2# 無限の(食)欲
──食べ盛りの女子高生を舐めていた。
受け取ったレシートの金額に唖然とするあまり、文綾の頭からは注文しかけていたメニューの名前が完全に吹き飛んだ。ファストフードのハンバーガーチェーンなら安上がりだろう、などと高をくくっていたのが失策だった。
「まさかBIG DIPで本当に三〇〇〇円を超えるとは……」
一足先に会計を済ませた問題の三人が、仲良くはしゃぎながらトレーを持って文綾の傍らを通り過ぎる。すれ違いざま「席を取っておきますねっ」と声をかけられたので、文綾は引きつった笑顔のまま無言で応じた。大量のポテトとハンバーガーとサイドメニューがトレーの上に山脈を形成しているのが見えたが、精神衛生上、何も見なかったことにするのが得策だと判断した。
青海や台場の混雑っぷりを忌避したのか、ハンバーガー店の店内はよそゆきの親子連れで予想以上に賑わっていた。足元で無邪気に暴れる子供たちの声と、不安げな眼差しでそれを咎める親たちの声が、縦横無尽に店内を跳ね回っている。子守りという意味では自分の立場も同じかもしれない。律儀に自分の到着を待っている三人のもとへ急ぎつつ、軽くなった財布を文綾はそそくさとカバンの中へ押し込んだ。
「よく食べるねぇ」
たっぷり皮肉を込めて投げかけたが、学び盛りの女子高生に皮肉の味は感じられなかったようだ。ハンバーガーを頬張りながら彼女たちは騒々しく反応した。
「えへへ、今日はちょっと早起きだったのでっ」
「朝ご飯なんて食べてる暇なかったもんね」
「普段から大食らいなくせによく言うよ、二人とも」
「何を!? いちばん胃袋ガバガバなのはまおっちじゃん」
「あたしは一番運動してるからいいの!」
「私たちだって同じダンスと筋トレしてるんだよ」
「まゆうがさりげなく筋トレの最中に手を抜いてること、うちが知らないとでも思ってるわけ?」
「え、そんなことしてたの? わたし全然気づかなかった」
「気づかないあすちゃんもあすちゃんだよね」
「いや、それまゆうにだけは言われたくないでしょ。てか確信犯かよ」
「いいじゃんー。ダンスレッスンの方は真面目にやってるんだから許してよ」
「真面目にやってることだけは認めてあげるよ」
機関銃の引き金へ迂闊に指をかけたことを文綾は後悔した。ひとたび点火すれば最後、弾切れを起こすまで彼女たちのトークは止まらない。文綾も高校生の頃、オトナの目にはこんな風に見えていたのだろうか。霞みつつある青春の記憶を彼女たちの面影に重ねると、今の境遇が相対的にいっそう悲しくなる。
ポニーテールの「あすちゃん」は膝丈のフレアスカート、ショートヘアの「まおっち」は一分丈のショートパンツ、ボブカットの「まゆう」はハイウエストのミニスカート。見慣れたせいか、外見だけで見分けがつくようになってきた。ダンスをやっているとの言葉の通り、三人ともスタイルは整っていて足も長く、おまけに可愛い。制服マジックなど必要としない本物の可愛さが豪華に三つも揃っている。──JK、いいな。ただ可愛いだけでちやほやされる年頃に戻りたいな──。ちやほやされた経験が実際にあったか否かは別にして、そんな現実逃避に浸りたくもなる。
「お姉さんはここで何をしてたんですか?」
ぼうっとしていたところに疑問符を突っ込まれ、文綾はポテトの代わりに泡を食った。たまらない気恥ずかしさを覚えて「何かしてたわけじゃないよ」と繕うと、三人はきょとんと首を傾けた。
「本当だって。ただ何となくぶらぶらしてただけなの。用事があったわけじゃないし」
「クリスマスイブなのに?」
「うっ……」
「友達とかいないの?」
「彼氏とかは?」
「そこまで切り込む前に察してよ……」
深刻な傷を負った文綾はテーブルに突っ伏した。用事がなかったというのは大嘘だが、よもや人探しに来ているなどと吐露するわけにもいかない。せっかく華のJKと仲良くできているのに、変な話題を持ち出して場の雰囲気を悪くしたくはなかった。惨めなものだ。
「なんか大変なんですね、社会人」
余計な部分まで察したのか、気の毒げに「まおっち」が唸った。文綾はいよいよ深い惨めさを覚えた。
「それじゃ、今日はずっと暇してるんですか?」
「うーん……。そうと言えばそうなのかも」
「わたしたちもなんですよっ。予定があったんですけどドタキャンしちゃって、あとはフワフワわちゃわちゃするだけっていうかー」
「『のんびり遊ぶだけ』って意味です」
独特な「あすちゃん」の擬音語を「まおっち」が冷静に通訳してくれる。とうとう流行り言葉にもついてゆけなくなったかと失望しかけた文綾は、胸を撫で下ろして現世に戻ってきた。
「予定ドタキャンって、一体どうしたの?」
何気なく発した質問が、ふと、脳裏の片隅で何かに触れた。
──なんだろう、この既視感は。
予定を逃げ出した女の子たちの話、どこかで誰かにされた気がする。
しかし結論を出すよりも、三人がみずから進んで答えを口にする方が早かった。彼女たちはここぞとばかりにハンバーガーを放り出して不満を爆発させた。
「ダンスのレッスンがあったんですよ! 難しいこと色々とやるっていうから頑張って朝早く来てウォーミングアップも済ませてたのに、講師もマネ……担当の人もレッスンのこと忘れてて、遅刻するとか言い出して!」
「ほんと有り得ないよね! 二時間もスタジオで待ちぼうけなんて耐えらんない! わたしたちのこと何だと思ってるんだろっ」
「あんまりにも腹が立ったので逃げ出してきたんです。よく考えたらカバンとか着替えとか置きっぱなしだったんですけど、戻る道がよく分かんなくなっちゃって……」
たまらず文綾は口元を手で覆った。
なんという不幸、いや僥倖だろうと思った。あてもなく探し求める羽目になるはずだった捜索対象のアイドルとは、もしかしなくても、こうして文綾の眼前でハンバーガーを頬張っている三人の女子高生のことではないのか。少なくとも三人の語る内容は、日向から伝え聞いている事情と見事に符合する。そういえば「あすちゃん」「まおっち」「まゆう」という呼び名にしても、例のアイドルたちの本名とそっくりだった。
想像よりはるかに早い段階でターゲットを見つけることができた。どうやら運命の神様は、不幸な文綾を完全に見放してはいなかったようである。
「そっかそっか、大変だったね」
ひとまず他人事のふりをして相槌を打ってみる。大人の共感を得られたことが響いたのか、三人の表情は途端に華やいだ。
微笑みの裏で文綾は目まぐるしい思案を開始した。──さて、ここからが難しい。文綾が日向の拝命を受けて動いていると知れば、その瞬間に三人は文綾のもとを逃げ出すだろう。ならば日向をこっそり呼び出し、偶然を装って捕まえてもらうべきか。それとも自分の言葉で三人を説得し、自分たちの意思でスタジオに戻ってもらうのが得策か。いずれにしても思いがけずハンバーガーに投資してしまった三〇〇〇円もの大金をパンケーキに換えて回収できるか否かは、すべて今後の自分の立ち回りに懸かっている。気を引き締めてかからねばなるまい。
マネージャーの周到な包囲網に囚われているとも知らないまま、アイドルユニット『Asteroid』の三人は口々に好き勝手な文句を垂れ流し続けている。
「ねー、もうスタジオ戻らなくてもよくない? マネ……例のあの人にカバン回収してもらおうよ。どうせいつかカミナリ落とされるのは分かり切ってるもん」
「そうできるならしたいけどさ、うちらカバンの中に財布も何もかも入れっぱなしじゃん。あすちゃんとかカバンなかったら二宮まで帰れないっしょ」
「はぁー。帰りたくないな。せっかくクリスマスイブにわざわざ神奈川の田舎からお台場まで出てきたのになぁ」
「遊んで帰りたいよね」
「だよなー。うちも遊びたいや」
「まおっちが遊びたいなんて言い出すの珍しいね」
「うちだって始終レッスンのことばっかり考えてるわけじゃないんだよ」
「いいねー。その心変わり大好きだよ、私」
「まゆうはもう少しサイドプランクに真剣になるべきだと思う」
「でもほら、私って歌の専門みたいなとこあるから。そんでまおっちがダンスの専門」
「それだとわたしは何の専門になるんだろ」
「トークの専門じゃない?」
「一番理解不能な擬音語でしゃべる子がトーク専門ってどうなのよ。そろそろ翻訳する側の立場にもなってほしいよな」
「ちょっと! そんなにわたしフニャフニャな言葉遣いしてないじゃんっ」
「いや、どう聞いてもフニャフニャでしょ」
「言ってるそばからこれだもんね」
まるで中身のない会話が延々と場を浸してゆく。引き渡し方法の思案をどうしようもなく妨げられ、文綾はストローをくわえながら嘆息した。──ダメだ、こんな状況でまともに考えることなど叶わない。そのうち機を見計らって、適当に動こう。それで無理なら仕方がない。諦めの心を決め込むと、少しばかりつかえがとれて気楽になった。
「これからどうするの?」
さりげないそぶりで尋ねてみた。三人は顔を見合わせて「どうしよう」と眉を曇らせた。
「遊びに行きたいけど、お金ないしな……」
「スマホの充電もじゃぶじゃぶないし……」
「今のは『満タンじゃない』って意味です」
「慣れてるんだね、通訳」
にへっと「まゆう」が照れ笑いする。その笑顔で肩の力を抜ききった文綾は、企みの実効性を再確認すべく、財布を取り出して中身を確認した。ひとまず一万円札が五枚も揃っている。
「私も暇なのは同じだしね。お金ならここにあるから、青海とかお台場の方まで一緒に出ようか」
「いいんですか!?」
三人は目の色を現金色に変えた。「もちろん」と文綾は胸を張ってやった。虚勢の胸でないことが誇らしかった。
少しでも接触の時間を増やしていれば、日向に引き渡すための算段だって立てやすくなる。それに何より、ここで別れてしまっては二度と巡り合えるかも分からない。一緒に行動するのは三人のためでも文綾のためでもなく、課せられた任務のため。そう割り切っておけば、心の準備はそれで十分だった。ただし払った金銭はきっちり領収書を切って日向に全額請求する所存だ。
「やったー! お姉さん優しいですねっ」
「新しいコート欲しかったんだぁ」
「うちも行きたかったとこ色々あるんだよね」
三者三様の喜び方に目を細めつつ、いきなりあだ名で呼ぶのも馴れ馴れしいと思い、「名前は何て言うの」と尋ねてみる。ただ名前を聞いただけなのに、わざわざ三人は表情を凛々しく整えた。
「わたし、明日菜っていいますっ!」
「真央です」
「えと、佑です」
明日菜が「あすちゃん」で真央が「まおっち」、佑が「まゆう」だ。おそらく互いの呼び名はファンからの愛称でもあるのだろう。自身の名前も聞かれたので「松永」と答えておいた。ついうっかり釣られて下の名前を口走りそうになり、背中を寒気に撫でられたのは内緒だ。
資金源を得た三人は一気に勢いづいて、三〇〇〇円分の食事を瞬く間に平らげた。時給換算にして三時間分ほどの金銭が食われたことになる。──気にするな、私。これは必要経費だ。あとで絶対に実費精算してやるんだから──。丸めて捨てそうになった領収書を引き延ばして日向の名前を書き込みつつ、文綾は楽しげに笑い合う三人を細目で見つめた。
なるほど、道理でしなやかな指さばきに惹かれたはずだった。
なぜって彼女たちはアイドルだから。
四肢の先端に至るまで魅力をまとい、全身全霊をもって人々の憧れを集める、星のようにきらびやかな偶像なのだ。
◆
アイドルユニット『Asteroid』の結成は三年前にさかのぼる。同じ芸能スクールに通学していた現メンバーの三人が意気投合し、運営母体の芸能事務所に所属する形で活動を開始。しかし間もなく事務所が経営不振に陥り、業界有数の大手芸能事務所『カイパーベルト・プロモーション』に吸収合併されたことで、結果的にAsteroidも同事務所へ移籍することとなった。
小惑星を意味する英単語を冠したユニット名には、「まだ恒星ではない」「いつか明日を照らす存在になる」というダブルミーニングが与えられているそうだ。メンバーは平河明日菜、岩本真央、佐久間佑の三名で、全員が十七歳の高校二年生。それぞれオレンジ・ブルー・グリーンのイメージカラーを背負い、ライブのMCを担当する明日菜が便宜的にリーダーを名乗っている。東京近郊の商業施設でのミニライブ出演やCDの路上販売、握手会、よそのアイドルが主催するイベントへの前座出演などが活動の中心を占めており、規模の大きな単独ライブを開催したことは一度もない。メディア露出の経験も少なく、公式ファンクラブ『I.S.S.』への加入者数もわずか二百人にとどまり、大手事務所に所属するタレントとしての存在感を十分に発揮しているとは言いがたい。
まさに小惑星よろしく、スターの周囲をうろうろするアイドルの卵。それが、ネット検索の可能な範囲でアーティスト情報を読み漁ってみた文綾の、率直で端的な印象だった。だからといって三人を蔑む意識は少しもないし、そもそもAsteroidに対してそれほど関心があるわけでもない。アイドルファンの履歴を持たず、業界にも著名アイドルにも明るくない文綾にしてみれば、今度の脱走騒動がどこか遠い星の出来事のようにしか思われないのも無理はなかったのだった。
「冷たーいっ」
嬉しそうに悲鳴を上げた明日菜が、そのままの勢いでジェラートにかぶりついた。十二月の外気にあてられた赤と白のジェラートは、カップの底で「まだ溶けないぞ」といわんばかりに表面を輝かせている。口々に美味しい、可愛いと褒めそやしながら、真央も佑も同じようにしてジェラートを頬張った。末端冷え性の文綾にはカップを持つことすら厳しかった。
「よく食べるねぇ……」
少し前にも同様の皮肉を口走ったことを思い返しつつ、それでも問わずにはいられなかった。「そりゃもう!」と明日菜は胸を張った。
「甘いものと美味しいものは別腹ですもんっ」
「……その定義に含まれない食べ物ってあるの?」
「わたしはないけど、まゆうにはたくさんあるよね。野菜とか芋とか苦手だし」
「そんなことないよ。最近ちょっとずつ克服してきたよ」
「嘘つけ。さっきうちの皿にサラダのトマト無理やり全部移してきたくせに」
ファストフードでハンバーガーを食らってから三時間も経っていないというのに、あれから三人はカフェでお菓子を楽しみ、ファミレスでイタリアンを味わい、そして今は台場地区の海沿いの商業施設に出店していたジェラート店で舌鼓を打っている。とうてい胃袋の追い付かない文綾は、わずかの注文でお茶を濁しながら苦笑いを浮かべるほかない。濁しすぎて胃袋ばかり膨れてゆくくせに、財布の中身は湯水のような勢いで流れ出す。
ふと空を見上げれば、広い東京湾を渡ってきた北風が髪を掻き上げる。透き通った冬の匂いがほのかに香って、疲れた身体へ優しく染み渡る。テラスの目の前は人工海岸になっていて、その向こうにはレインボーブリッジや東京都心の超高層ビル群が鋭利な稜線を描いている。ここで意中の人と夜景なんか拝んだ日には幸せだろうな──。ジェラートを片手に桃色の頬で語り合うカップルたちを横目にしつつ、改めてクリスマスイブに独り身である我が身を文綾は呪った。厳密には独りではないのだが、傍目には明日菜たち女子高生アイドルと文綾が一組で行動しているようには少しも見えないだろう。
「ねーね、次はどうしよっかっ」
身を乗り出した明日菜が『ペガススタウン』のパンフレットをテーブルに広げた。そういえばここはそんな名前のショッピングモールだったなと思い出した文綾の隣から、佑が控えめな声で「私コート買いに行きたい」と申し出た。
「ありだね! わたしも服が見たかったんだ」
「うちはトートバッグ欲しいんだよな」
「そんなのわたしたちのグッズでよくない?」
「いや、無理でしょ。自分らの名前の書かれたバッグ抱えて出歩くこと想像してみなよ」
「ペットの猫が名札つけながら歩いてるみたいで可愛いと思うけどなー。……そっか、そしたら私ももっと目立って注目されるかも」
「闇雲に注目されりゃいいってもんじゃないんだよ、まゆう……」
異様に短い佑のミニスカートを真央が不安げに見やる。気づいた佑は「へへ」と照れ笑いしながらスカートの裾を掴んだ。SNSの情報によれば彼女はライブ中の衣装もかなり露出過多で、ファンからは陰で「越中」などというあだ名をつけられているようだ。その心はずばり「H佑」の略。ファンのセンスは愛ゆえに容赦がない。
アイドルであることを少しは隠そうと思わないのかな──。
まるで他人事のはずなのに妙な心配が身を包んで、文綾は溜め息を細く漏らした。気づいた明日菜が小首を傾げたので、適当に「なんでもない」と笑ってごまかした。
結局、明日菜の旗振りで一行はペガススタウン内を散策することに決まった。これまでの食事代とは比較にならないほど高額の出費が予想されると見越したのか、三人は悪戯のバレた猫みたいな目つきで文綾の顔色を窺ってきたが、この期に及んで尻込みされても嬉しくない。会社勤めで鍛えた営業スマイルを再現し、文綾はうなずいてみせた。なんとしても日向から債権回収してやろうという心がいっそう強くなった。
「あすちゃん音痴だもんね」
「お!? もしかしてケンカ売ってる? 一万円くらいで高く買っちゃうよ?」
「よく言うよ、財布も持ってないくせに」
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