108.比翼の空で口付けを
私が春果様に助けられ、そして東方国に入った半年以上前。
あの時は、ちょうど初夏の季節だった。
そして今日。風に雪の気配が感じられ始める秋深い季節。私は東方国から、中央国の故郷まで馬車で出立する。
紙吹雪ーー祈花に見送られながら進む馬車から望む山々は最後の紅葉で真っ赤に染まり、高い標高の場所はすでにうっすらと雪化粧がかぶっているように見える。分厚い衣を重ね、私は馬車の中で春果様の翼に包まれる。
「寒い?」
「大丈夫です……春果様の翼が、温かいので」
髪を撫でながら囁く春果様の声は甘い。穴を穿った耳朶に春果様の唇が触れる。私がくすぐったくて身を捩ると、春果様は喉の奥で小さく笑った。
「懐かしいな。この大街道を通って、東方国に斎を連れてきたあの日のことが」
「はい。……あの時は春果様と道中一緒で、ずっと緊張していました」
私は東方国に入った時のことを思い出す。ただただ自分の置かれた身の上の僥倖に困惑し、春果様が斃れる運命の記憶を思って怯え、そして春果様の美しさにただ見惚れるばかりだった旅路。
中央国で居場所のなかった私にとても親切にしてくださった東方国の方々。侍女の方。宿でいただいた食事の美味しさ。笑い合いながら食事を共にする幸福。そんな喜び、親を亡くした後の私にはもう、得られないと思っていた。
そう。親を亡くしてから、私はとても心細くて、そして辛かった。
けれども両親が元気に暮らしていると知った今では、二人のことを思い出すたびに、早く会いたい、その顔をもう一度見たいと焦れったくなる。歳の離れた妹に会いたい。サクラは、どんな顔をしているのだろう。
春果様が私を抱き寄せ直す。
ぎゅっと、胸板に押し付けられるように体を寄せさせられ、お互いの体温と、鼓動を感じる。
「斎。今も、どきどきしてるでしょ」
「それは、もう……別の意味で、いつでも私は……春果様を感じるたびに…私は…」
「ふふ。僕も」
ぎゅっと、春果様は私を翼で包んで一時たりとも離れないようにする。残された人生の時間を全て私に使ってしまうかのような勢いで、春果様はいつも私を撫で、私に囁き、私の額に口付ける。
「好きだよ、斎。僕の愛しい鶺鴒」
中央国の聖女を討伐する。そんな道中でさえ、春果様はこの調子だった。
これは春果様の優しさだと、私は感じていた。
春果様と二人の時間は貴重だ。
残された時間が限られているとわかっているからこそ、春果様は少しでも幸せな、生きていてよかったと思えるような時間を私に、多く刻みつけてくださろうとしているのだ。
「春果様、私は幸せです……」
私は春果様の胸に頬を寄せ、目を閉じる。
春の婚礼よりずっと前に、私は春を感じている。
ーーー
四度夜を迎えたのち、ついに馬車はクトレットラーー鶺鴒県に到着した。
山並みから、湿度の高い森の空気から、馬車の車輪越しに伝わる土の感触から、私は故郷を感じて体が沸き立つような気分になった。
村の入り口に大きな花輪が飾られている。祭りの時だけ飾る特別な花。
馬車を出迎えた領民の人たちは、私たちの馬車を前に膝を折り、深く頭を下げて東方国の最敬礼で出迎えてくれた。
「……」
どうしてもフラッシュバックしてしまう、魔女として処刑されかけたあの日の悪夢。
胸に手を当ててぎゅっと拳を握る私に、春果様は顎をあげて口付けてくれた。
「斎。大丈夫。僕がいる」
「……はい」
馬車を降りた私が目にしたのは、最敬礼をしたまま涙をこぼす領民の人たちだ。彼らの歓迎を受けながら、中央国政府が新設したクトレットラ領管理庁舎まで向かう。
会議には東方国・中央国双方の要人が出揃っていた。
東方国は東方国皇帝春果陛下を筆頭に、両翼官。東方国に残って政治を指揮する右祐の代わりに右祐補、左祐、そして魔力にまつわる政務に携わる神祇官長。
中央国からは国王夫妻、外務大臣、聖騎士団の上位機関である聖教皇庁の枢機卿複数名。
クトレットラという末端の小領地にあるまじき顔ぶれだった。
王妃殿下は私をみた時、声はかけずに薄く微笑んでくださった。東方国でお会いした時より一層顔色が悪く、鎖骨より下には骨が浮き出て見えている。国王陛下も顔色が芳しくなく、中央国の深刻な事態が一目でわかった。
数々の国賓同士の挨拶を経て、国王陛下直々に、私をまっすぐ見て話を切り出した。
「我が国が召喚した『聖女』リリーを元の世界に追放したいと考えている。『鶺鴒の巫女』『クトレットラの賢女』そして『天鷲神の妃』サイ殿。どうかーー貴女の力で、彼女を追放してほしい」
中央国は今回の交渉の為に多くを失うことになっている。
聖騎士団の解散と、東方国・南方国両国承認の元の新たなる国防軍編成。
東方国国境の領地、クトレットラ領の東方国への返還。
南方国との停戦および、南方国王の承認。過去に結んだ不平等条約の破棄。
東方国売薬商人に対する規制の大幅緩和。関税の撤廃。かつて東方国より強制的に移住させられた魔力保持者の末裔を、自由意思で東方国に帰還させる旨の許可。
その他……数多くの条件を呑んででも、中央国は私に頼らざるを得ない。
かつては大陸で最も栄えた強国がそれほどまでに落ちぶれるなんて、きっと誰も思っていなかっただろう。
私が国王陛下にどう返事をするのかは、もうすでに決まっている。
「かしこまりました」
ーー震える手を、机の下で春果様が握ってくれている。
ーーー
翌日。
春果様ははまるで昨日の会議が嘘のような晴れやかな笑顔で、身支度を済ませた私を迎えにきてくださった。
柔らかな笑顔に大きな狗鷲の翼は毎朝見慣れた春果様のお姿で、寝台や屋敷の作りは中央国のもの。窓の外に広がる山林も空気の匂いも私の懐かしい故郷のもので、どれもが違和感で、何だか整合性を失った夢のようだ。
顔に下ろした薄絹をちら、とめくり、春果様は悪戯っ子の顔をする。
「斎。よかったら君の故郷を案内してくれない?」
「案内、ですか……」
「うん」
「何も、ありませんよ? ただ領民の方々のお住まいがあり、畑があり、森があるだけで」
「けれど斎ーーううん。サイが、住んでいた場所だから」
躊躇う私の手を取って、侍女たちに微笑み、そして軽やかに私を屋敷から連れ出していく。
東方国では自由に私を連れ回せないからなのだろうか。
夜とは違い、屈託なく私の手を優しく包む大きな手のひら。
きゅっと手を握られると、胸の奥が温かくなる。
外に出て懐かしい秋風に吹かれると、故郷から長く離れた切なさと、その土地を愛する春果様と一緒に歩ける喜びで、気持ちが何だか忙しなくて、落ち着かない。
けれど、その感情すら愛しい。
「がっかりしないでくださいね?」
「サイとならば、たとえどんな場所でも僕は退屈なんてしないよ」
薄絹越しに春果様は微笑む。周りの人々も、私たちを穏やかに見守ってくださっている。
ーーああ、なんて幸せなのだろう。
クトレットラの集落はとても小さくて、私と春果様でも徒歩で歩いてしまえるくらいの距離だ。最初は馬を出そうと提案したのだけれど、春果様は「小さい頃のサイは歩いていたんでしょう?」と、靴を歩きやすい靴に履き替えてまでついてきてくれた。
肌寒い秋の朝を歩けば、あちこちから仕事に精をだす人々の姿と出会った。慌てて再敬礼をしようとする彼らには、従者の方々が気にしないで欲しいと伝えてくれていた。
「本当に小さな領地なんだね」
「申し上げました通りです」
「まるで一つの家族みたい。どの家のことも、サイは知っているの?」
「勿論です。……もう、この土地を離れて随分経ちましたので、変わっているかもしれませんが」
私は懐かしい中央国らしい真っ白な漆喰の壁の家々を見つめながら、一つ一つの家にまつわる思い出を思い出す。
小さな猟犬の子供が、よちよちとあちらの家から出てくる。
春果様は微笑んで手ずから抱き上げると、そっと、庭の敷地内に離してあげていた。
「あの家はとても優しいお婆さまがお住まいでした。お話がお上手で、領民の子供たちみんなに色んな昔話を聞かせてくださいました」
「その中には、サイがたまに話してくれる寝物語も入ってるの?」
「入ってます。……遠い昔仲良くなったまま別れなければならなかった、東方国の兵士と中央国の老兵の物語。村の奥に住まう魔物が、優しくて綺麗な子供ばかりを食べてしまう怖いお話。それに……」
私が話すのをやめると、春果様が小さく首をかしげる。
「どうしたの?」
「……東方国の『狗鷲の皇帝春果様』のお話も、好きなお話だったな、と思い出して……」
春果様は意外そうな顔をして目を瞠り、そしてくすくすと笑う。
「知っていたのに、昔出会った時僕のこと、皇太子って気づかなかったの?」
「だって……まさか本当に、そんな方と出会えるなんて思わなかったですし……子供、でしたし」
「そういうものなの? 面白いな」
春果様は指を絡め、ますます嬉しそうに笑ってみせる。
「サイ。他にももっと教えて。ご両親との思い出や、もっと色んなこと」
「もちろんです」
私も微笑んで頷いた。
両親の死。婚約後の寂しい生活。そして処刑ーーその辛い思い出で凍りついていた記憶を、春果様は溶かしていく。
「ここはよく木の実を取っていた森です。毎日入っていると、リスの顔もだんだん覚えてきちゃって」
「リスの顔って、覚えるものなんだ」
「ここは領民みんなで野菜を持ち寄って土中保存している場所です。毎年使っていたら魔力の磁場がおかしくなってきたので、ここに……ああまだありますね。私が作った霊石が、まだ現役で結界を作っているみたい」
「いくつの時に作ったの?」
「5歳……でしょうか」
「ご両親は誇らしかっただろうね、サイの能力は」
「あちらで馬車に乗っている二人は幼馴染です。……すみません、少し挨拶してきていいですか?」
「僕も行っていい? 翼で飛んだら追いつくのも早いよ」
「……驚かれないでしょうか……」
ーー故郷の景色も、匂いも、風も、音も。
全ての記憶が春果様との思い出の地として更新されていく。
髪を結んでいた絹帯が解けそうになるのを、春果様が蝶結びに結び直してくれる。
「ありがとうございます」
「髪、伸びたね」
春果様が頸に落ちた後毛に触れて、目を細める。
視線に毎晩触れる熱と似たものを思い出して、私は胸が痛くなる。皇帝と『鶺鴒の巫女』という立場でなければ、ここでもっと、肩を寄せたりできたのだろうか。
「ねえ、サイ。空、また飛んでみない?」
「え、」
「最近僕、全然飛んでなかったからねーー」
「え、きゃ……!!!!」
その瞬間。翼が空を覆うように大きく広がり、春果様は私を抱きしめる。
ごう、という激しい音。全てを吹き飛ばすような風量に目を閉じていると、気づけば足が地面から離れていた。
ーー眼下に、クトレットラの領地が広がる。
反射的に腕に縋り付く私の耳元に口付けて、春果様はしっかりと抱き直す。
「大丈夫。落とすわけないから」
「春果様……ありがとうございます。何度も、私を助けてくださって」
「何度も? 一度でしょう?」
私は首を振る。
「今日も、私の故郷の辛い思い出を楽しい思い出に変えてくださいました。……もう、私は故郷を思って夜中に目をさますことも、家を焼かれたあの青い炎を思い出すこともないでしょう」
春果様は笑みを消し、そして私をまっすぐに見つめた。
空の色より淡い瞳の色に、私が映っている。目を閉じれば、もう何度目かも忘れてしまうような優しい口付けが、私の唇に降りてきた。
両手が塞がっている代わりに、春果様は私の頬や瞼にも口付ける。
春果様の唇の熱や吐息に、私は愛しくなってもう一度口付けをねだる。
「……空の上に来ると、斎は大胆になるの?」
「誰もみていないから、でしょうか」
「そういうわけでもなさそうだけどね」
「……え?」
ーーその後の事は恥ずかしさのあまり、まだ思い出したくない。
春果様はその夜更けにまどろむ時まで、真っ赤になって何もいえなくなった私をことあるごとにからかった。
そして。
ついに私は、聖女リリーを幽閉した塔へと導かれていくことになった。





