112.君がいなければ意味がない
※流血描写あります。
春果様に抱きしめられて空間に飛び込んで。ガラスの破片のようなものを浴びながら、私たちは何もない空間を真っ直ぐに突き抜けていった。
闇から光へ、霧から雨へ、喧騒から空へ。さまざまな景色がめちゃくちゃに飛び込んできて、情報が無理矢理頭に流れ込む。
ーー私は気を失っていた。
目を開けて飛び込んできたのは見慣れた春果様の白練の衣。花曇りの空、青々しい芝生。こちらを呆然と遠巻きに見つめる武官その他、たくさんの人たち。
私は芝生の上で、春果様に抱きしめられていた。頭上を見上げると、私がリリーとアレクセイを追いかけて飛び降りた塔の窓がある。
リリーとアレクセイの姿はない。飛び降りたちょうど真下に、私と春果様は座っていた。
ぽた。
「春果、さま……?」
ぽたぽたと、春果様から熱い雫が零れ落ちてくる。
ずたずたになった翼と、白練りの衣に血が滲み、次から次に溢れてくる。
ぐちゃぐちゃに乱れた象牙色の髪から覗く灰青色の瞳から透明な雫が溢れる。
春果様は大きな傷を負いながら、私をこちらに連れ戻してくれた。
「君は……もう傍から離れないと言ったじゃないか……」
春果様は絞り出すように口にする。真っ白な肌も衣も血で汚したまま、春果様は頑なに私を離そうとしない。
「……春果様……春果様、お怪我が!」
「僕の怪我なんか、どうでもいい!」
体を離そうとする私を掴み、春果様は叫ぶ。
初めて聞く彼らしくない怒号に、私はびくりと震える。その反動で、傷ついた翼から血が溢れる。
「ッ……翼が、春果様、」
「翼なんていらない。君がいない世界で生きるくらいなら、何もかもいらない!!」
彼は私を強く抱きしめる。私はとにかく、春果様のお体を癒すために彼の背中に腕を回す。
『春果皇帝陛下、私があなたを癒します。どうか体を、楽、に』
言いながら肚に力を込めるが、なぜか全く魔力回路が発動しない。
しかし彼の腕の力はすぐに抜け、だらり、と私にもたれかかるように脱力した。
「待って、え……どうして、どうし、て」
重量を増す春果様の体を支えながら、私は魔力を発動しようと力を込める。
しかし何度やっても、魔力が全く発動しない。春果様の血を止められない。
「嘘、なんで…嫌、」
春果様の白練の衣がどんどん血に染まっていく。私の衣も真っ赤になる。
「血、止まって、お願い……嘘、なんで、」
先ほどから、神祇官の人たちが急いで手当の準備をしているのは聞こえてくる。医療班も動いているようだ。けれどまだ、彼の処置には至っていない。
あれだけの強さで抱きしめてくれた春果様はもう力を失っている。唇は薄く開いたまま動かなくなり、先程の怒号が、嘘のように静かだ。
「早く、早くしないと、春果様が……そんな……」
その時。
馬が勢いよく武官や医師たちの人並みをかき分けるように突っ込んでくる。
「おいこら! 皇帝陛下はまだ生きてるか!?」
荒々しいざらついた声。
馬から飛び降りた大柄な男性ーー久瀬様は、同じ馬に二人も女性を乗せていた。
二人を小脇に抱えて馬の背から軽々と降り、そして左右に割れた人混みを走ってくる。
彼の後ろからももう一人、車椅子の男性が従者の手により連れてこられている。
「斎! まだ生きてるか!」
「生きていらっしゃいます! けれど……!」
「上等だ!!」
久瀬様は琥珀の瞳を眇めて笑う。
「現場は頼んだぜ!!」
運び込まれた二人の女性が、風のように春果様の傍に近づいて私から彼を引き受けた。
一人は、まだ幼い、日に焼けた南方国装束の黒髪の少女。
「陛下、ご挨拶は一旦置いといて、ちょっと失礼します! すぐに治しますね!!! あっお姉ちゃんは退いて!!!」
ーー張りのある甲高い声で春果様に声をかけ、少女は春果様の背中に躊躇いなく手を押し当てる。
もう一人はこちらも南方国装束の、白髪混じりの黒髪の女性。
凛とした強い眼差しで、私をいぬく。
「サイ。貴方は離れていなさい。春果様の代わりに妃の貴方がしっかりなさい」
ーー厳しくも柔らかな声音で、私を叱咤する。その声を私は知っている。
「お母さん、……それに……」
二人は肯定するように微笑む。彼女たちはすぐに春果様の背中で魔力を発動した。
「鶺鴒の巫女の能力はなくても、私たち二人なら治せるわ。……いきますよ、サクラ」
「はい!」
二人の手元から光がほとばしる。見る者を安心させる、極上の魔力の輝きが太陽より明るく周囲を照らす。
呆然とする医療隊を尻目に、二人は春果様にてきぱきと処置を施し、息のあった連携で魔力を背中に注ぎ込む。
あれだけ酷かった流血がぴたりと止まる。春果様の真っ青だった肌に、生気が宿る。
女性二人が顔を見合わせ、汗を拭って周りに頷くとーー周囲から安堵の息が漏れた。
私の背中にキィキィと車椅子の音が近づいてくる。
安心させるように温かな手がそっと私の手を握る。振り返ると、そこには痩せた男性がいた。
「サイも傷だらけだ。すぐに処置しよう。お嫁さんになるんだから、傷跡一つ残らないようにしないと」
いつも優しく微笑んでくれた、穏やかな人。東方国装束を着ていてもわかる。
「お父さん……」
「綺麗になったね、サイ」
ーーー
ーーそして。
怒涛の事件から数ヶ月が過ぎ、季節は春になった。





