4# 裏の事情と隠れた声
午後五時を回って日没の時間が迫ると、臨海副都心の一帯には点々とイルミネーションの輝きがともり始めた。台場地区と青海地区は太いL字型の敷地形状をしていて、その軸をシンボルプロムナード・ウエストプロムナードという二つの広大な公園が貫き、各エリアに建ち並ぶ商業施設や観光施設を柔軟なネットワークで結んでいる。各所に光の帯をまとったツリーが点在して夜景の隙間を埋め、クリスマスマーケットの出店が賑わいを振りまく。年に一度の聖夜を晴れやかに迎えた臨海副都心の街は、まるで都心の喧騒から隔絶された地上の楽園だ。
「すごい! 高い!」
「めっちゃ遠くまで見えるじゃん」
「シャランシャランって感じっ」
「それは『綺麗』って意味?」
ガラス張りの大窓に駆け寄った三人が、それぞれの言葉で眼前の感動を表そうと躍起になっている。遅れて文綾も窓の前に立ち、眼下に広がる楽園の街並みに目を細めた。首都高速を行き交う自動車のヘッドライト、ゆりかもめの車窓、夕闇色に映える航空障害灯の赤い点滅、オフィスビルの窓に萌える白色の蛍光灯。すべてがそれぞれの秩序に従い、それぞれの居場所に散らばってまたたくさまは、あたかも地上に広げられた星座早見表を思わせる。
台場地区の中心に建つ『ヒノデテレビ』本社屋の二十五階には、およそ二七〇度の視界を有する巨大な球体展望台がある。時間帯のせいか親子連れの数は減っていて、代わりにひしめくカップルが眺望のよい場所を無言で奪い合っていた。もっともそれも三人の前では無力なもので、明日菜たちが「次あっち行こ!」と大挙して押し寄せてくれば、彼らは迷惑げに顔をしかめながらも窓の前を譲ってしまう。女子高生集団の勢い、恐るべし。カップルなんて残らず三人に蹴散らされてしまえ。理不尽な逆恨みを目尻に込めつつ、いちおう保護者の体を見せねばと思い、文綾は憐れな彼らに何度も頭を下げた。
「ねね、寒くなってきたし温泉とか行きたくない?」
「確か『月夜温泉物語』ってこのへんにあるんだよな」
「あそこじゃないかなぁ。未来館の奥の方に見えるやつ」
佑の指差す先には、温泉のテーマパークを称する大規模温浴施設がある。──温泉か、悪くないな。あそこは広くて夜景の素敵な足湯もあった気がするしな──。澄んだ心境で温浴の感覚を思い浮かべていた文綾は、不意にポケットの中のスマートフォンが鳴動したのに驚いて声を上げかけた。慌てて画面に表示された名前を確認するや、今度は一気に血の気が引いた。
日向から電話がかかってきている。
文綾の脳裏には怒涛の勢いで当初の任務がよみがえった。
しまった、すっかり忘れていた。そもそも文綾はマネージャーの日向に引き渡すための方策を練るため、偶然を装ってAsteroidの三人と接触を続けていたのだった。
「電話ですか?」
明日菜の何気ない問いかけで文綾は肩を跳ね上げた。アイドルたちの眼前で日向からの電話に出るわけにはいかない。「ちょっとね」と口走りながらスマートフォンを握りしめ、すばやく三人のもとを離れた文綾は、ひとけのないガラス張りの廊下まで来てから受話口を口元に押し当てた。
「もしもし?」
──「どう? 見つかった?」
日向の声は上ずっていた。罪悪感で痛んだ胃を、そっと文綾はコートで隠した。
「ごめん、まだなの。このあたりのビルとかショッピングモールはぜんぶ回ったんだけど」
──「だろうね。こっちも別用が終わってから探してるけど全然ダメ。電話かけても繋がんないし」
まるで平気な顔をして夜景を楽しむ三人の顔が頭をよぎり、変な笑いが文綾の鼻を上ってきた。佑など「佐久間カメラ」と称してスマートフォンを構え、夢中で夜景を撮影していたが、あの様子だと彼女はマネージャーからの怒りの着信にも気づいたうえで残らず黙殺していることになる。彼女たちは見かけによらず豪胆だ。もしくは、強情か。
──「はぁー……もうほんと最悪。せっかくのクリスマスイブだってのに余計な仕事を増やしてくれちゃってさぁ。戻ってきたら目から星が出るほど叱り飛ばしてやるんだから」
文綾の神経すら芯まで凍らせるほどの調子で、ぶつぶつと日向は愚痴を垂らす。軽い鎌かけのつもりで「クリスマスイブくらい遊びたかったんじゃない?」となだめてみたら、日向は逆にヒートアップした。
──「そんなのこっちも分かってるんだよ! 講師の予定が今日しか合わなかったんだから仕方ないじゃん。いつだってあの子たちの予定を最優先にしてあげられるわけじゃないんだよ」
「いや、気持ちは分かるけど、それを私に叫ばれても困るよ……」
──「……ごめん。そうだよね。あたしもちょっと頭冷やさなきゃ」
薄い端末の向こうで日向は露骨に憔悴していた。いつかの自分と同じ影を彼女の声に見出した気がして、文綾はまた少し肩を小さくした。文綾と同時に大学を卒業して芸能事務所に就職した彼女は、勤続三年目とはいえ、今もなお経験の乏しい若造にすぎない。仕事のペースも十分につかめていない中で担当アイドルに失踪騒動を起こされては、彼女が疲弊するのも無理はないことだった。
それにつけても、日向がこれほど平静を失うところを見たのは初めてだ。改めて三人の背中を振り返り、文綾は得も言われぬ違和感をもてあそんだ。カップルの冷たい視線を無視して歓談するアイドルたちが、何か不感症のようなものでも患っているように思えてならなかった。
同じ教室で講義を受けていた頃から、日向は誰よりも頑張り屋で情熱にあふれる女の子だった。目の前の課題へ真剣に取り組み、誰からも努力を認められる存在だった。振り回される姿なんて当時は見たこともなかっただけに、今、あふれ返った違和感が文綾の心に靄をかけている。現在進行形で日向に迷惑をかけているAsteroidの三人の目には、マネージャーは情熱的な頑張り屋のようには映っていないのだろうか?
もたげた疑問が猜疑心に変わりかけた、その瞬間。
『──わたしたちのこと何だと思ってるんだろ!』
明日菜の発した抗議の怒号が鮮烈によみがえった。
はたと今更のように気づかされ、文綾は立ちすくんだ。サボって遊ぶ三人の姿は嫌というほど見てきたが、そういえばアイドルとしての三人の姿を文綾は一度も見ていない。はたまたマネージャーとしての日向の姿を見たこともない。三人や日向の態度に文綾が戸惑うのは、たぶん、その背後に横たわる文脈を少しも理解していないからなのだ。
「ね、日向」
問いかけると苛立ち気味の返事が来た。
──「なに?」
「Asteroidってさ、どんなアイドルなの。私アイドルの事情には全然詳しくないし、どんな子たちなのか全く想像がつかないんだけど」
──「ありきたりな子たちだよ」
迷いのない言葉選びで日向は断じた。
「ありきたり?」
──「ありきたりっていうか、あたしがまだ特別な存在に育てきれてないの。もう十何年も前からアイドル業界って供給過多の飽和状態でさ、そうとう光る何かがないと既存の市場に埋もれちゃうんだよ。ただ白く光るだけの星を夜空に探そうとしたって、みんな同じように白く光ってんだから見つかるわけないでしょ? それと同じだよ」
「あんなにダンス上手くても埋もれちゃうんだ」
──「あんなに?」
「あっいや、言葉のアヤです……。SNSに投稿されてたライブの動画を見ただけ。普通に上手いなって思ったけどな」
──「ダンスが上手いなんて当たり前なんだよ、この業界は。星が光るのと同じくらい当たり前。歌とかトークとか容姿に関しても同じことだよ。だからあの子たちも毎日のように膨大な課題をこなして、少ない時間でイベントに出て、必死に経験を積んでるところなんだよ」
日向のまくし立てる勢いは止まらない。生のダンスを見た事実を嘘で塗り固めつつ、早口の説明に黙って耳を傾けながら、文綾は次第に理解を深め始めた。どうやら自分は大きな思い違いをしていたらしい、と。
ただ笑っているだけで商品価値が生まれ、好きなことをしているだけで生活を送ってゆける。芸能界に疎い文綾の目にはそう映っていても、実際のアイドルは自然体のままではいられない。誰かの一番星になりたければ、見つけてもらえるような光り方をしなければならない。よほど先天的で尖った魅力を持つアイドルでもない限り、普通の子たちは様々な努力を強いられるのだ。無論Asteroidも例外ではない──。日向の話はつまり、意訳すればそういうことになる。
──「アイドルの総数がいくつか知ってる? 日本国内だけでも一万人にのぼるって言われてんだよ。おまけに韓国や東南アジアからもアイドルが参入してくるし、SNSとか動画投稿プラットフォームで活動する人たちもアイドル並みの人気を持ってるし、一般の芸人とか俳優の中からもアイドルみたいな存在がゴロゴロ出てくるし、挙げ句の果てにはアニメやソーシャルゲーム発のアイドルユニットまで出てくる始末。パイの奪い合いは激しくなる一方なんだよ。たまたま上手く運んで売れっ子になれたアイドルでも、一年も経たないうちに飽きられて話題性を失って、あっという間に元の売れない鞘に戻っていったりするくらい」
まくし立て足りないとばかりに、日向は重い吐息を受話器に吹きかけた。
──「Asteroidの三人が努力不足だなんてあたしは思ってない。学業をおろそかにしないで週に何度もレッスン受けて、どんな仕事にもめげずに取り組んできた子たちだもん。ちょっとネットを漁れば夢の裏側を簡単に覗ける、大きな夢を持ちにくくなった今の時代に、あの子たちは掲げた夢を投げ出さずに前だけ向いて走り続けてきたんだ。それはとってもすごいことなんだよ。……それでもさ、文綾なら分かるでしょ。努力は必ず実を結ぶわけじゃないし、夢は大きいほど叶わなくなるんだってこと」
「……私の会社勤めのことを言ってる?」
──「当たり前じゃん。退職して真っ先に慰め会を開いたのは誰だと思ってんの。だいたいあのとき『夢は大きいほど叶わなくなる』って叫んだの、文綾でしょ」
文綾は喉に言葉を詰まらせた。急に足元の床がなくなって、百二十三メートルの高さから転落するような感覚に襲われた。耳元で滔々と続く日向の語りが遠くなった。
──「あたしだってもっとあの子たちに輝いてほしいし、輝ける場所を少しでも提供してあげたいけど、正直、今のAsteroidの知名度じゃ大きな仕事は選べない。あたし自身もそんな伝手を持ってない。立派な舞台に立てなくて悔しい気持ちも分かるけど、それでもあの子たちには頑張り続けてもらうしかないんだよ。いくらあたしに熱意があったって、あたしはAsteroidのメンバーに代わってあげられないんだ」
どう言葉を返せばいいのかもわからず唇を閉ざしたまま、文綾は陽の暮れた街並みを静かに見下ろした。
刻一刻と藍色に沈んでゆく世界のそこかしこに、街灯やイルミネーションの灯火が些細な存在を主張している。全体としての夜景は華やかで壮大でも、一つ一つの電球の存在は取るに足らない。そして、同じ色に光る無数の灯火から一つを選び取るほどの高精度な目と根性を、残念ながら人間は持ち合わせていない。かくして大半の電球たちは誰の注目も浴びないままフィラメントを切らし、枯れてゆくのだ。
練習をサボってスタジオから逃げ出した時、三人は何を思っていたのだろう。
今、あの三人は肋骨の奥にどんな心境を抱え、かりそめの休日を楽しんでいるのだろう。
へらへらと朗らかに和らぐ仮面の下に、どんな表情が滲んでいるのだろう。
聞き出してみたいことは山ほどあふれてくるのに、通りすがりの文綾の立場ではとても聞き出せない。そうだ、まずは三人を日向に引き渡すことから考えなきゃいけないんだったな──。気を取り直して前を見上げたが、果たしてこのまま三人を現実世界に戻してあげることが正解なのか否か、今の文綾には判別がつかなかった。
連れ立って球体展望台を降りると、台場の街はすっかり夜のムードになっていた。開口一番「クリスマスディナーのこと考えなくちゃ」と明日菜が口走って、文綾はくたびれた心の底に溜め息を落とし込んだ。一体どこまで欲が深ければ気が済むのか。
「えー、月夜温泉物語に行くんじゃなかったの」
「あそこガッツリ和風だし、クリスマスって感じの風情ではないんだよなぁ」
「オリオンシティとかどう? 今日からリニューアルオープンなんだってよっ」
「松永さんさえOKなら私はどこでもいいや」
「うちも同感」
「というわけで松永さん、どうですか?」
自然な流れで三人が承認を求めてくる。もはや日向からの債権回収など望むべくもないと割り切りつつあった文綾は、何も考えずに「いいよ」と応諾した。応諾してから、オリオンシティというのが今朝がた豊洲の駅前でビラを配っていた商業施設であることに思い当たったが、かといって大人げなく「腹が立ったから行きたくない」などと言い募る醜態をさらすのも癪だった。
「じゃあ行こっか!」
元気な明日菜の音頭で歩き始めた一行は、間もなく十歩も進まないうちに急停止した。
「どうしたの」
文綾が問いかけたが、誰からも返事はない。三人の目は前方を凝視していた。球体展望台の出口を出てすぐ、ヒノデテレビ本社ビル七階の基壇部に広がる屋外庭園の一角に、なにやら不自然な人垣が形成されている。じきに文綾には人垣の正体がピンときた。文綾の記憶が正しければ今の時間帯、ヒノデテレビは情報番組の一コーナーとして、この庭園から天気予報を生放送していたはずだった。
「それでは明日の天気、行ってみましょー!」
「北海道を中心に晴れ間が広がるみたいですねー」
「でもほら、新潟や北陸地方ではばっちりホワイトクリスマスみたいですよっ」
漏れ聞こえる声の甲高さに顔をしかめつつ、この声は誰のものだったろうと思案を巡らせてみる。すると、明日菜が動いた。夢遊病者のような足取りで人垣に近づいた彼女は、そっと背伸びをして、囲いの中身を覗き込んだ。
「……『流星★こめっと』だよね」
消え入るような声でつぶやいたのは佑だった。無言のまま真央がうなずいた。戻ってきた明日菜も同じようにして、こくりと首を静かに垂れた。
アイドルに疎い文綾でも流星★こめっとのことは知っていた。三人と同じ大手芸能事務所『カイパーベルト・プロモーション』に所属する、新進気鋭の売れっ子アイドルだ。メンバーの平均年齢はわずか十五歳だが、実力ある著名マネージャーの指導のもと、飛ぶ鳥を落とす勢いで人気を集めている。近頃は映画やドラマの出演のみならず、深夜時間帯のバラエティ番組でも顔を見ることが多くなったが、こうして大手在京テレビ局の天気予報リポーターにも抜擢されるようになったか。
三人が足を止めた理由を、文綾は瞬く間にこれでもかと理解した。
「ほ、ほら。お腹減ったんじゃないの」
とっさに思いついた文句のあまりの不器用さに、口にしながら自分でも泣けてくる。意外にも大人しく応じた三人は、黙りこくったまま、地上階へ降りるエスカレーターを目指して歩き始めた。空気の悪さが肺に染みて声を奪うほど、嫌な沈黙があたりを覆っていた。
「可愛いですよね、流星★こめっと」
ぽつり、文綾の隣を歩きながら明日菜が言った。何かを試されている気分になった文綾は、緊張のあまり咳払いで場を誤魔化しかけた。
「そ、そうだね。人気だよね」
「あの人たちのFC会員、何人いると思いますか」
「ファンクラブ? 何人だろ──」
「十五万人ですよ」
明日菜は文綾の答えを待たなかった。
「すごいなぁ。十五万人に好かれる気分ってどんな感じなんだろ。ゴミゴミなわたしたちにはぜんぜん想像つかないよ」
佑も真央も通訳を挟んでくれなかったが、ゴミゴミというのは『規模の小さな』という意味だろう、程度の推測は文綾にも可能だった。
まずい、話題を変えよう。
このままではいつか文綾の立場がバレる。
三人の正体を知る追っ手であることが発覚してしまう。
無言の苦笑いで聞き流しながら必死に思案を巡らせる文綾を、明日菜はじっと見上げた。深淵の色をした大きな瞳が、不器用な文綾の心を静かに覗き込んだ。
「わたしたちもアイドルやってるって言ったら驚きますか」
文綾の努力はすべて無駄になった。
「ファンクラブ会員数たった二百人のな」
「活動開始から三年も経つのにね」
「そのくせ事務所だけは大手っていう」
立て続けに真央と佑が補足してくれる。ファンクラブ会員数も活動歴も所属事務所も知っているとは白状できず、文綾は今しがた知ったばかりのそぶりを懸命に貫いた。
「そ、そっか。道理で可愛い子たちだなって思ったんだ」
「でも流星★こめっとの方が素敵って思うでしょ?」
「そんなことないよ、私アイドルには明るくないし、流星★こめっとのことも大して……」
「九十九%以上の人はそうは思ってないんですよ。わたしたちのファン、あっちのファンの1%にも満たないもん」
具体的な数字を引き合いに出されるとグウの音も出ない。ふたたび文綾は沈黙を強いられた。
「ずっと弱小アイドルのままなんです。流星★こめっとの子たちより活動歴だって長いし、つらい思いだってたくさんしてきたけど、それでもまだ明るい舞台に立てないんです。だいたいクリスマスイブにダンスのレッスンなんかしてる時点で、もう現役感ゼロですよね」
「…………」
「本当は今日のレッスン、よその事務所の有名なアイドルと共演するためのものだったんです。だけど共演の中身聞いたら、ろくに名前も出してもらえない大勢のバックダンサーの片隅に置かれるだけだって言われて、なんか……バカバカしくなってきちゃって。そこにきて講師もマネージャーさんも遅刻するとか言い出して、そしたらもう、練習する気が完全に消え失せたっていうか」
たはは、と明日菜は笑った。乾いた空っぽの声が北風に沁みて、文綾の身体を冷たく吹き抜けた。どうしても気にかかって「誰と共演する予定なの」と尋ねたら、その一瞬だけ、やけに明日菜は誇らしい顔をした。
「『Saturn』です」
「Saturn!? あのイケメン揃いで有名な!」
「共演相手が誰でも関係ないですけどね。わたしたちは名前も出されない添え物だもん」
共演相手が大物であることは日向から聞き及んでいたが、よもやSaturnであるとは文綾には想像もつかなかった。流星★こめっとの比ではないファン数を誇る、国内トップクラスの実力派男性アイドルグループである。思わず声を裏返らせてしまった文綾は、名誉なことじゃないのかと問いただしそうになって慎重に口をつぐんだ。名無しの星として周囲を公転することしか許されない未来を思うと、明日菜たちの悲観も理解できないではなかった。
「三年間がむしゃらに頑張り続けてきてもこんなことばっかりだもんね、わたしたち。ほんとバカみたい……」
「私たちがアイドル辞めたとして、真剣に悲しんでくれる人なんていると思う?」
「どうだろ。ライブにいつも来てくれる人たちだって、話聞いてみりゃみんな掛け持ちで他所の子も推してるみたいだしな……」
「あー、また一つ夜空の星が弾けたな、くらいにしか思われないよね」
「しょうがないじゃんね。好き放題がむしゃらに活動しようったって、事務所が許してくれないんだもん」
「マネージャーさんはあんな仕事しか持ってきてくれないし、事務所の扱いはいつまでたっても冷たいし……。やっぱりわたしたち、そろそろバイバイ箱行きってことなのかな」
お払い箱、と言いたかったのだろう。七時間以上も行動を共にしていると、明日菜の独特な擬音語も通訳抜きで解釈できるようになってくる。とぼとぼと歩く三人に歩調を合わせながら、文綾は仕事をしなかった通訳の顔色を窺った。さすがに今のは自分の口で翻訳しづらかったんだろうな、と思った。
努力は必ず実を結ぶわけじゃない。
夢は大きいほど叶わなくなる。
電話口で日向の叫んだ真理が思い返された。
実を結ばない努力に失望して嫌気が差し、いつまで経っても手の届かない夢を前にして立ちすくんだAsteroidのメンバー三人は、ほの暗い笑顔で暗黒の未来を語っている。今となっては彼女たちがレッスンをサボって遊び惚けようとした理由を理解するのも容易だった。彼女たちは決して怠惰だったのではない。まさに今、この場所で、夢を投げ出す瀬戸際に立っているのだ。
「アイドル辞めたら堂々と遊べたのになぁ。そしたら今日だって着替えなんか持ってこないでさ、財布だけ持ってお洒落してさ……」
何かを口にしかけた真央は、代わりに足元の小石を蹴っ飛ばながら小さな声で「すみません」と弁明した。出費のことを謝られているのだと察知した文綾は、慎重に言葉を選びつつ「あのね」と顔を上げた。
「出費のことは気にしないでいいよ。私のお節介で出しただけだし、あとで払えなんて要求するつもりもないし」
「……なんか、ごめんなさい」
「ううん、いいの。あなたたちのガッカリする気持ち、私にも分かるから」
文綾も三人にならって笑顔を描いた。
「細かいことは言えないけど、私は夢を諦めた人間なんだ。社会の荒波にうまく対応できないまま流されて、何をやりたかったのかも分からなくなって潰れちゃった。だから、夢を諦めるなんてダメだとか、もうちょっと頑張ろうだとか、そんなことはとても言えないや」
「…………」
「だけど逆のことも言いたくないの。夢を諦めろって口にするのは簡単だし、簡単だからこそ、私はまだ夢を見てるあなたたちの前でそんな言葉を使いたくない。無責任な言葉であなたたちの未来を迂闊に左右したくない。言いたいことが伝わってるといいんだけど……」
大した中身のあることも言ってないくせにと心の中へ毒づきつつ、そういって文綾は口をつぐんだ。これ以上にどんな言葉を捧げたところで、三年も苦しんできた少女たちに文綾の言葉が届くようには思われなかった。案の定、明日菜が「へへ」と浅く笑った以外に、文綾に反応を返すものは誰もいなかった。
「優しいですね」
それきり明日菜も口を閉じた。
おのおのの足取りでプロムナードを歩きながら、誰も同じものを見ようとしない時間が続く。たまらない無力感に髪を引かれ、文綾はうなだれた。八年も長く冷たい世間を生きている先輩だというのに、こんなときにかけてやれる励ましの一つも持たない自分を、つくづく情けなく思った。
「それだ、その子だ。見つかってよかった……」
「それはそうとスタッフさんは?」
「やべ、急ぐのに夢中で置いてきた」
▶▶▶次回【5# 足りない心を埋めるように】