6# これが三人の選ぶ道
Asteroidは三年間の活動の中でたった一度だけ、有名な芸能雑誌の取材を受けている。活動開始当初から所属していた零細芸能事務所がカイパーベルト・プロモーションに吸収合併され、それに伴って三人も移籍を果たした直後のことだった。東京の片隅で生きる小さなローカルアイドルから大手事務所の看板を背負うタレントにのし上がってしまった彼女たちを面白がるように、記者は三人のプロフィールや抱負を盛んに尋ね、三人も生き生きと答えを返していた。あるいは強がっていたのかもしれない。
当時の記事は今もオンラインで公開されている。三人がトイレや買い物の行列へ向かっている合間に、文綾も軽く目を通した。アイドルを志したきっかけを尋ねられた彼女たちの応答が、とりわけ目を引いたのを覚えている。
共働き家庭の一人っ子として育った明日菜は、家族に囲まれない寂しさをテレビに映るアイドルで紛らわせてきたという。切ないとき、苦しいとき、ひとりぼっちの家の中でアイドルだけは明日菜の味方をしてくれた。いつかわたしも誰かの寂しさを紛らわせたい、憧れの存在として誰かに寄り添えるアイドルになりたいと、明日菜は前のめりに意気込んでいた。
真央は幼い頃から歌やダンスの才能に恵まれる少女だったが、その値打ちを周囲の大人たちは理解してくれなかった。才能を伸ばす努力に励む真央を見て、親や弟までもが「そんな才能が誰の役に立つんだ」と冷笑した。華々しいアイドルを目指すのは、自分の才能を生かして誰かの役に立つ存在になり、彼らを見返すためだと真央は断言していた。
佑は明日菜とは対照的に、優秀な姉や兄のいる家庭で常に周囲と比べられていた。才女の姉や美形の兄に比べて末っ子の佑には際立った特技も魅力もなく、狭い家の中で劣等感ばかりが育っていった。人々の憧れの的であるアイドルになれば魅力的な女性になれると思ったのだと、佑は言葉少なに語っていた。
憧れ、反骨精神、そして劣等感──。集まった少女たちの身にまとう三つの属性は、そのまま「恒星を夢見る小惑星」というユニットのアイデンティティにも結び付いている。可愛かろうが見事なダンスを踊れようが、それは三人にとって当然のこと。それだけでは手の届かない場所にみずからの理想像を思い描いているからこそ、彼女たちは身を寄せ合ってアイドルという夢を見ているのだ。逆説的にいえば、そこにはいつだって「こんな自分になりたくない」という恐怖の裏打ちがある。彼女たちにとって夢を諦めることは「なりたくない自分」を受け入れることでもある。
明日菜がニコニコの笑顔を装って女の子に話しかけたのは、誰かの寂しさを紛らわせる存在になりたかったから。真央が群衆をかき分けてスタッフを探しに走ったのは、しなやかな身のこなしを生かして誰かの役に立ちたかったから。佑が得意の歌で女の子を魅了したのは、誰にも負けない魅力で誰かを魅せたかったから。──そう解釈すれば、すべての辻褄が合う。佑が容姿に自信を失っている理由も、真央がダンスの出来に関心を持たなかった理由も、明日菜が三人の先頭に立ちたがる理由も、すべてが一直線に繋がる。
今なら文綾にも分かる。
彼女たちはまだ、夢を諦めきれていないのだ。
オープニングイベントは「オリオンメテオシャワー」と題されていた。オリオン座流星群を意味する英単語である。お洒落な名前ですねと素朴な感想を口にすると、麦は溜め息交じりに愚痴を垂れた。
「流星★こめっとっていうアイドルいるでしょ。あの子たちを目玉にするつもりでメテオシャワーって名前にしたんだけど、肝心のあの子たちにキャンセル食らったんだよね」
「それ、さっき見た──」
言いかけた佑が真央に口をふさがれた。
なにやら闇の深い事情の臭いがする。文綾は乾いた笑いでその場をやり過ごすしかなかった。新進気鋭の流星★こめっとにしてみれば金銭面が云々というよりも、全国放送への出演による知名度向上というメリットの方が魅力的に映ったのではなかろうか。あながち邪推とも言い切れない気がする。
麦たちスタッフによる客寄せの効果か、会場内は思った以上にごった返していた。舞台の上には華やかな衣装をまとった数名の女性が立ち、マイクを手にして美しい歌を披露しているところだった。ゴスペルを思わせる見事な和声のシンクロに壮大な伴奏が折り重なり、圧倒的な迫力となって聴衆を飲み込んでいる。
傍らの明日菜が「かっこいい」とつぶやいた。
「『BlackHole Monster』の人たちだ」
「知ってるの?」
「いちおう同業者なので」
とんでもない質問をしたことに気づいた文綾は恥じ入った。マネージャーからも頑張り屋と評されているようなアイドルの卵が、同業者の研究に手を抜いているはずはない。
アイドルにしろ歌手にしろ、タレントはそれ自体が夢の存在でもあり、人々に夢を見させる存在でもある。夢を見させるというのはつまり、みずからの醸し出す空気感や世界観で相手を丸ごと飲み込んで支配することだ。なるほど、こんな風に聴衆を飲み込むんだな──。無我夢中で聴き入っている三人の姿を横目にしながら、文綾は今更のようにアイドルの本質を理解した気分になった。なにしろ文綾自身はかつて仕事上の「夢」を追いかけるのに夢中で、アイドルや歌手に夢中になった経験を一度も持たない。
美しい余韻を引きながら後奏が途絶え、曲の終わりとともに万雷の拍手が湧き起こった。メンバーが一斉にマイクを下ろす中、リーダーと思しき女性は満面の笑みを会場に振り向けた。
「次の曲は皆さんに手拍子をお願いしたいと思います! 最後の一曲なので、みんなで盛り上がっていきましょう!」
手本を示さんとばかりに、周りのメンバーが手拍子のしぐさをしてみせる。まだ曲が始まってもいないのに、何人もの客が釣られて手を打ち始める。数秒と経たないうちに、その手拍子に合わせてアップテンポの曲が流れ出す。息の合った連携に文綾は唸った。歌手も見事だが、演出も見事だ。出演者、演出、舞台装置、呼び込み、すべてが完璧な役割を果たして初めて、この世に夢の世界が顕現する。
歌唱が始まる頃には真央も佑も手を打っていた。その瞳には晴れやかなスポットライトの残滓が焼き付き、彼女たちが今まさに夢の世界を生きていることをあかあかと証明してくれる。後れを取っているような罪悪感に背中を撫でられ、合わせるつもりで両手を構えた文綾は、ふと、明日菜だけが手を動かしていないことに気づいた。
「どうしたの」
小声でささやいたが、明日菜は黙って首を振るばかりだった。
黙っているのは唇を噛んでいるためだった。二度、三度と首を振り回した彼女は、かすれた声で「なんでもないです」と言い張った。
「ただ、すごいなって……。ファンでも何でもない通りがかりの人たちに囲まれてるのに、みんなすごく楽しそうに歌ってるから」
「そうだね。すごく盛り上がってる」
「……わたしたちもあんな風になりたかったな」
ぽつり、明日菜の落とした声の波紋が、文綾の喉を一瞬で詰まらせた。
明日菜の横顔に笑みのかけらは見当たらなかった。よく見れば真央も、佑も、輝く瞳の下で同じように唇を噛んでいる。強い引力に当てられた眉が歪んでいる。もう一度「なんでもないです」と繰り返した明日菜は、叛心を見咎められたみたいに首を振った。振った拍子に白い光の粒が二滴、きらびやかな会場の光を照り返しながら散っていったのを、文綾は見逃さなかった。
──ああ。
また二つ、夢のかけらが欠けた。
あと何滴の涙が流れたら、この子は夢を失うのだろう──。
その瞬間、途方もない計算が文綾の前に立ちはだかった。数学に明るくない文綾でも一瞬で導き出せたのは、解は少なくとも無限ではない、という当たり前の厳然たる事実だけだった。
──「夢の裏側を簡単に覗ける、大きな夢を持ちにくくなった今の時代に、あの子たちは掲げた夢を投げ出さずに前だけ向いて走り続けてきたんだ。それはとってもすごいことなんだよ」
手拍子と喝采の波間に、いつかの日向の台詞がリフレインする。
その一節一節に込められた言葉の質感をようやく理解しきった瞬間、一か八かの賭けに挑む勇気と覚悟が、文綾の心へ急激に湧き上がってきた。アップテンポの曲に釣られ、胸の奥が熱くなっていたのもあるかもしれない。勇気の灯火が落ちてしまう前にと自分を奮い立たせ、文綾は「ちょっと」といって明日菜の腕を掴んだ。わけの分からない顔のまま、残りの二人もくっついてくる。目指すは入口に控えている麦のところだった。
「あの」
声をかけると麦はすぐさま「トイレ? 落とし物?」と眉を曇らせた。よほどトイレの場所と落とし物の問い合わせが多いのだろう。多忙な彼女に哀れみをかけつつ、文綾は麦の問いかけを無視した。
「出演者の枠が余ってるって話でしたよね」
「え、うん。そうだけど」
「アイドル、ここにいます。この子たちなら出演できます」
明日菜が「へぁ!?」と変な悲鳴を上げた。構わず文綾は畳みかけた。
「Asteroidっていうアイドル知りませんか。まだ駆け出しだけど、カイパーベルト・プロモーション所属の三人組ユニットです」
「うそ! カイパーベルトさんっていったら流星★こめっとも所属してる……」
「そうです。大手事務所の折り紙付きですよ」
事務所の名前を出した瞬間、あからさまに麦の目つきが変わったのを見て、文綾は売り込みの成功を確信した。芸能界に疎い人間の前では絶大な威力を発揮するあたり、やはり大手事務所の看板は伊達ではない。使えるものは何でも活用するのが営業活動の基本である。
様子が穏やかでないのは当のAsteroidの方だった。
「ちょっ……待ってください松永さんっ」
「なんでうちらのユニット名も事務所も知ってんですか!」
「確かにアイドルだってことは話したけど!」
「じゃあ本物なんだ?」
弁明しようとした文綾を遮って、麦が身を乗り出してきた。思わぬ形で文綾の紹介を肯定してしまった三人は、術中に嵌まった顔で「あ……」と呻いた。しょせんは高校生、ちょろいものである。
「ちょうどよかった! タイムテーブルに穴が開いて本当に困ってたの! あなたたちさえよければ是非とも舞台に立ってもらえない?」
「でっでも、わたしたち有名じゃないし、ファンだって少ないしっ……」
「なに言ってるの、カイパーベルトさんの所属タレントなら実力の保証は十分よ! ほんの繋ぎくらいの気持ちで出演してもらえたらいいの! ギャラもちゃんと出すから!」
押しの強さでは麦も負けていない。寄ってたかって大人たちに決断を迫られ、小さくなった三人は不安げに互いを見交わし始めた。
「無茶だよ……。衣装も何もないよ」
「マネージャーさんだって介してないし……。勝手にやったら怒られるよね」
「どうせ怒られるのは分かり切ってんだから、そこは別にいいんじゃないの」
「まゆう、音源って持ってる?」
「『Asnote』のカラオケ音源なら一応……。他のはないよ」
「あれの振り付け、最後に練習したのいつだっけ」
「四日前だったと思うな」
「どっちかっていうと歌の練習の方が足りてないよ。まだ作ってもらったばっかりの曲だもん……」
「わたしも正直、まだ歌詞うろ覚え……」
「いや、あすちゃんが作詞したんでしょ。しっかりしてよ。そんなこと言ったらうちだって自信ないよ……」
「だいたい一曲しかないのはまずいよね……。MCと合わせても一〇分も場を持たせられたら上等ってレベルだし……」
「だよね……」
「だよなぁ……」
どことなく後ろ向きな三人の相談が、喧騒の合間を縫って文綾の耳に点々と転がり込んでくる。三人の意向を無視してお膳立てに着手した自分の判断を、文綾は改めて自賛したくなった。この調子だと、文綾が事前に三人へ出演の提案をしていれば、三人は「けっこうです」と引き下がっていたかもしれない。
「もしかして松永ちゃんがマネージャーなの?」
小声で麦が尋ねてきた。痛いところを突かれた文綾は視線を漂わせた。
「えっと、まぁ……マネージャーの代理です」
マネージャーの代理でAsteroidを探しに臨海副都心までやってきたのだから、この表現は必ずしも間違っていないはずだった。あまり気に留める必要を感じなかったのか、「そう」と麦は相好を崩した。
「それなら出演料の話は松永ちゃん相手にすればいいや」
「……ぶっちゃけどのくらいなんですか」
「予算の都合もあるから大盤振る舞いはできないんだけど、今のところ出演者さんには三十万円相当の館内買い物券をお渡ししてるの。カイパーベルトさん所属のタレントには少なすぎるかな?」
明日菜が小声で「三十万円だってよ!」と驚愕したのが聞こえた。驚愕したのは文綾も同じだった。今日一日かけて文綾の散財し続けた金銭が、たった一度の出演ですべて取り返せるではないか。メジャーデビューも果たしていない零細アイドルの三人が受け取るには、どう考えても大きな金額である。
三人の相談は一瞬で「正直三十万円は嬉しい」という文脈にシフトし始めた。現金なものだ──と思いつつ、自分自身も胸を躍らせたことを片一方では認めながら、文綾は三人が結論を出す瞬間を辛抱強く待った。三十万円という金額が他の否定的な要因をすべて相殺してくれるのなら、それはそれで構わない。そこに報酬という名の対価が発生してこそ、人は目の前の仕事を真剣にやりのけることができるのだ。いくら大きな夢を掲げたところで、それだけで人は生きてゆけない。
「……あの」
思いふけっていると、不意に明日菜が文綾の方を向いた。
「松永さんはどう思いますか。わたしたち、頑張るべきだと思いますか」
突然の問いにうろたえた文綾は「なんで私に?」と訊き返してしまった。明日菜は憶病に目を伏せた。
「……分からないんです。不安なんです。確かに歌もダンスも用意はできそうだし、ギャラがもらえるのも嬉しいけど、それだけで決断していいことじゃない気がして……。だってわたしたち、ついさっきまで、真剣にアイドル辞めること考えようとしてたのに」
「お客さんの前に立つ資格がないってこと?」
「……そうです」
前髪の下で唇を噛む明日菜の顔に、いつか上司の前で退職の意思を打ち明けた自分の面影が重なった。古傷の痛みに文綾は俯きかけた。
あのとき、自分の投げかけてほしかった言葉は何だっただろう。そこにどんな言葉があれば文綾は救われただろう。悩んでも言葉が浮かばず、文綾は一瞬、舞台上に視線を逃がした。輝かしい面持ちで光を浴び、汗とマイクを握りしめるBlackHole Monsterの姿が、目をくらませるほどに綺麗だった。
あんな風になりたかったと明日菜は言った。嘘や出まかせのようには思われなかった。いくら辞める算段を立てていたとはいえ、まだ三人はアイドルを辞める決定をしたわけでもない。華やかな舞台に憧れる気持ちは、不遇な彼女たちの胸底では最後の最後までくすぶり続けるはずだ。
おあつらえ向きと言わんばかりに、出演スケジュールも空いている。スタッフへの伝手もある。出来心と言われてしまえばそれまでかもしれない。だが、そうだとしても、文綾は三人をステージに立たせてやりたかった。いっときの夢を見せてあげたかった。思いつきの理由はそれがすべてだった。
「……無理強いはできないよ。強引に声をかけておいてアレだけど、私にはやっぱり無理に頑張れなんて言えない」
小さく苦笑して、三人を振り返った。三人の無言で響かせた喉音が、文綾に次の言葉を吐き出させた。
「夢を支えるとか諦めさせないとか、そんな大それたことを考えたわけじゃないんだ。ただ、あのステージを見つめるみんなの目、すごく寂しそうで羨ましそうだったから……。もしもあの舞台に憧れる思いが少しでも残ってるのなら、せっかく目の前に転がってるチャンス、なんとかしてみんなに手渡してあげたいなって思っただけなの。だからこれは私の単なるわがまま」
「……松永さん」
「無理なら無理って言ったらいいと思うよ。せっかくの安息日だもんね」
そっと文綾は笑ってみた。たちまち、最後の最後で要らぬ緩衝材を挟んだことへの後悔に呑まれたが、すでに時は遅かった。明日菜は瞳に一輪の光をたぎらせ、残りの二人に向き直って頷き合った。三人は結論を出してしまったのだ。
「スタッフさん」
明日菜が声をかけたのは文綾ではなく、麦だった。
「すごく言いにくいんですけど、わたしたち、そんな大したことはできないです。いま用意のある持ち歌も一つしかないし、クリスマスとあんまり関係ない曲だし、最大でも一〇分くらいしかタイムテーブルを埋められないと思うんです。それでもいいならやらせてください。大したことできないなりに精一杯、頑張ってみせますっ」
らんらんと光を燃やす彼女の瞳には、三人の固めた覚悟の姿が克明に映し出されていた。賭けに勝ったことを理解した途端、文綾は安堵のあまり大粒の溜め息をこらえきれなかった。
「決まりね!」
微笑んだ麦が明日菜の手を取った。
おぼつかない手つきで明日菜も握り返した。それはおそらく彼女たちにとっては初めての、マネージャーの手を介することなく自力で舞台を勝ち取り、みずからの意志で仕事に戻った瞬間だった。
「お客さんの顔ほんとに覚えてんの?」
「当たり前じゃん。大好きなお客さんの顔はばっちり覚えてるよ。たまに果物の差し入れをくれるのはジャンガリアンみたいな顔の人でしょ、そんでお菓子の差し入れくれる人はモモンガみたいな顔で……」
「みんな食べもの関係だし、なんなら例えが全部ペットっていうね」
▶▶▶次回【7# 暗幕に夢を描いて】