で権勢を振るっていた頃の姿だね、それ」
「あんなにお若い時に……」
「来夜は頭がいいだけでなく、なにより先帝の理想を誰よりも共有し、施策や案を次々と思いつく人だったと聞く。……父にとってなくてはならない人だった。そして彼も野心に満ちあふれていた。傾きかけた国を変えようと。まあ、理想と願いと賢さだけでは国は動かないのだけど」
陛下はぎゅ、と私を抱く腕に力を籠めた。
「少年以外の姿を見せるのって、来夜が信頼してくれた証。知らない人がほとんどなんだよ」
「やはり……周りから警戒されないため、ですか?」
「そう。宮廷はどうしても彼の知恵に頼らなければならないけれど、同時に彼は決して表に出ることはない。……二度と波風を立てない為に、彼は名も姿も隠して図書寮の奥に引きこもっている」
「宮廷から離れないんですか?」
「離れられないんだよ」
陛下の声が暗く沈む。私に語るというよりも独り言のように、彼は胸の内を口にした。
「……彼は、自分がいた頃の治世の責任を全うしなければと思っている。辞めて在野に逃げておしまいにできないほど、彼は……過去国を乱した事を悔いている」
「来夜様……」
「なにより先帝に対する不満が僕に向かないように必死で僕に知恵を与え、影から守ってくれている」
「そう……なんですね」
「来夜はね、父と殆ど暮らすことのなかった僕にとって、育ての父のような人だよ。……本当に、世話になってる」
陛下の声には敬愛が滲んでいる。
海風がひときわ激しくなる。
浜辺が近くなってきて、馬の足取りが少し軽くなったような気がした。
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「砂浜に降りるの、初めてなんです」
「そうなんだ」
裸足の陛下が髪を抑えながら私を見て楽しそうに笑っている。
風に煽られないようにだろう、今日の陛下は翼を消したままだ。
それでも、布地のたっぷりとした衣がひらひらと風に舞い、まるで天使の羽のようだ。
――翼を開いたら、きっと風抵抗で飛んでいってしまうだろう。
「今ちょっとおもしろいこと考えたでしょ、斎」
「そんなことないです」
「翼を開いたら飛んでいきそうとか思った?」
「……わかってしまいましたか」
「ははは」
彼は波を蹴りながらけらけらと笑う。
「確かに風抵抗すごいよ。立ってるだけでも結構踏ん張ってる。靴を脱いで、斎もおいで」
陛下は私に手を差し伸べる。
色の白くて指の長い、先程まで私を捕らえていたあの手。
「……」
「どうしたの?」
「今すぐまいります」
私は風に暴れる髪を抑えつつ、靴を脱ぎ、そして陛下の方へとそわり、と砂浜へ足を運ぶ。
「ひゃ、あ……」
砂が足の指を通り抜ける感覚。踏みしめる、ざわりとした心地。腰を引きながらそっと歩く私に近づき、陛下は手を取ってくれる。
「あ」
温かい手をしている。
不思議な感じがした。冷えていて、固くて、私の手よりずっと大きな、指の長い手。
手を取られている感覚。
ぞわ、ぞわ、と砂を踏む感覚。
どちらも――私の感覚を、いっぱいいっぱいにさせる。
「……く、くすぐったい、ですね、これ……」
「貝殻で足、切らないように気をつけてね」
くすくすと笑いながら、陛下は私を押さえてくれている。
少年みたいに楽しそうな顔をする陛下の灰青色の瞳は、空の色と同じだった。
本当に同じか確かめるように、私は空を見上げる。
――うみねこがにゃあにゃあと鳴いて近くを去っていく。
「波。足を入れてみて」
「……落ちません?」
「落ちないよ。大丈夫」
寄せては返す波に、そっと足を入れてみる。さわさわと砂が擦れる音。そして、足首までが、冷たい波に撫ぜられて、引いていく。
「……すごい……」
波は足首くらいまでを撫ぜていくだけなのに、波が打ち寄せるたびに陸へ、そして引いていくたびに岸へと引き寄せられそうになる。足がどんどん、砂に埋まっていく。
波は透明の碧色で、落ちている貝殻も、陛下の裸足のつま先も、全てが透き通って見えている。
ふと顔をあげると、陛下は私を眺めて微笑んでいた。
――ひどく幸せそうな顔をしていると思った。波に喜んでいるのは私なのに、陛下は、ただ目を細めて波と同じ色をした目で笑っている。
「……面白いですか? 私を見ていて……」
「面白いよ。うん。……こういう時間、もっと、取れたらいいのに」
彼は噛みしめるように口にした。
陛下とつないだ手のひらが熱いと思う。
緋暉様に何度も握られて、時に抱きしめられたあの熱とは全く違う。
冷えていて、それでも、ずっと触れているとじわじわとあたたかくなってくる優しい熱。
私の出方を伺うように、私をはれもののように扱うように、陛下は、私の手を握って見守っていた。
「……恥ずかしいです、陛下……」
「ふふ」
恥ずかしくなった気持ちをそのまま伝えると、陛下は視線を水平線へと向けた。
遠くには幾艘もの船がいる。陛下は背筋を伸ばし、遠くの船の一艘一艘を眺める。
「今日も漁をしているね。……そうだ。少し『祝福』しようかな。せっかくいるのだし」
「祝福、ですか?」
「うん。片手離していい?」
陛下は断りを入れてから、そっと私から片手を離す。
そして右手で宙を撫ぜ、キラキラとした輝きとともに手中にワンドを出現させる。そして――そのまま、深く息を吸い、歌を詠った。
『――』
柔らかな歌声が、強く大きく響く。
声を張り叫んでいるわけでもないのに、陛下は息をするような優雅さで高らかな声量で歌う。
海の波が光を帯びて、水面を伝搬するように船へと輝きが飛んでいく。
古語と現代語を混ぜた豊漁の祈りの曲。海で生きる彼らと、彼らの祖先を尊び喜ぶ唄。
聞いている私も、漁師達の誇らしい気持ちが伝わってくるような強い唄だった。陛下とつないだ手が、だんだん互いの熱で温まっていくのを感じる。
『ーー』
陛下は海を見るまま歌いながら、私の手を柔く握った。
頭がくらくらする。
陛下の唄は終わった。
私は拍手できない代わりに素直な感想を告げた。
「綺麗でした」
「ありがとう」
「くらくらして……これも、魔力なんですか?」
「そう? そういうのは、かけてないつもりだったけど」
彼はぱしゃぱしゃと波をかきわけ、浜辺へと戻っていく。
「歌はね。先帝から習ったんだ」
先を進みながら、陛下が私に話してくれる。その顔がどんな顔をしているのか私からは見えない。
「僕の父は愚帝として譲位させられた。僕は翼が生えるまで宮廷から隠されていたし――皇太子時代も直接父から、『天鷲神』である皇帝に必要な教育を受ける機会がほとんどなかった。先帝の譲位が正式に決まって初めて、僕は初めて父と一緒に過ごし……最期の時まで、色んな事を教えてもらった」
漁師へと高らかに歌う力強い唄とは対象的に、父を語る陛下の言葉は静かな波のようだった。
岩場まで上り、従者に渡された布で足を清め靴を履く。
陛下は再び、私の手をそっと掴んだ。
「斎。この近くに離宮があるんだ。ちょっと休憩しよう」
そういって、何事もないように続けた。
「父の最期の地だ」