表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アイドリングアイドル!  作者: 蒼原悠
★frontside★
5/12

5# 足りない心を埋めるように



 

 新卒で就職した総合商社から文綾が依願退職の形で身を引いたのは、つい今年の春先のことだった。世界のすべてが希望に満ちた色に萌える季節に、文綾の心と履歴からはひっそりと夢の残滓が剥がれ落ち、都会の雑踏に踏みにじられて消えた。

 夢と呼べるほど誇らしい理想像を持っていたかと問われれば、「夢ではなかったかもしれません」と言い逃れの余地を作りたくなる。ただ、()()だけは明確に持っていたつもりだった。世界を股にかけた大規模な商売で人々に物資を行き渡らせる総合商社は、資源の乏しい貿易立国の日本になくてはならない生命線だ。世の中に必要とされる存在でありたいと願い、新卒採用の門戸を叩くと、彼らは喜んで文綾を迎え入れてくれた。入社が夢の終わりじゃない、ここからが夢の本番なんだ──。そう意気込んで出勤初日を迎えたことを、今は色あせたフィルム映像のように遠く思い出す。

 退職までの二年間にわたって在籍したのは、重工業系の企業を取引相手に持つ血気盛んな営業部署だった。慣れない体育会系の風土の中、連日連夜の激務が続き、しまいには起きて、出勤して、退勤したらすぐに寝るだけの単調な日々が文綾の日常になった。同期入社の子たちがそうした生活習慣に続々と順応してゆく一方、文綾ひとりは取り残され、体調不良での早退や遅刻を繰り返すようになっていった。この指の先で日本の経済が回っている、この数字の彼方で誰かが今日を食いつないでいる。そう言い聞かせて仕事の実感を得ることでしか、勤務のモチベーションは保てなかった。(かさ)んだストレスは着実に勤務の成績も押し下げてゆき、果てには鬱病の傾向までも見られ始めた。ないがしろにされていると感じたのか、付き合っていた恋人にも呆気なく振られ、多忙な日々に追われて友人たちとの距離も遠ざかり、いよいよ不満や不安の()け口も確保できなくなった。


「もう限界なんじゃないか」


 胃痛を起こして遅刻した日、気遣いのつもりで口にしたのであろう上司の一言が、文綾の心を折る最後の一打になった。それから数日も経たないうちに文綾は辞表を提出し、残りの勤務日をすべて有給の消化に当てた。君の抜けた穴は大きい、是非とも戻ってきてくれと上司や同僚は引き留めてくれたが、その願いを受け止められるだけの余力を文綾は持っていなかった。名前を見るだけでも吐き気が込み上げ、退職と同時にすべての連絡先を消去してしまった。

 結局、文綾は生真面目に過ぎたのだった。同僚たちは激務の合間を縫って適度に手を抜き、好きなものに明け暮れる時間を作り、仕事のストレスを上手く発散していた。不器用な文綾にはそれができなかった。国を支える一員になるという壮大な夢を抱え、実現のためと信じて仕事と一途に向き合い続けた文綾は、しまいにはその夢のために潰れていったのだ。

 夢は大きいほど叶わなくなる──。

 退職慰労の飲み会の場で、飲んだくれた文綾はそう叫んだらしい。

 文綾の記憶には残っていないが、相手をしてくれた日向は頑なに「言ってた」と主張して譲らない。文綾が覚えているのは酒の苦味と夜風の涼しさだけだ。夢の壊れた痛みに耐え切れず、無駄に強くなったビールに溺れては嫌というほど泣き喚いた、晴れやかな春の夜の涼しさだけ。



『オリオンシティ東京プラザ』は、ファッション物販や飲食店、ライブホール、スポーツ型アミューズメント施設などを有する、台場・青海地区でも最大規模の複合商業施設だ。インターネット販売の多様化によって客層も変化してきたことから、このたび大規模な全体改装を行い、心機一転のリニューアルオープンを迎えることとなったらしい。二階入口前のフェスティバル広場に鎮座する巨大な人型ロボットは、この日のためにわざわざサンタをあしらった様子のカラーリングに変更され、詰めかけたファンによってフラッシュの嵐を浴びていた。写真好きの魂がうずいたのか、この時ばかりは佑も「佐久間カメラの出番だ」といって愉快そうにスマートフォンを構えていた。

 入口をくぐると、そこには臨海副都心でも最大規模の店舗数を誇る広大なフードコートが待ち受けている。けれども三人はフードコートになど目もくれず、一目散に上層へ向かうエレベーターの前に向かおうとする。無理もないかと肩をすくめ、文綾も三人のあとを追った。それもそのはず、フードコートの傍らには常設ライブホールの入り口があり、開け放たれた扉の向こうでは賑やかな声が弾けているのだった。例のオープニングイベントはライブホールの中で催されているようだ。舞台の上で華やかな世界を生きている同業者の姿を、三人は是が非でも目に入れたくなかったのだろう。


「なに食べよっか」


 いやに陽気な声色で明日菜が尋ねた。真央は「焼肉」、佑は「お寿司」と答えた。スポンサーの文綾は胃に優しい定食を食べたい気分だったが、ここまできて三人の店選びの邪魔をする気にもなれなかった。


「焼肉かー。胃がグニャーってなりそう」

「そこへ行くとほら、お寿司はヘルシーだよ」

「寿司屋じゃ絶対に野菜が出てこないからって理由で選んでんじゃないの?」

「それ言ったら焼肉屋だって出てこないから!」

「わたしお寿司も怖いなぁ。調子に乗ってパクパクし続けたら焼肉並みに太っちゃうよ」

「いや、そこはもういいでしょ。なんていうかさ……今さら太る太らないで店を選ぶ必要ないよなって思う」

「私も同感。もう振り回されるの疲れたもん」

「それもそっか。んー、わたしは何の気分かなっ」


 朗らかな声の裏に凄まじい毒気が見え隠れしている。笑うに笑えない話題をどうやり過ごしたものか、文綾は三人の後ろで途方に暮れた。彼女たちの本心は現実逃避か、はたまた本格的に夢を諦めようとしているのか──。いずれにせよ自暴自棄になった人間の顔は、傍目にはこんなにも明るく開放的に映るらしい。夢を呪いの一種と考えるなら、それも当然の帰結な気がする。


「というわけでお寿司がいいかなーって思うんですけど、どうですか」


 議論が妥結を見たらしく、いつものように明日菜が確認を求めてきた。よりによって最も値の張りそうな店を選んでくれたことへの腹立たしさと、偶然ながら最も胃に優しそうな店を選んでくれたことへの安堵が入り混じって、変な顔で文綾は笑ってしまった。


「いいよ。遠慮しないで」

「やったっ」


 控えめな声で三人は喜びを共有した。

 こうして素直な感情を分かち合う顔を間近に拝むたび、やっぱり可愛い子たちだな、と思う。ダンスレッスンで汗を流すと分かっていた以上、彼女たちがメイクに本腰を入れてきたとは考えられないが、それでも文綾の目に映る三人は十分なほど容姿に恵まれ、また振りまく魅力にも恵まれている。これでもなお売れっ子アイドルになるには素養が足りないのだとしたら、この世界はあまりにも冷淡だ。あぶれた文綾を置き去りにして、ずんずん突き進んでいってしまうくらいには。

 ──何を知ったような顔してるんだ、私。

 アイドルの世界の無慈悲さなんて何も知らないくせに。

 この子たちの重ねてきた苦労なんて何も知らないくせに──。

 脈絡のない自己批判にふけりかけた文綾の意識は、不意に明日菜の上げた声で現実世界に転落してきた。


「迷子?」


 見ると、十数メートル先のフロアを泣きながらさまよう女の子の姿があった。頭と身体のサイズ感からして、歳は四、五といったところか。一歩引いた場所から冷静な分析を試みている間に、いち早く明日菜が動き出した。猫のように足音をひそめて駆け寄った彼女は、女の子の目線にしゃがみ込んで顔を覗き込んだ。


「どうしたの? お母さん見つからないの?」

「おかあしゃん……はぐれちゃったの……ひっぐ……」


 出遅れた文綾たちも明日菜のもとへ駆けつけた。今しがたまでの闇色の瞳はどこへやら、明日菜はすっかり満点の笑顔を装い、「よしよし」と女の子の頭をくしゃくしゃにしている。


「お名前は言える?」

「お……小川……ゆみ……っ」

「そっかそっか、ゆみちゃんだねっ。お名前言えて偉かったよ」

「ゆみ、えらい……?」

「偉いよー。すっごく偉い。お姉ちゃんてっきり言えないかと思ったもんっ」


 泣き止まない女の子を抱きしめて撫で回しつつ、鋭く目線を上げた明日菜は真央と無言のやり取りを交わした。すかさず真央はフロアマップを開き、インフォメーションブースめがけて店内を駆け出した。佑はといえば、さりげない動きで女の子のポケットに手を突っ込み、連絡先の書かれたものがないか探そうとしている。いっとき前の脱力した姿とは大違いな三人を前にして文綾は手も足も出せず、茫然と事の成り行きを見守るばかりだった。


「ダメ。見つかんない」


 佑が首を振った。早期の引き渡しは不可能と悟ったのか、明日菜はたちまち女の子の機嫌を取る作戦に切り替えた。


「ねーねーゆみちゃん、お母さんが来るまでわたしと遊んでよっかっ」

「なにするの……?」

「そうだなー。お歌は好き?」

「すき」

「そっかそっか! 何が好き?」


 あれほど泣きじゃくっていたのが嘘のように、明日菜の腕の中で女の子は鎮静化している。思わず「すごい」と独り言をこぼしたら、隣に戻ってきた佑が「すごいでしょ」と応じた。


「あすちゃんは子供をあやすの大得意なんですよ。いっぺんに何人でも相手にできちゃうんだから」

「そんな気がするなぁ。お姉ちゃんタイプだよね、あの子」

「なのでちっちゃい子向けのイベントに出たら引っ張りだこです」

「そんなのにも出るんだ?」

「私たち、お仕事は選べないので」


 これは事実だろうと文綾は思った。実際問題、弱小アイドルのAsteroidは本当に仕事を選べないのだろう。SNSに棲むファンたちの言動を見ている限りでは、老人ホームのレクリエーションイベントや私立高校の文化祭のステージにすら出向いていた形跡がある。

 妙な哀れみを覚えた文綾の耳に、突如、微妙に音程を外した童謡のメロディが飛び込んできた。

「きらきら星」である。誰かと思えば声の主は明日菜だった。女の子を寝かしつけるように優しく、穏やかな声で歌っているつもりのようだが、音程のずれが生み出す絶妙な不協和感はどうしても隠しきれていない。だいたい歌詞もうろ覚えだ。ありがた迷惑と言わんばかりに女の子は顔をしかめている。


「ちょっと代わって」


 見かねた佑が進み出た。明日菜は「えー」と露骨に嫌そうな顔をしたが、しぶしぶ歌うのをやめて佑に場を譲った。多少は音痴の自覚を持ち合わせているらしい。

 瞳を閉じた佑は、二、三度と調子を確かめるように咳払いをして、桃色の唇をそっと開いた。

 それはまさに天使の歌声だった。うんと音量を絞っているのに、透き通った高音がのびのびと響いて皮膚を突き抜け、心の奥底にまで強い熱を残してゆく。女の子は目を見開き、何が起きているのか分かっていない様子で佑を見つめ始めた。せっかくの舞台を邪魔されてむくれていた明日菜も、しまいには佑の歌声に口パクで合わせ、元のような笑顔で女の子をあやしにかかった。傍らを通り過ぎる買い物客が何度もこちらを振り返るので、何もせず突っ立っている文綾の居心地はすこぶる悪かった。


「泣き止んだねぇ」


 佑の歌い終わりを見計らって明日菜が問いかけた。

 夢見心地の面持ちのまま、女の子は「うん」と同意する。すべて計算ずくの予定調和とでも理解しているみたいに、明日菜も佑も顔を見合わせて微笑した。見事に息の合った連携で女の子をなだめてしまった二人の力に感服するあまり、文綾はひとり突っ立った姿勢のまま、ゆるゆると安堵の吐息を床にこぼした。

 こぼしながら、こんなに真剣な三人の姿を見たことがあっただろうか、と考えた。

 女の子の目線にしゃがみ込んで話しかける明日菜の目も、透き通った歌声を放つ佑の目も、いやに真剣で、そのくせキラキラと楽しげな光を宿していた。それが今、穏やかに落ち着いて眼前の女の子を見つめている。ひとりぼっちでなくなった女の子の表情に、もはや怯えの色は少しも見えない。そのつぶらな瞳を覗き込んで、やっぱりそうだと文綾は(ひらめ)いた。

 初めから難しい理屈など存在しなかったのだ。

 彼女たちはただ、女の子に笑ってほしかったのだろう。それぞれの持つ能力を最大限に生かして、たったひとりの誰かを幸福に導くことに、三人は今、純粋な喜びを覚えているのだ。


「スタッフさん連れてきた」


 息を弾ませながら真央が戻ってきた。例に漏れず真剣な光を帯びた彼女の目を見て、文綾はみずからの仮説が正しいことを確信した。


「向こうのオープニングイベント会場で迷子が出てたらしい。多分その子じゃないかって言ってる。名前は?」

「小川ゆみちゃん」

「それだ、その子だ。見つかってよかった……」

「それはそうとスタッフさんは?」

「やべ、急ぐのに夢中で置いてきた」


 女の子を抱いたまま「何してんのー」と明日菜が笑う。仲間の凡ミスを笑って流せる度量の深さに他人事ながら感心しつつ、雑踏の中から近づいてくる足音を文綾の耳は聞き分けた。どうやらスタッフは辛うじて真央を見失わずに済んだようだ。


「お待たせしました、どちらの……」


 スタッフの女性は文綾を見るなり、言葉を詰まらせた。


「ちょっと、松永ちゃんじゃない! こんなところで会うなんて!」


 そこで初めてスタッフの顔をまともに眺めた文綾は、驚いた拍子に「げ」と不快な声をこらえきれなかった。「知り合いですか?」と明日菜の声が割り込んでくる。とっさに彼女との関係を説明する言葉を思いつけず、文綾はほとんど無言でうなずいた。

 スタッフの名前は相生(あいおい)(むぎ)

 かつて総合商社・明星綜合物産(みょうじょうそうごうぶっさん)に勤務していた頃、他部署ながらに交流を持っており、社内の理解者の一人だった女性だ。

 ともかく迷子をどうにかするのが最優先とばかりに、麦はインカムで他のスタッフを呼び出し始める。間もなく母親を連れたスタッフが慌ただしく駆けてきて、女の子と母親を引き合わせた。明日菜たちの尽力ですっかり落ち着きを取り戻していた女の子は、おろおろと寄ってきた母親に力いっぱい抱き着いて、それからAsteroidの三人を指差した。


「おねえちゃんたちがね、やさしかったの」

「どうもうちの子をありがとうございます! このまま見つからなかったら一体どうしようかと……」

「えへへ。大したことはしてないですけど」


 明日菜の顔が照れ笑いで溶けている。今度ばかりは三人の活躍が見事だったと素直に称賛を送っていたら、思い出したように「ねね」と麦が寄ってきた。


「久しぶりじゃん。ぜんぜん連絡なくて心配してたんだよ」

「実はその……連絡先ぜんぶ消しちゃったんです」

「そっか。だからか」


 麦は眉を押し下げた。


「あの頃はごめんね。私ら、松永ちゃんが追い詰められてるの分かってたのに、ろくなサポートもしてあげられなかったね」


 過ぎたことに悔いを述べられたところで、失われた未来が元通りになるわけではない。乾いた感慨を持て余した文綾は、首を振って彼女の懺悔を聞き流した。ともすれば過去のよすがに執着したくなる甘ったれな自分を、きっぱり同時に断罪したつもりでもあった。


「先輩こそ、どうしてここで働いてるんですか。まさか……」

「まさか! 転職したわけじゃないから心配しないでよ」


 立ち去ってゆく母子を見送りつつ、麦は苦笑した。


「この商業施設、リニューアルの時にうちの会社がちょこっと資本を回したんだよね。それが縁でオープニングイベントのスタッフに何人か駆り出されることになって、私らに白羽の矢が立ったわけ」

「大変ですね、クリスマスイブなのに」

「大変よ! もう投げ出したくなるくらい大変。迷子は出るし急病人は出るし、おまけに出演予定のアイドルが一組キャンセルしてスケジュールに穴は空くし……」


 文綾の脳幹は敏感に反応した。「キャンセルって?」と尋ねたら、それまで他人事のようにぼんやりしていた三人が急に耳をそばだててきた。


「スケジュールの都合ってやつだよ」


 麦は苦々しさを隠そうともしなかった。


「けっこうな売れっ子を呼んだんだけどね。うちの方で出してあげられるギャラ、正直あんまり多くはなかったし。よそのイベントに引き抜かれても仕方なかったのかな」


 出演料の多寡でイベントへの出演をキャンセルできるだなんていいご身分だ──とでも叫びたそうな三人の顔が脳裏に浮かび、むず痒い思いが文綾の身体を駆け抜けた。それこそ残酷なことだが、結局のところ大人の世界は算盤勘定で成り立っている。金銭という名の対価が支払われなければ誰も動かないし、動けない。それは誰もが仕事の裏に生活を抱えているからでもあるし、対価とともに発生する責任がなければ仕事の質を担保できないからでもある。大人が夢を語れないというのは、つまりそういうことなのだ。

 ほどほどに夢と距離を置きながら現実を生きることが大人の条件なら、新卒で入社した当時の文綾はきっと大人ではなかった。そして、大人に生まれ変わるための成長痛に耐え切れず、未来を取り落とした。いつか文綾と同じように痛みを抱えて未来を手放すことを、Asteroidの三人も恐れている気がする。


「ま、スケジュールの穴はなんとかするよ。その時間は適当に音楽かCMでも流して誤魔化そうと思ってる」


 伸びをしながら言い切った麦は、ふと、文綾の背後に並んでいる三人の姿に目をやった。自分を呼びに来た少女が大人しくとどまっていることに、彼女はようやく疑問を覚えたらしい。


「その子たちは? 知り合い?」

「知り合いっていうか……ねぇ?」


 答えに迷った挙げ句、三人を頼ってしまった。明日菜が小さな声で「保護者です」と口にした。


「保護者! 松永ちゃん、もしかしてこの子たちの──」

「産んでないですよ! 私のこと何歳だと思ってるんですか」

「いや、親戚かって聞こうとしただけだよ、私」


 思いっきり梯子を外されて赤面した文綾をよそに、麦は営業用の笑顔を満たして三人に向き直った。


「あなたたちもよかったらうちのイベント覗いていってね。人気アイドルの出演はなくなったけど、他にもけっこう豪華な顔ぶれを呼んでるんだから!」


 三人が売れないアイドルであると知っていたなら、麦は決してそんな台詞を投げかけたりはしなかっただろう。案の定、明日菜たちは青とも赤とも言い切れない色になって固まった。噛み締めた唇の端に屈辱の二文字が滲んでいる。

 この場をなんとかできるのは自分しかいない。文綾は横から口を挟もうと顔を上げた。場を逃れるための文句なら無数に考えついた。「これから夕食なので」とか「もう帰らなきゃいけないので」とか──。これはと思うものを選び取って口を開いた、刹那。


『もう限界なんじゃないか』


 文綾の夢に鉄槌を振り下ろした上司の言葉が、発しかけた台詞に重なった。

 二つの声が混ざって不気味に描き出されたエコーは、文綾の肌に脂汗を浮かばせ、唇を凍り付かせるには十分な破壊力を持っていた。喘ぎかけた文綾はとっさに真逆の言葉を口にしていた。


「ね、行ってみない?」

「イベントに?」


 蚊の鳴くような声で佑が訊き返してきた。肝心の自分が折れてなるものかと、文綾は力強くうなずいた。

 根拠があったのではない。ただ直感的に、ここで三人を舞台から引き離すことが、一つの可能性を潰す結果になるかもしれないと思った。アイドルの夢を諦めるか否かは、最終的には彼女たち自身で決めること。なにも文綾が進んで夢を折る方向に持ってゆく必要はないし、するべきではない。それこそ夢を諦めさせることは実に簡単で、それゆえにあまりにも無責任なのだ。


「……松永さんが言うなら、いいですけど」


 しぶしぶ三人は応じてくれた。文綾や三人の思惑を何も知らない麦は、みずからの営業成功とばかりに顔をほころばせて「一緒に行こうか」と先頭に立ち、一行を率いて歩き出した。




「どっちかっていうと歌の練習の方が足りてないよ。まだ作ってもらったばっかりの曲だもん……」

「わたしも正直、まだ歌詞うろ覚え……」

「いや、あすちゃんが作詞したんでしょ」


▶▶▶次回【6# これが三人の選ぶ道】

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ