86.何度も繰り返す夜伽の夜とは、少しだけ違う夜。
郷緋暉右翼官との出会い、そして島への出張禊祓が終わり、季節は秋。
中央国時代には短くしていた髪も、下ろせばすっかり背中にかかるほどの長さになった。今日は絹紐で結い上げていたので、輿で揺られるとふわふわと首筋に先端が触れる。
郷家の末娘の誕生日祝宴に参加し、鶺鴒宮に帰った昼下がり。
陛下より久しぶりに夜伽の命が下った。
「……なんだか、随分と久しぶりな気がします」
私はなんとなく緊張した気持ちで日中を過ごし、その後夕餉を済ませて湯浴みし、侍女に手を借りて髪を結い、化粧を整えて雪鳴様の迎えを待った。
灯籠を片手にやってきた彼は、相変わらず黒髪をなびかせた美しい佇まいをしていた。
「あれから、右翼官は何もしてこないか」
訊ね方の率直さに、私は思わず苦笑いしてしまう。
「緋暉様とは宮廷でお会いすることはほとんどありません。郷家にお邪魔する時も私が気を遣わないように、お母様や姉妹の方など女性を挟んでしかお話なさいませんし」
「……そうか」
「ご心配おかけして申し訳ありません。そもそも、『鶺鴒の巫女』としてもう少し慎んだほうがいいのは私のほうです」
「鶺鴒宮は斎殿の屋敷だ。屋敷の闖入者に襲われた側が慎みを恥じる謂れもなかろう」
「……ありがとうございます」
月に照らされ、白い石畳がほのかに浮かび上がっている。雪鳴様についていきながら、私はひとつひとつたどるように歩いていく。
そのまま彼に連れられて陛下の待つ北宮に向かうと、寝所前で従者に盆を渡される。
流水で冷やされた緑茶が入った茶器だ。
「陛下に、こちらを」
「かしこまりました」
帳をめくって奥に入ると、懐かしい柔らかな声が私を迎えた。
「よく来てくれたね。ひさしぶり」
「……お久しゅうございます」
くつろいだ夜着に被帛を羽織って長椅子に大きな翼を広げた春果陛下は、私を捉えて目元を柔らかく細めて笑った。そして私が持つ盆を手に取る。
「あ、」
「持ってきてくれてありがとう。禊祓に向かった村から奉納されたお茶だよ。一緒に呑もう」
「あ……私が、ですか?」
「ふふ。斎以外、ここに誰がいるの」
彼は笑う。
「今夜の施術はいらない。今夜呼んだのは、僕が君と話したかっただけだから」
「話、ですか……?」
「そう。最近会ってなかったでしょう?」
ここにおいで、と言われて窓辺の椅子を指示され、私はぎこちなく向かう。
二人で茶を口にしながら向かい合っても、うまく、言葉がでなかった。
(おかしいわ……こういうとき、いくらでも陛下にお話したいことがあったのに)
会わない間、陛下に話したいことはたくさんあった。
郷家とどんな風に交流をしているのか。鶺鴒宮の女官たちの動向と、街のちょっとした噂話について。新作の薬の評判と今後の展望について。月が綺麗だったとか、庭の珍しい花が咲いたとか、来夜様に詩集を借りて、少しずつ読んでいることとか。
それなのに。月明かりに照らされた陛下の白い頬を見ていると、胸が詰まって何も話せない。
碗を手に取る指先も、とろりとした絹が流れる肩も、冬が近づいてよりふわふわになってきたように感じる翼も、陛下のどこに視線を向けても言葉に窮する。
かといって目をそらして部屋の四隅の暗闇を見れば、今度は衣擦れの音と、ほのかに香る陛下の香りばかりが気になって、ことさら気がそぞろになる。
「だめだね」
陛下の言葉にどきりとして見れば、彼もまた窓外に目を向けていた。
「だめ、とは……」
私が話さないからだろうか。頭が真っ白になりそうになっていると、陛下が先に口を開いた。
「僕もね。斎に会った時、あれを話そう、これを話そうと思っていたのだけれど。こうして目の前に斎がいると、どんな言葉も陳腐に感じちゃって、何も言えなくなる」
陛下は肩をすくめてはにかんだ。陛下の頬が赤いような気がするのは、気のせいだろうか。
彼の視線が私の襟元で止まった。
「襟につけてくれてるんだ」
夏祭りで陛下にいただいた、耳飾りのことだ。
私ははっとして、襟につけたそれに手を添える。
「耳は……ああ、空けてなかったんだね」
「申し訳ありません。中央国では耳に挟む耳飾りが主流なので、いただいたときにお伝えするのを失念しておりました」
「ううん。てっきり開けてると思いこんでた僕が悪いよ。……僕が、斎をまともに見れてなかったんだね」
陛下は少しだけ近づき、そして私の髪に手を触れた。
「――!」
固まる私の髪を撫で、耳を月明かりに晒す。
視線が向けられているだけで、耳も、頬も、焼かれるように熱くなる。
「へいか……」
「綺麗な耳だね」
陛下は少し笑う。
「……あした、僕と一緒に来てくれない? ちょっと斎と息抜きがしたいんだ」





