109.諦観、了得、希望。
ここから展開が不穏ですが、サイと春果はハッピーエンドです。安心してお読みください。
リリーが幽閉された塔は中央国王都の郊外に位置する、聖騎士団の上位機関である聖教皇庁が管理する敷地内に位置していた。
空は春果様の瞳の色のような花曇りの薄灰色で、カラカラに乾いて朽ちた石の塔が、空を貫かんばかりに高く細く聳え立っている。
聖女が幽閉された塔の周りは厳重に東方国の武官の方々が固められて、国王夫妻は遠くから、ごく僅かの護衛により守られている。
王都に着いた時、聖騎士団は既に解散させられていた。
東方国皇帝妃となった私を冤罪で冬の間じゅう投獄し、家を焼いて処刑しようとしたという事実が民衆に知れ渡った途端、東方国からの報復に恐れ慄いた民衆が聖騎士団を襲い、収拾がつかなくなったのだという。
それでも残った聖騎士団をかき集めて護衛に供出しようとしたらしいのだが、春果様が
「我が妃に再び聖騎士の鎧をまみえさせ、屈辱の日々を思い出させる趣味か?」
と呟いたことで、解散は決定的となったらしい。
確かに、今でも聖騎士団で見かけた顔を見かけると、動悸がして汗が出てくる。春果様の配慮がなければ、私はこんなに落ち着いていられなかったと思う。
陛下と共に並んで塔を見上げながら、私は不思議なくらい凪いだ気持ちになっていた。
「斎、大丈夫?」
「はい。……陛下や皆様のおかげで私は元気です」
にこりと微笑むと、陛下は心配そうに眉根をよせる。私よりよほど辛い顔をしている。
「ごめんね。……君がこの国で、この国の為に駆り出されるなんて嫌だろうに」
「とんでもないです」私は首を振る。「陛下の妃となるのであれば、東方国・友好国である南方国の為に尽力するのは私の勤め。『鶺鴒の巫女』の妃だからこそできる栄誉です。だからそんなお顔なさらないで」
「最後に、口付けて」
「……ここで、ですか?」
陛下の翼が音もなく私を包む。
急拵えの暗がりの中で、陛下は私をたまらないといった風に抱きしめた。
唇を触れさせ、そして頬を撫で、そして、もう一度、口付けする。
「斎。……君がいないと、僕は生きていられない。皇帝なんて重荷を背負えない」
まるで迷子の子供のような声音で、陛下は口付けをしながら私に囁く。
「春果様、」
この方にこんなに感情的に掻き抱かれ、口付けられるのは初めてだ。
私は目を見開いて口付けを受け入れながら、頭のどこかで冷静な気持ちになっていた。
ーー彼には、もしかしたら、私が考えていることが既にばれているのかもしれない。
「春果様」
私はできる限り綺麗に微笑んだ。紅が移った春果様の唇を指で拭い、そして泣きそうにすら見える目元に背伸びして口付ける。髪に結んだ白練の絹帯を抜き取り、そして陛下の手に握らせた。
陛下の目が見開く。
「行ってまいります、愛しい皇帝陛下」
私は塔へと登った。
翼に覆えない距離まで離れてしまった私をーー陛下は、もう追うことができなかった。
—-
私は螺旋階段を一歩一歩登りながら、一人考えていた。
ーー不思議に思っていたのだ。
どうして創生神話以来続く、鳥の名を冠する巫女の末裔は次々と歴史に姿を消していたのか。
『鶺鴒の巫女』が一娘相伝、その血の濃い女の順に発動するように、本来なら家柄が消えても巫女が消えるわけがないのだ。
それなのにどうして、大陸に巫女の末裔はほとんど残っていない?
そもそも。
私はどうして転生前の記憶を持っているのか。
前世の記憶は生まれた時からあるわけではない。ちょうど『鶺鴒の巫女』として目覚め出した頃から、うっすらと前世の記憶を思い出し始めたのだ。
今は確かめる術もないが、母もおそらく転生前の記憶を持っていた。
時々よくわからないことを口にしたり、時々誰も思い付かないような発想で物事を解決していた。
彼女が転生前の記憶を持ち、娘である「サイ・クトレットラ」の本来の人生を知っていたのだとすれば。
幼い私にできる限りの学問を叩き込み、生活する術を与えたのは、私がどんな運命でも生き延びられるようにするためではなかったのか。
ーー『巫女』は前世の記憶を持っている。
自動的に血の濃い娘に一娘相伝で受け継がれる『巫女』はなぜか、歴史の中で消えていっている。
ーーそして、『聖女』は異世界召喚された女。
聖女は召喚された後、どの文献でも奇跡をもたらした後の記録が残されていない。
「巫女は、聖女を異世界に返すための存在」
私は一人呟く。
口にして出すことで、私は自分の運命を自分に言い聞かせていた。
「この世界は……巫女を消費することで、異物である聖女を元の世界に送り返している。聖女が聖なる存在ではないことを知るのは巫女だけ。なぜならば、巫女は、聖女が『主人公』であることを知っているから……」
それならば、私は主人公を元の世界に返す方法を知っている。
あのゲームにおけるバッドエンドは、聖女として任務を達成失敗して『送り返される』エンドだった。
ゲームをプレイしていた転生前の私にとってはただの模様にしか見えなかったバッドエンドスチルの紋様の意味は、今の私ならはっきりとわかる。
あれは強力な魔力と術者の命を代償に異世界と通じる古き術。
古来の宗教から変容してしまった現代の魔力保持者では構築できない術だ。
けれど、私なら再現可能だ。
あの紋様を前世の記憶で構築できるし、私の魔力は『鶺鴒の巫女』の魔力だから。
階段を一歩一歩登っていくたびに、私はこの世界で得られた幸福を思い出す。
中央国での幼い幸福な日々。
両親との離別後、辛かったけれど、ささやかな希望を胸に前向きに生きた日々。
東方国での出会いと幸福。
「春果陛下、ごめんなさい」
私は一人、彼に身勝手な謝罪を呟く。
「私がやらなければ、きっと聖女はこの世界を崩壊させてしまう。彼女が暴走したらどれだけのことになるのか、前世の記憶で私は知っている。あなたを守る為にも、私はやらなければならない」
彼は怒るだろう。私がいなくなった後でも、彼はちゃんとしていられるだろうか。
けれど彼はどんな時でも凛々しく全てを背負ってきた皇帝だ。私なんかがいなくても、きっと、大丈夫。
彼を一人おいていくことよりも、自分が宿命を果たさないことで彼が不幸になることが、怖い。
「春果様。愛してます。前世の頃から一目惚れでした」
口からポロポロと言葉が溢れ出す。
不思議ととても幸福な気持ちだった。一歩一歩、高い場所に登るたびに、私は踏ん切りが付いていく。
「さらさらの綺麗な象牙色の髪も、高い空の色のような灰青色の瞳も。雪国の色の薄い肌の色も、ひらひらと月下美人の花のように真っ白で美しい白練の絹の色も。……雄々しい狗鷲の翼も、あなたの、」
私に触れる柔らかな唇の感触と、手のひらの熱。
体の奥から、蕩け出すように愛しさが溢れてくる。
「あなたの熱も、肌の匂いも、少し痛い犬歯の尖りも、全部好き。お茶を入れるのが上手なのも、真面目な言葉を話す時の口調がすごく来夜様そっくりなのも、羽の付け根に触れるのが好きなのも、……ちょっと感情的で、気をつけないとすぐに魔力で空の天候を変えちゃうところも、全部……全部、本当に大好きでした」
誰も聞いていない場所で、私は叫ぶように愛しさを口にする。
声は反響もせずに石の廻廊に溶けていく。
「大好きでした、陛下。春果様。私を選んでくださって、ありがとうございます」
きっと、私が消えれば妹が『鶺鴒の巫女』となる。郷家の妻となった妹が、きっと春果様をお守りする。
私の代わりなんて、いくらでもいるーー
代わり?
私はひたり、と足を止める。
「待って」
雷に打たれたような衝撃が頭を走り、私は立ちすくむ。
「私には妹がいる……そして母は、恐らく、『鶺鴒の巫女』の役目を……転生前の記憶で知っている……」
全てが急につながってきた衝撃で、何も考えられなくなる。
「そうか。そういうことなのね……お母さん」
階段を登る足取りが軽くなる。服の裾をつまみ、私は駆け足で登った。
母は、恐らく前世の記憶を持っている。そして母も『巫女』が『聖女』の犠牲になる存在だと気づいている。
だからこそ彼女は南方国に渡り、死んだことにして極秘裏に妹を生んでくれていたのだ。
鶺鴒の巫女の血を注ぐ女が、一人でも多く増えるように。
南方国王久瀬様により、母も私が『聖女』を異世界追放することを知っているはずだ。
それならば、私は、この世界にまだ戻ってこられる可能性にかけてもいいかもしれない。
「陛下」
最上階の扉の前、私は陛下にいただいた耳飾りに指を触れる。
「愛してます」
ーーー
扉を開いた先では、『聖女』リリーが微笑んでいた。
今でも侍女が世話をしているのだろう。美しい真っ白なドレスに身を包んだ彼女は、ネオンピンクの豊かな髪を天蓋付きベッドに広げて座っていた。
「待っていたわよ、鶺鴒の巫女」





