8# 絆の紡ぐ明日
熱狂的な舞台の終わりから十分が経っても、いっこうに三人は戻ってこなかった。着替えの必要はないはずなのに──。保護者じみた不安で焦れる胸をなだめていると、飛んできた明日菜の声に「松永さんっ」と呼び止められ、文綾は握ったままのハンカチを大慌てでポケットに隠した。
「どうでしたか! わたしたちの舞台っ」
勢揃いした三人は足の爪先まで誇らしげだった。うっすらと濡れた額が会場の光を反射していて、激しいダンスの余韻をありありと感じさせる。「すごく楽しかった」と素直に感想を垂れたら、三人は互いを見ながら破顔一笑した。
その目元が揃いも揃って赤く腫れているのを、文綾は目ざとく見つけてしまった。
「やったやったっ」
「やっぱりあれでよかったんだな!」
「私、久しぶりにすっごく楽しかった。なんか一〇分もステージにいた気がしないよ」
「わたし一息ついたら猛烈におなかが空いてきたんだけどっ」
「そういや晩ご飯まだ食べてないじゃん」
「お寿司三〇皿は食べれるね!」
「野菜が入ってないからね」
なんだかんだと言いながらも徹底して煩悩にあふれているのが彼女たちらしい。もはや何があったか聞くのも野暮に思えてきて、そっと笑いながら文綾は三人の茶番を見守った。
彼女たちが舞台の上で何を思い、何を見つけ、終幕後の舞台裏で何を願ったのか、外野の文綾には知るべくもない。ただ、それが後ろ向きなものでないことが確かめられさえすればよかった。そして文綾の見たところ、その不安は全くの杞憂に終わりそうだった。──泣き腫らすほど素敵な夢を見てくれたのなら、もう、文綾には何も言うべきことはない。
「あなたたち、すっごく素敵だった! 出てくれてありがとうね!」
駆け寄ってきた麦の感謝に三人は「へへー」と笑顔で応じている。ヒノデテレビの展望台を降りて以来、長らく目の当たりにしていなかった本調子の彼女たちがいとおしくて目を細めていると、不意にポケットの中でスマートフォンが鳴動した。条件反射的に端末を取り出して画面を点灯させた文綾は、表示された名前を見た瞬間、たちまち背筋の隅まで凍り付いた。
日向からのメッセージが連投されている。
【ごめん!いますぐオリオンシティにいって】
【ファンのツイート見てたらみつけた あの子たちかってに出演してるらしい】
【あたしもいまむかってる】
よほど急いで打たれたのだろう。ところどころ不自然な平仮名のまま送信されてきたメッセージが、凄まじい勢いで文綾を現実に引き戻した。ファンらしき男性が雄叫びを上げていたのを今更のように思い出したが、この際そんなことは重要ではなかった。
まずい。
ここに間もなく日向が来る。
Asteroidの三人が捕まるだけならまだしも、文綾の同行が発覚しようものなら一大事だ。せっかく彼女たちの稼いだ達成感にも水を差すことになる。
「うち、今ならAsteroidのトートバッグ持って街中を歩ける気がする。こんなに自分たちのロゴを誇らしく思ったことってなかったかも」
「え……私はそれパス」
「わたしもちょっとなー。顔ぽっぽしちゃう」
「だよね、自分らの名前の書かれたバッグ歩くのはさすがにね……」
「いや、そこは協調するとこでしょ! まゆうもしれっと手のひら返すなよ! うちだけ羞恥心が消し飛んだヤバいやつみたいになってんだろ!」
「そんな照れてるまおっちも好きだよ、私」
「カバンに少女漫画雑誌隠しててマネージャーさんにバレた時も照れてたよね。可愛かったなぁ」
「うるさい! 余計なことを思い出すな!」
何も知らずに騒ぎ続けている無垢な三人の姿を、文綾はすばやく振り返った。盛り上がっているところ申し訳ないが、かくなる上は手段を選んでなどいられない。文綾の選ぶべき道はただひとつ──逃げることだ。
「みんな、今すぐここから出よう」
切羽詰まった声で迫る文綾を、きょとんと三人は見つめ返した。「なんでですか?」と明日菜が小首を傾げる。核心にだけは触れないよう、文綾は懸命に言葉を選んでつなぎ合わせた。
「詳しいことは言えないけど、よくないことが起こりそうなの。最低でもオリオンシティから出なきゃいけないの。何のことか分からなくてアレだろうけど、お願い。私のことを信じて」
「えー、この期に及んで松永さんのこと疑ったりしないですよ、わたしたち」
「ご飯くれるいい人だし」
「だいたいうちら財布も何もないし、松永さんがいなかったら何もできないよな」
「それは分かったから、早く!」
呆気に取られている麦を尻目に、文綾は手近にいた明日菜の手を無理やり引いて駆け出した。まだ事情を飲み込みきれていない面持ちのまま、真央も佑も慌ただしく明日菜の後に続いた。次の出演者を心待ちにする聴衆たちの隙間をくぐり抜け、喧騒をかき分け、ライブホールの出口を駆け出して屋外を目指す。先輩ごめんなさい、あとで連絡先を発掘してメッセージでも送りますから──。ろくなあいさつもできず置き去りにしてしまった麦に心の中で謝りつつ、どこかに日向の姿がありはしないかと文綾は必死に目を光らせた。
ライトアップされたプロムナードが地平の彼方まで続いている。息せき切って道端で足を止める頃には、オリオンシティのビルが背後に遠くなっていた。夜闇にぼうと浮かび上がる巨大なサンタ姿のロボットが、来訪者を監視するようにビルの前で目を光らせている。スマートフォンを握りしめた佑が「もっと撮りたかったな」と残念げにつぶやいた。
どうにか振り切ったらしい。息を荒らげながら両膝に手をついていたら、「あのー」と控えめな口ぶりで明日菜が尋ねてきた。
「よくないことって何だったんですか」
「何でもないよ。ここまで来ればもう大丈夫」
「そう言われると気になるよね」
「爆弾テロとか?」
「その理屈だと松永さんがテロ組織の一味ってことになるけど」
「はは……」
クタクタのままではまともに突っ込みも思いつかず、変な調子で文綾は笑った。笑った瞬間、それまで大人しく眠っていたはずの腹の虫が思いきり鳴き声を上げた。真っ赤になって立ち上がれなくなった文綾を、なぜかちょっぴり得意げに三人は見下ろしてきた。
「松永さんもお腹すいてるって」
「私たちと同じだね」
「うち、ご飯もいいけどシャワーも浴びたいな。こんな汗まみれのまま行動してたら風邪ひきそうだよ」
「ちょうどいいじゃん! ご飯も食べれてシャワーも浴びれるところがすぐそこにあるよ」
プロムナードの行く手を明日菜が指差した。正面にはゆりかもめの駅とガラス張りの高層オフィスビルが並んでいるが、明日菜の言わんとするのはそれらの隣に立つ施設のことだった。いつかヒノデテレビの展望台で話題に上っていた、温泉テーマパークの元祖を名乗るスーパー銭湯『月夜温泉物語』である。
もはや迷う余地はなかった。海風の吹き晒す中を、文綾と三人は急いで月夜温泉物語に入館した。入口で浴衣を受け取って更衣室で着替え、荷物をすべてロッカーに封印。暖簾をくぐって中に入れば、そこは縁日やゲームセンター、食事処、浴場、広大な屋外足湯エリア、そして宿泊施設までもがずらりと揃う温泉の天国である。これから支払うことになる入館料や食事代の高さを思うと文綾の脳内はめまいでおかしくなりそうだったが、湯気にあてられてのぼせているだけだと言い聞かせ、はしゃぐ三人のあとを追いかけた。
──文綾はのぼせていた。
生まれて初めて、アイドルに夢中になった。
飛び入り出演の終結から三十分、一時間と時計の針が回っていっても、四肢に充満した心地の良い緊張と衝撃は抜けきらなかった。誰かに憧れを仮託することの居心地の良さは計り知れないものだと、初めて実感した。
アイドルたちの見せてくれる「夢」の本質とは、決して彼ら彼女らの描き出す巨大な共同幻想に埋没するだけの一時的な享楽ではない。ファンはライブその他の活動を通じて、みずからの推すアイドルが夢に向かって邁進していることを何度も再確認する。そうして、その姿にみずからの過去や現状を重ね、遂げられなかった自分の夢を託すのだ。夢という言葉が己の思い描く理想像を示すなら、アイドルとは夢の顕在化した姿であり、願いや理想に手の届かなかった憐れな仔羊の手を引いて未来の方向を示してくれる偶像なのだと思う。
そうと知ってしまった今、この距離感が不安になる。温かな食事に舌鼓を打ち、のびのびと風呂に浸かって歓談する三人の輪を外側から眺めては、このままこうしていてもいいのだろうかと不安に駆られる。
夢と現実を混同すれば歪が生まれる。アイドルの活躍に勇気を授けられるファンと、ファンの応援に勇気づけられるアイドルの間には、常に一定の秩序がなければならない。神を冒涜した者に神罰が下るように、一方的に夢を託すだけのファンは本来、アイドル自身の運命を直接左右できる立場に立つべきではないのだ。ひるがえって我が身を省みたとき、まさに文綾はその禁断の境界線上に立っている。Asteroidに夢を託す一人のファンでありながら、そのメンバーたちとじかに言葉を交わし、信頼を交わし、おもに金銭のかかわる面で直接干渉することのできる立場にある。彼女たちが親切に近寄ってきた女をATMのように扱い、欲のままに食べ、遊び、挙げ句にアイドルを辞めようとする子たちであることを、ファンにあるまじき距離で隣り合っていた文綾だけが知っている。それがどれだけ不健全なことであるか、ファンの目線に立って想像するのは難しいことではなかった。
私はAsteroidの関係者じゃない。いつまでも通りがかりの親切な女として接するか、それとも一人のファンとして接するか。後者を選ぶなら、いつかはどこかで一線を引かなくちゃいけない。──飛び入りライブに心を躍らせ、彼女たちに「堕ちた」自分を自覚した瞬間から、心のどこかで分かってはいたつもりだった。それでも今は文綾の財布がないと三人も身動きが取れないので、なんとか理由をこじつけて一緒にいることができる。今はただ、隣にいられる理由の失われる瞬間が来るのが恐ろしい。
無論、そんなこととは露ほども知らないであろう三人は、相変わらずの奔放さで縁日を遊び歩き、デザートを頬張り、文綾を招き入れてゲームに勤しむ始末である。
どこまでいっても不幸な女だな、私は。
ゲーム機に百円玉を消耗する手を時おり止め、凍てつき切らない生温かな呼気を文綾は床へ転がした。同じ不幸は不幸でも、地下鉄に乗っていた頃の「不幸」とは意味が違う。その正体は持たざる悲哀を上回る不幸──失う恐怖だ。
広い足湯エリアは純和風といった佇まいの光景だった。「やっぱりクリスマスイブっぽくないね」と吞気に言い合いながら、三人は先を争って足湯の流れる小川に駆け込んでゆく。足裏に触れるツボ押しの小石の痛みと、足首の生肌をくすぐる温泉の心地よさがないまぜになって、文綾は妙な浮遊感を覚えた。
先を歩く三人が飛び跳ねるように手招きをしている。
「松永さんも早くー!」
「向こうにドクターフィッシュいるって!」
「足がくちゅくちゅして気持ちいいですよっ」
「気持ち悪い擬音語使わないでよ」
真央に蹴られた明日菜が「痛っ」と楽しげにはしゃいだ。八歳も年嵩の文綾には、三人のように足ツボを踏み荒らしながら歩くことはできない。痛みに顔をしかめながら三人のもとへ急ぎつつ、やっぱり私はこの子たちと一緒にはいられないな、と苦しい笑みが口をつく。どう足掻いても生きるテンポが食い違うし、琴線に触れるモノだって違う。
ドクターフィッシュの飼われている足湯は敷地の一番奥にある。おぼろにともされた灯火の彩る幻想的な湯気の世界を、湯の小川を分けながら進んだ。文綾が追いついてからは三人も妙に寡黙になって、湯を蹴る足取りもどこか淡々として見えた。歩く速度を合わせてもらっているのだと文綾が情けなさを食んでいると、不意に、明日菜が小さな声で切り出した。
「……あの、松永さん」
「うん」
「わたしたち、そろそろ帰らなきゃなって思うんです」
動揺を隠しきれなかった文綾は、ぎこちない声色で「そっか」と応じるのがやっとだった。
いつかはこの瞬間が来るはずだった。オリオンシティにAsteroidの姿がないことに本格的な焦りを覚えたのか、さっきから文綾のスマートフォンには怒涛の勢いで日向からメッセージが届いている。同じだけのメッセージを彼女は三人にも送っているのだろうし、じきに三人がマネージャーのもとへ戻る判断を迫られるのは予想がついていた。それでも結局、冷静ではいられなかった。
「最後がドクターフィッシュでいいの?」
「もちろんっ。ドクターフィッシュに憑き物払いしてもらってから帰れば、あんまりマネージャーさんにも怒られないかなって思って」
「いや、怒られるでしょ」
「怒られるだろうなー」
メンバー二人に即座の否定を食らった明日菜が「そんなぁ」と嘆いている。三人に隠れて日向とメッセージを交わしている文綾は【もう無事でさえいてくれればいい】【お願いだから早く出てきて】などと日向が哀願しているのを知っていたが、最後の意地悪のつもりで黙っておいた。日向がどんなに優しいマネージャーだったとしても、この三人は多分、いつかどこかで厳しく叱られた方がいい。色々な意味で。
遅い時間のためか、ドクターフィッシュの足湯は空いていた。四人ぴったり並んで腰かけ、群がってくる小魚たちの口先のこそばゆさに身をよじった。憑き物が取れたかは分からないが、いくらか身のこなしが軽くなった気分にはなる。──とはいえそれは一般論の話で、夢の終焉を意識し始めた瞬間、文綾の心は快感に対してずいぶん不感症になってしまった。屋内に戻り、更衣室で元の服に着替える間も、会計で莫大な金額を消耗する間も、浮ついた意識のせいか実感が伴わなくて、まるで夢のフィルターを通して非情な現世を垣間見ているみたいだった。会計の瞬間だけはいつだって気を失えたらいいのに、とは思う。
月夜温泉物語を出ると、折しも目の前の道にタクシーがやってきた。運転手の操作で開いたドアの中へ、いざなわれるように文綾と三人のアイドルは乗り込んだ。
「どちらまで?」
ほくほく顔で運転手が尋ねてくる。クリスマスイブ帰りの上客に恵まれ、タクシー業界もひとときの潤いを味わったのだろう。文綾はおもむろに日向からのメッセージを確認して、アイドルたちの帰るべき場所を読み上げた。
「有明スカイスタジオまで」
後部座席の三人から驚きの声は上がらなかった。ユニット名や所属事務所を口にしたあたりから、文綾がマネージャーと繋がりを持っていることに勘付き始めていたのかもしれない。もっとも三人が知らんぷりを決め込むのなら、文綾もそれに応じるまでのことだった。なぜって文綾とAsteroidとは、表向きは互いを知りも知られもしない、ただの行きずりの関係に他ならないから。
張り切って運転手はタクシーを発進させた。頭上にゆりかもめの高架線路を振り仰ぎながら、タクシーは警察署の前を通過し、クルーズターミナル前の交差点を右へ曲がり、オリオンシティやヒノデテレビの建ち並ぶ賑やかな台場地区を左に見つつ快走する。クリスマスイブの特別な時間を過ごした街が、飛ぶように後方へ流れてゆく。
ふと思い出して、文綾はカバンからオリオンシティの買い物券を取り出した。
「これはみんなが持っておいてよ」
そういって後部座席に束を突き出すと、「いいんですか」と戸惑い気味に明日菜が受け取った。文綾は苦笑した。
「マネージャーさんに疑われたら困るでしょ。ギャラをどうしたんだって」
「……確かに」
「前にも言ったけど、今日のお礼なんて考えないで。たまたま出会ったアイドルに貢ぎ物をしたら使い込みすぎちゃった、くらいの感覚で払っただけだもの」
「なんか、ごめんなさい。じゃぶじゃぶ使いすぎちゃったです」
「いいんだよ。大人を舐めないでよね。どんなに夢に飢えてたって、お金だけは有り余ってるんだから」
「お金が有り余ってる、だって」
「うちらもそんなかっこいいこと言ってみたいな」
「いつか大物になったら言えるようになるよ」
文綾は微笑んだ。冗談めかしてみたのに、三人は黙り込んでしまった。
たかが三年、されど石の上にも三年。すでにAsteroidの活動歴は文綾の勤務歴を上回っている。いつかは努力が実を結んで、大物への道を駆け上がることもあるはずだ。抱き続けた夢を三人が手放さなければ、きっとチャンスは何度でも訪れる。ただ一つ言えることは、そのチャンスを持ってくるのも隣で支えるのも、少なくとも文綾ではないということ。
星と星が離合を繰り返すように、文綾と三人は素知らぬ関係へ戻る。渾身の力でスイングバイを果たし、ふたたび広い宇宙へ飛び出したAsteroidは、二度と文綾のいる座標へ戻ってはこないのだ。彼女たちの飛ぶ先には仕事熱心なマネージャーがいて、二百人ものファンがいて、真空を突き進む勇敢な三人を支えてくれるだろう。
「……これでもう、私がいなくても大丈夫だね」
流れゆく世界に沈みながら、文綾は静かに吐露した。
独り言のつもりだった。だから、後部座席から「そんなことないです」と小さな声が飛んできたことに面食らった。やけに湿っぽい声の主は、佑だった。
「そんな今生の別れみたいな言い方されたら寂しいですよ。たくさん夢を見せてもらって、うちら、すごく救われたのに……」
拗ねたような切ない口ぶりで真央が畳み掛ける。違う、そんなつもりでいったわけじゃない。私はただ、自分を諦めさせようと思って──。思い浮かんだ言い訳は声にならず、助手席の背もたれの中で文綾は身を丸めた。
「わたしたち、ほんとはすごく心細かったんです」
ぽつり、明日菜の声が耳元へ落ちた。
「勢いに任せてスタジオを飛び出しちゃったけど、お金もないし当てもないし、いまさら引っ込みもつかないし、これからどうしようって不安でいっぱいだったんです。松永さんに出会ってご飯を恵んでもらって、とりあえずお腹がいっぱいになって満ち足りたら、そこからどんどん逃げたい気持ちが加速して、気がついたらアイドルなんて投げ出しちゃおうかなって本気で思いかけてる自分がいて。そんな自分が怖くて、嫌で、でもどうしていいか分かんなくて……。松永さんがリニューアルイベントの会場にわたしたちを引き込んでくれなかったら、わたしたち、本当に取り返しのつかない未来を選んでたかもしれない」
「…………」
「今日一日で松永さんからもらった贈り物、本当にたくさんあって数え切れないくらいです。だから、だからこそ、今度はわたしたちがあげる番になりたいって思うんです。だけどそれって、わたしたちがそう思ってるだけじゃ無理なんです。……だって、松永さんがどこで何をしてる人なのか、わたしたち何も分からないから」
明日菜の作詞した詩が心の奥にまでストンと響いた理由を文綾はようやく理解した。表現自体は難解な割に、彼女の言葉選びに込める心はどこまでも素直で、誠実で、どんなに拒んでも指の合間をすり抜けて届いてしまうのだ。つんと鼻を突いた切なさがあまりにも痛かったものだから、文綾は不覚にも顔を歪めかけて、代わりに窓の外いっぱいの星空へ神経を研ぎ澄ませた。目を背けながら「そういう意味?」と中身のない問いを発すると、明日菜は迷わず「そういう意味です」と答えた。彼女の言わんとすることを文綾は無意識に翻訳していた。
確かに大人の羽振りの良さを力説はしたが、いったいどこまで金を使わせたら気が済むのだろう。くしゃくしゃの顔で文綾は笑った。それが彼女たちの望む未来なら、応えてやるのもやぶさかではない。Asteroidという偶像を物陰で支え続ける最善の道は、今の文綾にはそれしか思い浮かばなかった。
夢の大橋を横目に流し、巨大オフィスの建ち並ぶ有明駅前を通過し、夜闇に浮かび上がる東京ビッグサテライトの会議場棟を見上げながら、やがてタクシーは大きなカーブを曲がって一棟のビルの前に乗り付けた。とっくの昔に営業を終了している時刻なのに、内部にはいくつも蛍光灯がともっている。すでにマネージャーの日向は捜索を諦め、スタジオの中で三人を待ち受けているはずだった。担当アイドル相手に広い臨海副都心の街で一日じゅう鬼ごっこをさせられた日向の苦労を思うと、不憫であるとともに滑稽でたまらない。本当の意味で「不幸な女」だったのは日向ではないかとさえ思う。
「あの……」
おずおずと明日菜が切り出した。
文綾はきっぱり言った。
「私は何も見てないよ。これから三人がどこに行くのかも、どこの誰なのかも知らない」
気を利かせた運転手がドアを開いてくれる。コートの入った紙袋を抱えた佑が降り、明日菜が降り、そして真央が降りた。文綾は降りてゆく姿を見なかった。たったいま自分で口にしたばかりの言葉を、いっときの寂しさのために反故にするわけにはいかなかった。
「閉めますか」
運転手の言葉にうなずいて、ドアを閉めてもらう。ささやかな照明で足元の地面を濡らしながら、半自動の後部ドアはゆっくりと閉じてゆく。もう閉じると思った、最後の瞬間。
「ありがとうございましたっ!」
息の乱れぬ三人の声が文綾に襲い掛かった。
泣き叫んだような大声だった。バカ、日向に聴こえるかも分からない場所で──。胸の奥底でうずいた痛みを、文綾は黙ってこらえた。やっとの思いで運転手に「辰巳駅の方までお願いします」と告げ、ぐったりと背もたれに沈み込んで、空っぽになった財布を握りしめた。
今日という一日で私の得たものと失ったもの、どちらがどのくらい多かっただろう。
とりとめもなく思い悩みながら、ふたたび流れ始めた夜景に身を委ねる。
夢のような時間は終わりを告げた。あとに残されたのは、満天の星空が地上に舞い降りたような、苦しいほどに静かな聖夜の余韻だけだった。
「なにより本人たちの意欲がちゃんと保たれるかどうかもね……」
「また脱走するかもしれないってこと?」
「思い出させないでよ。トラウマなんだよ」
▶▶▶次回【9# ここから、これから】