107.鶺鴒宮と狐、そして女官第一号
そして一ヶ月があっという間に過ぎ、ついに東方国に初雪が舞い降りてきた。
「ついに、冬が来たね」
「……はい」
私と春果様は鶺鴒宮で二人、雪雲が重く垂れ込めた空を見上げていた。
寒気に震えた私に視線は向けないまま、陛下は大きな翼で私を覆ってくれる。私は寄り添いながら、静かに目を閉じて春果様の体温を感じた。
この温もりの傍に在ることが私の存在理由だ。
けれど、その前に果たさなければならないことがある。
—-
久瀬様との会食の折に知らされた、東方国を仲介とした南方国・中央国の和平締結の件について。
あれから水面下で準備が進み、ついに中央国と東方国による最終調整の極秘会合が開かれることとなった。
極秘会合を前に、朝廷で何度も開かれた会議には私も『鶺鴒の巫女』として参加した。錚々たる国の重鎮と席を並べるだけでも恐れ多いのに、私はなぜか上座ーー陛下の真横に座ることになっていた。
「これは斎が妃だって示す意味もあるんだよ」
かしこまって何も言えなくなりそうな私に、陛下は薄く微笑んで教えてくれた。
ある日の会議で、春果様は極秘会合の場所を指定した。
「場所はクトレットラ領。かつての我が国の所領、鶺鴒県とする」
「ーー!!」
弾かれるように、私は陛下の薄絹越しの顔を見た。私は胸に熱いものが込み上げ、立っていられなくなりそうなほどの感情に襲われた。
クトレットラ。
それは愛しい故郷であり、破壊と絶望の場所でもあり、そして春果様に再会しーー助けてもらった場所。
温かな郷愁と凍えるような1年前の壮絶な日々と、家が燃やされた悲しさと、春果様に抱きしめてもらえた安堵と嬉しさと、過去の記憶が蘇ったことによる、春果様への大きな想いとが、全て一緒に私の胸いっぱいに去来し、ただただ言葉にならない気持ちになった。
クトレットラは現在王家の管轄領となっており、私の実家が燃やされた場所から少し離れた場所に、領地管理の行政施設が新設されているらしい。
今回の極秘会合は、その行政施設の会議室で行われる。
ーーー
「斎がいない間は、僕が鶺鴒宮を管理するから任せといて」
「よろしくお願いします、来夜様」
鶺鴒宮を離れる前、私は来夜様に不在期間の管理をお願いした。
政治的に表立って、彼は「来夜」として顔を出せない。
しかし雪鳴様が表向きの管理者として立ち、来夜様が「魔力保持者である『鶺鴒の巫女』が選出した従者の少年」として振る舞うならば問題はない。それどころか、成人男性である雪鳴様が鶺鴒宮に入るより、よほど周囲からの反発は少ない。
「女ばかりのいわば『後宮』めいた場所の管理は慣れているからね」
「そういえば、来夜様は先帝陛下の時代に後宮を任されていらっしゃったのですよね……」
「まさか堂々と、ここに舞い戻ることになるとはね」
彼は少年の顔に苦笑いを浮かべながら、後宮時代からすっかり様変わりした鶺鴒宮を仰ぎ見る。鶺鴒宮も雪支度が整い、あちこちに雪囲いや雪釣りが施されている。紅葉が、庭の緑を真っ赤に染めていた。
「ありがとう斎」
「え……」
「僕にとって、ここは苦々しいだけの場所だった。けれどこうして堂々と戻ってきて仕事ができるのは、どんな形であれ嬉しい」
来夜様は目を細めて微笑み、風に靡く白練の絹帯の端をつまむ。私はそれを見つめ、来夜様にそれをお与えになった春楡先帝陛下を偲んだ。
「……来夜様」
「ん」
「どうか私が春果様をきちんと支えられるように、どうか……先帝陛下の代わりに、見守ってください」
「僕なんかに頼っていいの? 北方国の奸狐なんかに」
「私だって中央国の魔女ですよ」
私の言葉に、来夜様は吹き出した。
「確かにそうだ。ったく、陛下はとんでもない肩書きのばっかり宮廷に引っ張ってきて、もう……」
困った風に腰に手を当てて肩をすくめながらも、来夜様はどこか、幸せそうに見えた。
「斎」
「……はい」
「君はもう、この国になくてはならない人間だ。僕にとっても、君は大切な教え子だ」
彼の真面目な眼差しが、私を射抜く。居住まいを正した私に向かって彼は静かに言葉を続けた。
「中央国でしくじるなよ。成功させて、絶対元気に帰ってこい。……鶺鴒宮の子たちのためにも、東方国のためにも……あの、寂しがりの皇帝陛下のためにも」
ごう、と冷たい風が吹き付ける。彼の髪を縛る白練りの絹帯が風にもて遊ばれ、来夜様の狐色の髪にくるくると絡まり、乱れ狂う。
「ーー遺されるというのは、本当に辛いものだから」
彼はひどく寂しい顔をして、笑った。
—-
来夜様と今後の侍女・女官管理の打ち合わせを済ませ、一人になったところで、錫色が私の部屋にやってきた。
彼女は私と一緒に中央国の極秘会合に参加することになっている。
「どうしたの、錫色」
「……斎さま……あの……」
彼女は大きな目を見開き、そして目を伏せ、もじもじとした様子だった。
夕日が、彼女の名前通りの錫色の髪を強い光で照らしている。
私は夕日を見て、そして錫色を見た。不意にとても懐かしい景色が思い出される。
「そういえば」
「斎さま?」
「……貴方と出会ったのも、こんな綺麗な夕日の時だったわね。お化けが怖いと言って、とても大きな声で挨拶をしてくれたのも……もうとても、遠い昔の話みたい」
「そうですね……」
錫色も私を見て、懐かしい初対面を思い出したのか、遠い目をして夕日を見ていた。
「私も、あこがれの『鶺鴒の巫女』様と、こんな風にたくさん一緒にいて、いろんなお仕事ができるとは思っていませんでした」
「ありがとう錫色。貴方がいてくれたおかげで、私は東方国で、とても心強かった」
私の言葉に錫色の目が瞠る。大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れた。
「よかったら、私とお風呂に入りませんか? 最初の日のように」
「はい! 勿論です!」
私たちは一緒にお風呂へと向かった。あの時は右も左もわからないままで、女官も侍女もほとんどいなかった。けれどこうして二人で歩いていると、あちこちから侍女が何か準備が必要かと声をかけてきたり、女官が遠くから頭を下げてきたりする。
薬置き場は通るだけで何ともいえない薬の匂いが漂い、庭は雪の季節に備えた剪定が綺麗に行われている。家具も調度もぴかぴかに磨かれて美しく、どこに出しても恥ずかしくない立派な『鶺鴒宮』が出来上がっていた。
「斎さま! ちょうどお風呂、整ってるみたいです! 入りましょう!」
先をゆく錫色が明るい声で振り返る。そして、驚いた顔をしていた。
「斎さま……泣いているの、ですか?」
「え、」
私は頬を撫でる。そこには確かに涙の筋があった。
「何か痛いのですか!? あの、中央国に戻るのがやっぱり怖くて……!?」
おろおろとする錫色。彼女だけじゃない、厨房で働いていた侍女や、通りすがりの女官、お風呂の準備ができている事を教えてくれた侍女まで、私を心配してあちらこちらから顔を出してくる。
「斎様、大丈夫ですか?」
「斎様」
「斎様」
親を失ったあと、中央国で私はひとりぼっちだった。
気味の悪い黒髪の魔女として、私は誰の目にも留まらず、ただ毎日必死に生きるばかりだった。
私が風邪をひこうとも、私がどんなに悲しかろうとも、婚約者も婚家も、聖騎士団の人たちも誰もが無視していた。
そんな私が、東方国ではこうして、たくさんの人の力を得て、幸せに暮らしている。
ああ、なんて幸せなんだろう。
「すみません……あまりに幸せすぎて、……だめ、ですね……」
涙が止まらない私を、錫色がぎゅっと抱きついて慰めてくれる。
あんなに饒舌な彼女が、黙ってただ、きつく私を抱きしめる。彼女の背が少し伸びた気がする。彼女の髪の長さも、随分と伸びた気がする。
ああ、助けてあげないとと思っていた女の子も、立派な女官になったんだ。
「斎様。私たちがおります」
錫色はにっこりと、頼もしい笑顔で笑ってくれた。
「面倒ごとをしっかり片付けて、陛下と一緒に幸せになりましょう」





