103.『鶺鴒の巫女』の終わり
――夜。
陛下は、女性の姿にならず、陛下の姿で鶺鴒宮に訪れた。
女官たちが急いで準備を整える。
左右に連れた双翼の二人は、太鼓橋を越えずに礼をして去っていった。
「斎」
さえざえとした満月に照らされた、陛下はとても美しかった。
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私の部屋に案内すると、陛下は私と向かい合い、侍女の入れた茶をそっと口にする。
月明かりと柔らかな燈明に照らされた部屋。
私は静かに、陛下の言葉を待つ。
「――久瀬の申し出を断ったそうだね」
「はい」
「どうしてか、聞いてもいい?」
私は椅子を降り、裾を払い、陛下の前に膝をついた。
そして深く深く、陛下の前で額を床へと擦り付けるように礼をした。
「私はこの命を守っていただいたときから、頭の先からつま先まで、陛下の為に仕えると心に決めております。……陛下のお傍にいることが、私の務めです」
陛下はこちらを見下ろしているようだが、言葉がない。
顔を上げるように言われたのは、それからしばらく経っての事だった。
陛下はひどく悲しく、苦しそうな顔をしていた。
「僕は君を他の臣下に嫁がせるつもりはない。この国にいるならば、僕は君を妻に選ぶ」
私が唇を開く前に、陛下は付け加えた。
「僕と番えば、君は『鶺鴒の巫女』を生めない」
「……」
「わかっているよね?」
「……承知しております」
「僕と番う女は、皇帝しか生めない。それは鶺鴒の巫女も同じ。古い文献も見てみたけれど」
「皇帝の妻は、皇帝のための母にしかなれない、ということですね」
私はわかっていた。
だからこそ、私はきっと陛下の妻には選ばれないだろうと、内心、確信をもっていた。
だからこそ胸が苦しかった。
その苦しみの理由を考えたくなかった。
私がどんな身分不相応な願いを心中に膨らませ続けていたのか、気づかないようにしていた。
陛下に触れるたび。陛下の声を聴くたび。
この人の傍にいたいと思う。その気持ちは恩義だ。そして敬愛だ。けれど、それだけじゃない。
私はこの春果という愛おしい人を――
「僕は斎と番になりたい……」
陛下は膝をつき、そして私の手を取った。
皇帝と巫女が椅子にも座らず床に膝をつき、手を取り合うなんて、なんて滑稽なのだろう。
それでも私たちは真剣に見つめあっていた。
陛下は――春果様は、握った私の手に額を摺り寄せた。
「君以外の妻は嫌だ。君が愛しい。けれど、それは君の『鶺鴒の巫女』としての生を奪うも同じだ」
「春果様。私は……」
「斎。好きだよ。……僕は、君が好きだ」
月明かりに、陛下のきらきらとした乳白色の髪が輝く。
身も世もなく私に愛を告げる、陛下はいたいけで、そして必死だった。
「君の高潔な性格も、がんとして譲らない頑固なところも、小さな体で必死にいきるところも、かしこいところも、黒髪も小さな頭も、手のひらの形も、爪も、大好き」
「春果様」
「立派な女の子だと思っていただけだった。けれど……再会して、綺麗な君をみて、凛々しい君を見て、僕は、毎日、君を……どんどん好きになっていく」
けれど。
そう呟いて彼の言葉が、止まる。
「僕が君を好きだということを貫くことは……君を『皇帝』の肚にしてしまうことだ」
「……そうですね……」
「君の子どもが欲しい。君の血を引く、皇帝が欲しい。けれど、君が、君の未来を我慢するのは嫌だ」
「春果様、私は……」
「僕の気持ちは、今伝えた通りだ」
春果様は私の手をほどき、そして髪を撫でて立ち上がる。
そのまま、私の手を取って立ち上がらせた。
「もし斎がもし、南方国に嫁ぐのなら、東方国皇帝として君を永遠に支援し続けるよ」
「……」
「だから、安心して……好きな道を君は、選んでいいんだ」
「陛下はどうして」
私の声は涙声だった。
陛下の宝玉のような目が大きく見開くけれど、すぐに景色が歪んで何も見えなくなる。
目を閉じる。顔を覆う。
掌が、大粒の涙で濡れていた。
「斎……」
貫かれた耳が痛い。胸が痛い。
陛下に抱きしめられた体が、心が痛い。
「春果様」
私は振り絞るように口にした。
「どうして、そんな風に私を突き放すおつもりなら、私を貫いたのですか? 胸の奥も、耳も、私のすべては春果さまからいただいた甘い痛みでいっぱいです。春果さまのことを思うだけで眠れなくなります。風が運ぶ雪のにおいにも、庭に咲く花にも、雷雨の晩の稲光にも風の音にも、私は春果さまのことを思います。春果さまが好きです……この耳の痛みを知って、私は、貴方の傍から離れられません」
「斎」
「貴方の后になりたいなんて恐れ多いこと、私からは思えません。けれど、けれど……私は、こんなにいっぱい、春果さまのものになってしまいました。だからせめて一生、春果さまのおそばにお仕えさせてください」
陛下は泣きじゃくる私を抱きしめ、そして椅子に座らせた。
「ごめんね。……斎の気持ちを、僕は無視していた」
私が泣き止むまで陛下は私を抱きしめていた。
落ち着いてきたころ、彼は私の前に膝をついた。
あわてて立ち上がろうとする私を、首を振って制する。
「斎」
陛下は静かに、私の右足を取る。
履いていた靴を脱がせ、そして両手で恭しく足を持ち上げる。
月明かりが陛下と、私の日焼けしない青白い脚を照らす。
陛下の額が、私の足の甲に触れた。
「――鶺鴒の巫女、斎。どうか僕の后になってください」
唇が足の指に触れ、そして柔らかく食まれる。
それは、東方国の求婚だった。
「私は、陛下と共に在ります。……永遠に」





