1# 憎たらしき脱走ショーガール
松永文綾は不幸な女だった。
第一には、仕事がない。
第二には、クリスマスイブなのに恋人もいない。
そして第三には、大学時代の友人に三〇〇〇円の日当で雇用された。
「……やっぱ高級パンケーキなんかに釣られなきゃよかった」
電車に揺られながらメッセージアプリの文面を見返すたび、この期に及んで愚痴が口をつく。七年来の友人の頼みなら仕方ないと安請け合いした自分にも非はあるのだが、それでも今の文綾は誰かに不平のひとつでもぶつけなければ正気を保てなかった。見渡す限りカップル、カップル、カップル、たまに親子、たまに友達同士。この世の幸福を人の姿に置き換えて具現化したような世界をひとりぼっちで漂う二十五歳の喪女の心情など、華やかな社交界を生きる友人はきっと理解しないだろうと思った。
今日も今日とて、東京は憎たらしいほどの冬晴れだ。地下鉄有楽町線を降りて豊洲の駅前に出ると、サンタ姿のコスプレをしたビラ配りの一団が乗降客を待ち受けていた。オリオンシティとかいう新たな商業施設が臨海副都心にリニューアルオープンするようで、オープニングイベントを大々的に実施するらしい。「お姉さんはこれからデートですか?」「是非うちに来てください!」と声をかけられたので、ビラを受け取る代わりにガンを飛ばしておいた。冤罪や誤認逮捕に明け暮れている暇があったら、警察はこういう人間を逮捕するべきだ。人の尊厳を踏みにじる極悪非道の大罪人である。
ふん。
普段の寛容な私なら行ってやってもいいけど、あいにく今日は用事があるから行ってやらない。
ガンを飛ばしたままの目つきを据え、空中に浮かぶ線路を見上げる。豊洲からお台場を経由して新橋まで走破する、無人運転の新交通システム『ゆりかもめ』の姿がある。埋め立て地の一帯に広がる臨海副都心へ向かうには、この高架鉄道を利用するのが最も一般的だ。なにしろ高架線路を走るので眺めがよいし、乗り心地だって悪くない。
券売機の前で人ごみに顔をしかめつつ、念のため、改めて友人からのメッセージを確認する。
【あいつら多分、まだ有明にいると思う!】
彼女は目的地の指示も送ってきていた。ゆりかもめの路線図にも【有明】の文字がある。
仕方ない、パンケーキのためだ。残業と怒号まみれだった前職のことを思えば、こんな仕打ちなんて少しもつらくない──。重たい腰を持ち上げる要領で改札を通り、エスカレーターに乗り、ホームに躍り出た。晴れ渡った午前十時の空からは金色の陽光が降り注いで、眼下に広がるクリスマスイブの東京をのどかな匂いで染め上げていた。
事の発端は朝の九時に起こった。
クリスマスイブの喧騒など目に入れたくもない。ふて寝のつもりで目覚まし時計もセットしていなかったのに、友人からのメッセージの着信で叩き起こされた。友人──須田日向は焦った様子で【ごめん】【ちょっと頼まれて】【ニューオーグマのパンケーキ奢るから】などと立て続けにメッセージを送りつけてきた。
大学の経済学部で友達になった日向は、いまは神田にある大手芸能事務所でマネージャー業をしている。朝一番に何を言い出すかと思えば、なんと彼女は担当アイドルの捜索依頼を持ち掛けてきた。物騒な言葉選びに跳ね起き、事件にでも巻き込まれたのかと早とちりしたが、そうではなかった。
【ダンスのレッスンから逃げ出したんだよ! あたしと講師がちょっと遅刻して練習場についたら、カバンを残して跡形もなく消え去ってた! 連絡も通じないし!】
日向は画面の向こうで大変ご立腹だった。聞けば、今日のダンスレッスンは普段のものと違い、よその事務所に属する某大物男性アイドルのイベントで共演するための特別な代物だったようだ。ひとまず講師に平謝りしつつ、逃げたアイドルを取っ捕まえようとしたが、具合の悪いことに他の仕事が立て込んでしまった。そこで彼女は暇な文綾を三〇〇〇円相当のエサで釣り、自分の代わりに捜索させることを思いついたのだった。
【どんな子たちなの?】
つい関心が向いて、うっかり問いかけたのがまずかった。依頼に応じたと判断した日向は、嬉々としてプロフィールを送りつけてきた。高校二年生の女の子三名で構成される『Asteroid』というアイドルユニットで、現在はインディーズのローカルアイドルとして活動中。ファンの総数は数百人レベルにとどまっており、大手事務所のアイドルとしては相当こぢんまりとした存在だ。今度の大物アイドルとの共演も、日向の尽力でようやく実現した肝煎りの舞台らしい。なるほど、それだけ聞けば日向の立腹も無理のないことだった。
逃走現場のレッスンスタジオは臨海副都心の東側エリア・有明地区のビルに入居している。カバンを置き去りにしている以上、彼女たちがそれほど遠くをうろついているとも思えない。見つけたら速やかに逮捕して手錠をかけて、あたしのところまで連行して──。クリスマスイブの陽気にも似合わぬ日向の気迫に飲まれ、もはや仕事を断ることもできなくなった文綾は、仕方なく服を着て外出したのだった。
せっかくクリスマスイブなんだもの。何かの巡り合わせがあるかもしれない。ひとり家の中でいじけているよりも、外の空気を吸って気分を変えた方がマシだ。──などという甘い考えは、最寄り駅に入線してきた大混雑の地下鉄に撥ね飛ばされて砕けたばかりだった。
大混雑は有楽町線で見納めと思っていたのに、新橋行きのゆりかもめはカップルや親子連れや友達連れでぎゅう詰めだった。たかが三〇〇〇円ぽっちのパンケーキに釣られたことを文綾は改めて後悔したが、彼らの大半は有明駅で降りることなく、ゆりかもめは文綾だけをペッとホームに吐き出して悠々と走り去っていた。
日本最大級の面積を誇る国際展示場・東京ビッグサテライトをはじめとして、有明地区にはビジネス関係の施設が林立している。同じ臨海副都心の中でも、西側を占める青海・台場地区が商業や観光施設の集積で賑わっているのとは対照的だ。駅前にぞろぞろと軒を連ねるガラス張りのオフィスビルを見上げつつ、クリスマスイブ特有の喧騒から逃れられたことに文綾は静かな安堵を覚えた。こんなことにいちいち安堵している自分が実に情けない。乾いた北風が身に染みて、思わず「寒っ」と声が漏れる。
寒い。
ひとまず店にでも入ってみようか。
いや、ダメだ。それでは失踪アイドル捜索の任務が果たせない。
だいたい彼女たちがどこへ向かったのかなど分かったものではない。ここ有明地区と隣の青海地区は、夢の大橋と呼ばれる巨大な人道橋を通じて繋がっている。つまり、その気になれば徒歩で青海地区や台場地区に向かうことなど造作もない。マネージャーの雇った寂しい女が寒空の下で自分たちを探し回っていることなど露知らず、今頃どこかのショッピングモールでタピオカかトゥンカロンかフルーツサンドでも味わっているかもしれない。そうなったら文綾には彼女たちをタダで許せる自信がない。手錠などといわず両手両足を縛り上げて猿轡を噛ませ、真っ白な袋に放り込んで日向のもとへサンタよろしく担いでいってやる。もちろんタピオカなどは没収だ。三〇〇〇円の高級パンケーキに、付け合わせは流行りのスイーツ。仕事を終えた日向とそんな素敵なクリスマスディナーの席を囲めるのなら、この仕事も悪くはないか──。
「……はぁ」
我に返った文綾は嘆息した。ひとけの乏しい駅前広場を見下ろす高層ビルたちの目が冷たくて、すごすごとコートの袂を掴みながら街を歩いた。
文綾は生まれてこのかた、アイドルに夢中になったことがない。何気なく聴いた歌声に心を惹かれ、CDを買って聴くようになったことはあるけれど、それは結局ただの歌手を愛好するのと変わらない。声のみならず容姿、人柄、振る舞い、服装に至るまで、その存在のすべてを肯定して愛するのがアイドルの嗜み方というなら、やはり文綾にはアイドルのファンだった経験は一度もない。
この年末、東京ビッグサテライトでは毎年恒例の大規模同人誌即売会が開催され、数十万人の人出を見込んでいると聞く。夢中になって打ち込めるものが一つあるだけでも、人の生きる日々は豊かになる。大切な人との時間を愛おしむのも本質的には同じことだ。文綾も彼らを見習って何かや誰かに夢中になれたなら、今、こうしてクリスマスイブの一日を寂しく生きることもなかったのだろうか。
「……今さら夢なんて見れないよな」
ふふっ、と自虐の笑みが唇に染みる。笑ったはずなのに切なさが増して、心の重みに負けた文綾は道端のベンチに腰を下ろした。どうせ誰が見張っているわけでもないのだし、目的のアイドルはそのうち見つけられればよいのだ。
隣のベンチには高校生くらいの女の子が数人ほど腰掛けていた。イベントの類も開催されておらず、見渡す限り閑散としているクリスマスイブのビジネス街の谷間で、私服姿の彼女たちはずいぶん浮いていた。こんなところにたむろしていないで、青海やお台場の方へ行けばいいのに。冷やかされているような心持ちがして、ひねくれた頭をもたげながら文綾は彼女たちを窺い見た。
一、二、三。
三人いる。手前から順にショートヘア、ポニーテール、ボブカットだ。
「ねー、まおっち。なんか食べもの持ってないの」
真ん中に座るポニーテールの子がぐったりと足を伸ばした。呼ばれたショートヘアの子は「だから言ってんじゃん」とぼやきつつ、モッズコートのポケットへ手を突っ込んだ。
「板チョコはみんなカバンの中に入れたままなんだってば。いま持ってんのはスマホとICカードと接着剤だけ」
「なんで接着剤なんか持ち歩いてるの? 食べるの?」
「いや、食べものじゃないでしょ。どう考えても」
「あすちゃんは洞察が足りないなー。まおっちは接着剤を食べて暮らしてるんだよ。だから難しい振り付けも簡単にできるんだよ」
「うちを化け物みたいに言わないでくれる?」
「振り付けと接着剤に何の関係があるの、それ」
「それはほら、全身が接着剤みたいにべとべとしてれば、ステップ踏んだ時に足を滑らせることもないでしょ」
「そっかー。だったらまゆうも見習って食べた方がいいね」
「ひどい! 遠回しにダンス下手だってディスってきた! まおっち教えてよ、接着剤ってどうやって味付けするの」
「だからなんで食べるの前提なんだよ! これ持ち歩いてるのは靴とか直すため! こんなもん食べたら普通に死ぬ! うちは人間!」
ひとしきり騒いだ彼女たちは、次の瞬間には一様に盛大な溜め息を漏らし、ふたたびベンチに沈み込んだ。ポニーテールの子は「あすちゃん」、ショートヘアの子は「まおっち」、ボブカットの子は「まゆう」と呼ばれているようだ。誰ひとりカバンの類を所持しておらず、寒空の下に私服姿で凍えている。
可哀想に。
なんだか文綾には他人事のように思われなかった。
自分のカバンを軽く漁ってみると、一本のスナックバーが姿を現した。前職に勤務していた頃、深夜まで続く仕事のなかで空腹に耐えきれなくなる経験が何度もあり、カバンの奥に軽食を仕込む習慣が自然と身についたのだった。
「ねぇ」
恐々と声をかけると、三人は文綾を振り向いた。道端に捨てられた子猫のような眼差しが文綾を貫いて、文綾はいよいよ三人を見捨てられなくなった。
「これ、あげるよ。私は空腹じゃないから」
差し出したスナックバーに彼女たちは目を輝かせた。「いいんですか!?」と問われたので頷いてやると、ポニーテールの女の子がしなやかな指を伸ばしてバーを掴み取った。その美しくも鋭利な軌跡と指の輪郭の美しさに、一瞬、いやに文綾は目を奪われた。
「うわ! カロリー食ェーサーだ! しかもチョコ味!」
「ありがとうございます! わたしたち飢え死にしそうだったんです! もうお腹がスカスカでベコベコでフニャフニャでっ……」
「空いてるのは分かったから早く割ってよ」
「ちゃんと三分割しなかったら殺すから」
「えー、何の話? 手を滑らせたらどうしようかなぁ」
文綾は動物園のふれあいコーナーで餌付けをしている心境になった。仕事をしている頃はどれだけ頑張っても褒められなかったのに、一方ではこんな些細な親切を働いただけで感激される。この世は分からないものだ、と思う。
結局「あすちゃん」は真面目にバーを三等分した。よほど空腹だったと見えて、小さなバーは瞬く間に三人の胃袋に飲み込まれて消えた。
「満足……ではなさそうだね」
顔色をうかがいながら文綾が問いかけると、三人は首を振った。強がっているのは傍目にも明らかだったが、これ以上の強欲は見せられないと思ったのだろう。
「大丈夫ですっ」
「おなかいっぱいです」
「すみません、何かお礼でもできたらいいんですが……」
渋い顔でICカードをポケットから取り出した「まおっち」は、次の瞬間には「残高が一〇〇円もないんだった」といって悲しげにカードを戻そうとする。あまりに悲惨なものだから不覚にも文綾は笑ってしまった。クリスマスイブの街をひとりぼっちでうろつく自分の境遇もたいがい悲惨だと思っていたが、今となっては目の前の三人よりもマシに思われた。じわじわと育ち始めた優越感が、狭くなっていた心の懐をも少しずつ広げてゆく。
「まだ空いてるでしょ、お腹。多少のお金は恵んであげるから、ご飯でも食べに行ったらいいよ」
言いながら文綾は財布から適当に千円札を引っ張り出した。ちょうど三枚の千円札が顔を出して、その瞬間、はたと自分が三〇〇〇円のパンケーキで雇われた身であることを思い出した。しまった、これではパンケーキを自費で購入することと何ら変わらない。
「……どうしよう」
三人は顔を見合わせ、しばらく視線を交えて無言の会議に取り組んでいた。しかしやがて「あすちゃん」がおずおずと切り出した。
「気持ちはありがたいですけど、さすがに申し訳ないっていうか何ていうか……。お金ってすごく大事だし」
妙な遠慮を持ち掛けられた文綾はかえって黙っていられなくなった。文綾にだって大人の意地がある。たかが三〇〇〇円ごとき、花盛りの女の子たちにくれてやろうではないか。
「私の財布事情なら気にしないで。こう見えても社会人だし、あなたたちよりお金は潤沢に持ってるよ。その気になればクレカだって使えるしね」
三人はまたも顔を見合わせた。
「それなら、その……ご一緒にというのはどうですか」
思わぬ提案に文綾は一瞬ばかり言葉を失った。今度は文綾が「いやいや!」と遠慮する番だった。
「あなたたち高校生とかでしょ? JKに社会人は混じれないって」
「えー、そんなことないよねっ?」
「うちら普段から社会人とばっかり関わってるしなー。今さら抵抗感なんて何もないや」
「ご飯を恵んでくれる人に悪い人はいないよね」
穢れを知らない少女たちの目がまぶしい。とっさに文綾の脳裏には奴隷商とか犯罪者とか色々な悪い人の例が浮かんできたが、深く突っ込んだら負けの気がしてぐっと飲み込んだ。負の思惑はみんな喉の奥へ流れ落ちて、代わりに舞い降りた素直な親切心が自然と次の台詞を紡いでくれる。
「じゃあ、どこかご飯にでも行こうか」
三人は勇んでベンチから立ち上がった。口々にお礼を言われて恥ずかしいやら誇らしいやら、ふわふわと宙に浮いたような心持ちを抱え、文綾も一緒になって立ち上がった。「どこ行こうね」と周囲を見回すと、刷り込みで親鳥を誤認したヒヨコのごとく、三人の女子高生はニコニコ、ノコノコと文綾の後ろをついてきた。
「遊びに行きたいけど、お金ないしな……」
「スマホの充電もじゃぶじゃぶないし……」
「今のは『満タンじゃない』って意味です」
「慣れてるんだね、通訳」
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