48.夜の甘い誘惑
「ところで斎」
「はい、陛下」
「……何か髪を洗う石鹸、替えた?」
ああ。そういうことか。
私は自分の黒髪を摘んでみせる。
「洗髪用の石鹸や油も試作しているんです」
「それか。前よりずっと、髪の艶がましたように見えたから」
「……食事もあうのだとおもいます。こちらに連れてきていただいてから、食事も、生活も、何もかもびっくりするくらい楽しいです」
陛下は嬉しそうにする。
「じゃあ、そんな斎にはいいのをあげようかな」
「え」
陛下は広い袖からなにかの包を取り出す。その大きさと柔らかさはたぶん、あれだ。
「……肉まん、ですか?」
「おしい。餡まんだよ」
「……ずっとお持ちだったんですか?」
「うん。持ってたんだけど出しそびれちゃった。斎の歌に聞き惚れてて」
「っ……その、ことに関してはどうぞ、おやめください……」
「あはは。可愛かったのに」
陛下は私に椅子に座るように促して、自らも隣に腰掛ける。
陛下は餡まんを包ごと手のひらに乗せ――軽く、魔力をかける。
ばちばちと雷の音が手のひらで響く。その間数秒。餡まんから、あっというまに湯気が立った。
陛下はそれを、ぱかりと半分に割って私に渡した。
「はいどうぞ」
「ありがとうございます……」
受け取ると温かくて、まるでレンジでチンしたようだ。
「便利ですね」
「まあね。春に生まれて春の加護を持つから、雷の魔力が無意識に体から出やすいんだ」
陛下の指先からぱちぱちと電流が流れる。燈明よりずっと眩い光は目に眩しい。私は食べる前にはっとする。
「そうだ。お茶いれてきましょうか?」
「いらないよ。冷めないうちに一緒に食べよう」
陛下は言うなり、餡まんに唇を寄せる。はぐ、と食べる陛下の横顔は、急にこの人が「生きている存在」なのだと自覚させる。
「いただきます……」
私も一緒に食べる。
夜の作業部屋で、無言で甘味を頬張る皇帝と巫女というのは、一体なんなのだろう。
思いながらもとても美味しい。甘くて粒あんで、咀嚼するたびに疲れがほぐれていくようだ。
「夜食ってどうしてこうも美味しいんだろうね」
隣で指をぺろりと舐める陛下の横顔は、本当に普通の男性みたいだ。
私は急に胸が苦しくなる。なぜだかわからない。
ただこの人が、どこかの世界では、愚帝として死ぬ運命だというのが急に苦しくてたまらなくなった。
「陛下」
「ん」
「……私、絶対陛下を守ります」
私の言葉に目を丸くして……陛下は柔らかく笑う。
「どうしたの、いきなり」
「陛下が美味しそうに召し上がられているのを見て、決意を新たにしました」
「ん? うん。ありがとう」
私は餡まんをかじる。そして咀嚼して、一人強く頷く。
「私は守るために強くなります。陛下の魔力が損なわれないように、陛下のご公務が滞りなく捗るようにご体調を守りながら。私ができることを精一杯行います」
「ありがとう」
「こうして目をかけていただいている御恩は、かならずお返しします」
「……斎」
名を呼ばれて顔を改めて見ると、陛下はどことなく居心地の悪そうな顔をしていた。
眉間に皺をよせて、口元を覆っている。
「いかがなさいましたか?」
「……いや。まあ、斎が強くなるというのは……うん」
陛下はためらいがちに「……僕に触るってことでしょ?」と、小さな声で続ける。
「陛下……」
――急に燈明の灯りがぐっと暗くなったように錯覚する。
「陛下」
「なに」
「今夜もいたしましょうか?」
「……いいよ。ここ、寝所ないでしょ」
「私の部屋を使いますか?」
目をそらしていた陛下は、なんとも言い難い変な顔をしてこちらを見た。言葉を探すように唇を開いては閉じ――陛下は、多少問い詰めるような口調になった。
「……斎は誰にでもやさしいの? 僕以外にも、本当に、こういうことは言わない?」
「私が男性で触れたのは陛下が初めてです」
「あの聖騎士にも?」
「せいきし……?」
「元婚約者だよ」
「ああ、あの」
すっかり存在を忘れてしまっていて、私は一瞬言葉が理解できなかった。
「聖騎士団長……元婚約者は、私の『鶺鴒の巫女』としての奇異さを嫌悪していました。なのでおそらく、夫婦になっていたとしても生涯、能力について打ち明けることはなかったでしょう」
こちらに来て丁重に扱われ続けるなかで、私は元の境遇をつい忘れてしまいそうになる。『鶺鴒の巫女』という肩書は決して私の人生を楽にするものではなかった。大好きだった家族が受け継いできた血を受け継がずに死ぬわけにはいかないという、ただ責任だった。
陛下に助けられて、この国に来て、私の血が誰かの役に立つものだと知った。
私の『鶺鴒の巫女』の血が人に職を与え、陛下の立場に利益をもたらし、私の能力が誰かを笑顔にできるというのが、信じられないほど嬉しかった。
得難いものを、この国で私はいただいた。
だからこそ陛下のために、この命を捧げたいと思う。
「私が陛下に触れたいのは、私が陛下のものだからです」
心に満ちた感謝と幸せと決意を言葉にする。
陛下は黙って私を見て、そして目をそらして沈黙した。何か不快なことを言ってしまっただろうか、思っていると、陛下は立ち上がった。
「……そろそろ北宮に戻るよ。斎も、あまり夜ふかししないようにね」
「ご不快でしたでしょうか……」
「そういうんじゃないよ」
陛下は私を振り返って笑う。陛下の手が、私の髪に伸びる。
――直接触れずに、そっと空気を払うようにして、陛下はすっと離れていった。
「斎が思ってるほど、僕は立派な人じゃない。……だからあまり崇めないで。斎だけは」
そのまま陛下は鶺鴒宮を出て、太鼓橋で待つ従者と共に北宮へと戻った。
私はその背中と、背中を包む大きな翼を見えなくなるまで見送っていた。
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――春果は北宮へとひとり、ゆっくり歩いて帰っていた。
護衛が影に隠れているのは知っているが、こうして気分だけでも、散歩がしたい気分だった。
「このあいだ、心配をかけたことを穴埋めしたかったんだけど……もう……」
頬が熱い。この顔で北宮の衛士と顔を合わせたくなかったのに。結局、気を遣わせたのはこちらのほうだ。
もう少し上手い言葉を紡いで、彼女の不安やわだかまりをときたかった。
斎は自分に対して、何度も何度も真剣に、「守る」という言葉を繰り返す。
彼女は先祖代々守り通してきた財産も家名も失った。
両親は聖騎士に取り上げられるように戦地に派遣され、幼い頃に失った。
そして彼女は今、鶺鴒宮の巫女として懸命に働いてくれている。
「……どうか、僕がどうなろうとも不安に思わなくてすむくらい、彼女には幸せになってもらわないと」
そのためにも、彼女と『北方国の奸狐』を早く会わせておきたい。
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次からは章を変えて『北方国の奸狐』編です。少しでもお楽しみいただけたら幸いです!
 





