まったく別の、怪異
ふと、人の声がしたように感じて、目が覚めた。
寝床に起き上がってみるが、闇のなか、静かな五月雨の音がするだけだ。
――誰か呼んだか? いや、私ではなく、別の者を……。
方丈の自室の板戸を開けた。やはり誰もいない。
――気のせいだったか。気が高ぶっているのかもしれん。……己らしくもない。
自嘲を覚えながら室に戻ろうとした時、本殿と方丈とに囲まれた中庭に、強烈な光が表れた。
バチバチバチバチッ!!
「うおっ?!」
あまりの眩しさに、目を庇う。
腕の陰から伺い見ると、強い光は巨大な玉で、少しずつ長細く形を変え、……中に、人がいる!
「な、何事でしょうか、座主様っ」
執事や見習い僧侶達も、慌てて自室から出てきた。方丈から遠い離れや庫裏に住んでいる者達まで飛び出してきている。
光は中の人物に沿って少しずつ形を整え、その明るさも落ち着いてきていた。誰かが呟く。
「あれは、お、おんな?」
そう。私も気が付いていた。あの光の中にいるのは女だ。
「……もうっ、こんな大事な着物、……ないでよ! ちょ、ちょっと、ヤだ、なんでこれ、まとわりついてくんの~?!」
あまつさえ、光の中の女は口をきき始めた。まだ途切れ途切れだが、次第にはっきり聞こえてきている。それにつれて光りも弱まり、姿も見えるようになってきた。
――しかも、あの、菊の紋様の袿と虫垂れ布の笠は……っ!!
体が震える。
周囲の僧どもは経を唱え始めているが、今自分が読経をしたら、声が震えているのがバレてしまう。
離れの方から駆けてきた相撲士と下男が、驚いたように光の玉に近づいていく。さすが剛の者だが、あれは人外の化け物だ。恐れ知らずにも程がある。
「あ、あなたは……っ」
下男がかけた声は、光の中に届いたようだ。
「え、……? ここ、……醍醐寺っ?!」
「ご、ご無事だったんですね……」
「無事じゃないわよ、見れば分かるでしょ!」
あまつさえ、会話が成立している。
腰が引けた下男が、こちらをちらちら見ながら、問いかけた。
「あの、なぜ、そのようなお姿で、醍醐寺へ」
「好きでこんなトコ来たんじゃないっつーの! この着物、わたしはイヤなのよーーーーっ」
女が叫ぶ。それに合わせて、光りが強まった。
周囲の者達が恐れおののく。
「ひえぇぇぇっ! また祟りじゃ!」
「次は女人じゃ、恐ろしや恐ろしや」
「もうイヤじゃ、この寺はどうなっとるんじゃ」
「ひどくお怒りじゃ……っ。座主様、読経を、調伏を、早う、お願いいたします」
「きりふね……?」
もはや、私は立っているのがやっとだった。小さく呟きが洩れる。
それを聞きとがめたかのように、光りの玉がすーっと私の前に飛んできた。
「醍醐寺の座主か」
「――」
「わたしが分かるか。この着物に見覚えがあろう」
「……っ」
怒りの波動がびしびしと身体に突き刺さる。それでも必死で、女を見た。声が違う。顔が違う。
「そなた、霧舟ではない、な」
「わたしは神使だ。聞いておるだろう」
「っ!!」
とうとう、挫けた。
階にへたり込んだ私に、周囲から悲鳴が上がるが、それすらも遠い。
――これが、神使。
大僧正から、薬師如来の使いの話を聞き、内裏で情報をかき集めた。予告されていたとおり、神使のことは隠されてもおらず、むしろ、誰もかれもが喜んで話したがった。
だが私が心底驚き、警戒したのは、秘密裏に院御所を訪ねたときだ。
あれほど現世の欲にまみれた院が、本気で神使を恐れ、怯えていた。今上を助け愛でるよう、厳しい注意を受けたと言っていた。
あの冷血タヌキがそこまで認めたということは、実際には注意どころではなく、相当厳しい神罰を受けたのだろう。
この世に怖いものなどない傲岸不遜な院の態度をあれほど変えたという事実が、私を打ちのめした。
目指す方向性はまったく異なるが、おそらく院と私は、根本的な性格が似ている。生まれてこのかた、一度も反省も自制もしたことがなく、他人に興味を持ったことがない。
同類は、分かるものだ。
院の方が歳月を重ねている分、タヌキっぷりに磨きがかかっていて、私が操れるはずもなく、これまで近づく必要性を感じなかった。
院の方でも、同じようなことを感じていたのだろう。会った時に、言われた。
「座主殿よ。そなた、これまでの人生、思うがままであったろう。よい、儂もそうなのでな、分かるのよ。同類となど、口もききとうないわ。だからこそ、神使の話をききたい、という座主の用件には興味を持った。――あれは本物よ。儂は生まれて初めて、畏怖の念を知った。自分の中の何かが、こっぱみじんにされたわ。――ふふ、信じられんか? 会えば分かる、そなたもな。じゃが、会ったときは、何かが終わるときよ」
――私にも、神罰が下るのか。だが、いったい、何に対して?
今上の弑逆については、兄上が話を持ってきた。私はそれに乗っただけだ。そもそも帝すら誰でもいいのに、帝の護持僧争いなど、いっそう興味がなかった。詳しく計画を聞き、左大弁を連れてきた辺りで失敗する確率が高くなってきたと感じ、積極的に協力するのは、止めた。
たいそうな罪を犯したとは、思えない。
顔を上げる。胆力を振り絞って、神使を見返す。
「畏れながら、座主には、神罰をいただくような身に覚えがありませぬ」
「――ほぉ」
神使がすっと無表情になった。
「この着物は、そなたの元に帰りたがっていたようだが? 身に覚えがないとは言わせん」
「たしかに、それは霧舟と申す女房の着物。見覚えはあります」
だが、あれはあの女が悪いのだ。父の実家の女房のなかではまあまあ使える方だったが、何を勘違いしたのか、私の妻にしてほしいと言い出した。
そもそも、わたしは仏道を修めた者だ。女犯などあり得ない。それで一蹴したら、今度は私を脅し始めた。
あの女、ナニサマのつもりなのか。
私は、自分の敵を排除しただけ、我が身を守っただけだ。
ブッダも、誘惑する女を退けたではないか。
神使に罰せられる筋合いなど、ない。
「物の道理を知らず、座主に執着する女子でした。仏道の修業の妨げになると存じ、退けました。座主は、ブッダの御教えに従ったのです」
「こ、のっ、大バカ者!!!」
瞬間、玉が膨れあがり、爆発したかのように光り輝いた。あっという間に玉が迫ってきて、神使が私の胸ぐらをつかむ。
「利用するだけ利用して、ジャマになったら女性を殺す?! そんなヤツが、仏教を語るな!」
私は光の玉の中に取り込まれていた。
執事や僧侶達が慌てふためきながらも、腰が引けている様子が見える。わめき騒いでいるようだが、声は途切れ途切れだ。
だが、胸ぐらをつかんでいる手は女性のモノ、大した力はない。私は少し冷静になった。
「これは異な事を。座主が霧舟を殺したなどと、何の証拠があるのです」
私と霧舟の関係は秘めごとだった。
私が霧舟を殺したどころか、霧舟がいつどこで死んだのかさえ、曖昧なはずだ。左府の邸では、つい最近まで、霧舟は実家に戻ったと信じていた。
霧舟の死体さえ存在しない。
私を断罪する証拠など、一切ない。
私は、力任せに、神使の手を振りほどいた。案の定、簡単に腕は外れた。
だが、神使は、ふん、と鼻で嗤った。
「証拠? 真犯人が名指しされたときの、お約束のセリフよね。――悪いけど、証拠なんてどーでもいいのよ。あんたが霧舟を殺したって、わたしは知ってる。それでじゅうぶん」
自信満々に言い放つ。
「話には聞いてたけど、ホント、最低なヤツだね。ある意味、あの院より性質が悪いわ。あなたも不治の病にでもなったら、ちょっとは悔い改めるかしら」
こんな場合だが、私も納得した。院は、未知の病を受けたのか。あの怯えっぷりも理解できる。
――だが、私は。
「座主は、病を授けられたら、従容と死を待つだけです。人生に悔いも未練もありませんので」
神使は、呆れたようにため息を吐いた。
「そう言うだろうと思った。自分の生にさえ興味がないって、ガチでソシオパスすぎ。……まあ、だから千手丸とか今上の声を届けたのだけどね。ちょっとは堪えた?」
「やはり、神使の御業でしたか。ええ、正直なところ、かなり疲弊しました」
声そのものというよりは、そこから派生する寺の騒動、悪い噂、人手不足など、さすがに手が回らない状態になっている。おかげで座主としての私の評価は、急激に地に落ちた。
「わたしねぇ、もうあんたに、反省とか悔い改めるとかは期待していないの。とにかく世間の評判を落として、外堀を埋める。それとこの、霧舟の着物ね。この先、座主が行くどこにでもこの着物が付いてくるって、どう? けっこうイヤじゃない?」
本気で、ぞっとした。思わず後ずさる。
「この着物、だいぶあんたに執着してるみたい。わたしが脱いだら、あんたにまとわりつくと思う。それで狂い死に、とかでも、余裕で笑って、受け容れられるかな?」
静かに笑って神使は、片袖を滑らせた。ざわざわと袖が私の方にはためいてくる。
「や、やめてください」
「霧舟も、あんたに殺されたくなかったはずよ。これで、おあいこ」
「おあいこ?! あのような愚かな女と?! はじめの頃のまま、私に忠実に仕えていれば徳を積めたものを!」
「そーゆー、愚かな衆生に仏道を説くのが、僧侶の仕事でしょうが。そもそもあんた、殺生戒を犯したんだからね。女犯がどうとか言い訳してる場合? 来世は人間にもなれないよ」
神使はじりっと近づいてきた。そのぶん、無意識に下がってしまう。
軽い口調だし、時に意味が分からないことを言う。思ったよりも人間臭い神使に、わたしは却って混乱していた。
「ら、来世など。私は輪廻転生なぞ、信じておらぬ。人生はこの一度きりじゃ」
「だから好き勝手するってこと? ま、あんたがそういう考えなのは分かってるから、現世でも手足を縛ってもらったの。大僧正と話したでしょう? あんたが宗教界で出世する道は、もうない。今さら貴族の子弟として、内裏に出仕する道も閉ざされた。このまま醍醐寺の混乱が続けば、人心も離れていくでしょうね」
「それが、私への神罰と仰るのか。甘いのか、的確なのか」
できるだけ平静を保って、答える。
大僧正に脅されたときもほぞを噛んだが、これほど完璧に周りの世界から閉め出されたのは、やはり屈辱だ。
だが、神使はまたも私の予想を超える発言をした。
「や。わたしには、人を罰する権利なんか、ないから。ただ、……天地我人、ってこと」
「は?」
「この事件のほかの関係者にも言ったんだけど。今上暗殺未遂に協力していたこと、自分が霧舟を殺したことを誰も知らないと思ってるでしょう。でも、天地が知っていて、あんた自身が知っていて、そして大僧正も内裏の公卿(上層部)も知ってる」
神使は、話しながらするっと袿と虫垂れ笠を脱いだ。着物と笠の紗が、ざわざわとうごめく。
「証拠とか、罪に問われるかどうかとか、関係ないの。あんたの罪は、もうみんなに知られてる。少なくとも、子どもの頃から無条件に浴びてきた尊敬とやらは、どこからも受けられなくなったよね。そのうえで、今後の身の振り方を考えてみたら?」
本当にどうでも良さそうに言うと、神使は着物と笠をこちらに投げた。ものすごい勢いで、飛んでくる。
「う、うわぁっ! は、離せっ」
身体に巻きついてくる袿が、霧舟の執心のようで、気持ちが悪い。袖が、首に回ってくる。
「座主。霧舟を、絞殺したのね」
滑らかな絹が、喉に食い込んでくる。
霧舟の細い白い首に、指を回して締め付けた、あの感触を思い出した。
――ああ、これが、過去を思い返す、ということか……。
私は過去を振り返ったことがない。人がする、思い出話とやらが理解できなかった。
人生で初めて反芻した過去の経験が、しょうもない女殺しとは。
――存外、私も薄っぺらい部分があるのだな。
私は小さく笑った。
気が遠くなりかけている私を放って、神使は袿に話しかけている。
「少しは気が済んだ? こんなヤツ、殺しても反省しないし、恨むだけ貴女の時間がもったいない思うよ」
心なしか、着物の締め付けが緩んだ。
「とりあえずこの場は、わたしがこいつ、シメとくからさ!」
すいっと扇を取り出すと、にっこり笑って、私の首筋に当てる。
バチッ!!
火花が散る。
首に焼けつくような痛みを覚え、直後、私は気を失った。
菊の紋様の袿が纏わりついたまま、座主は光の玉から放り出された。
慌てて駆け寄り、介抱する人達とは別に、巨体の相撲士と一人の下男が、光の玉を凝視し笑顔を向ける。その二人が体の横でぐっと拳を握ったのは、誰にも見られなかった。
その後、光の玉は唐突に消えた。
強烈な光の反動で、醍醐寺に深い闇が下りた。
座主を包んでいた女物の袿は、誰がどう引っ張っても剥がれず、座主は七日の間、昏々と眠り続けた。
座主が目覚めたとき、それまで絹の美しい光沢を誇っていた着物は、力尽きたかのように薄汚れ、ぼろぼろになって散り、消え去ったという。
醍醐寺十四世 座主・勝覚が、私財を投じて敷地内に灌頂院を創設するのは、翌年、永久三年(1115年)のことである。
巨大な本坊と塔頭は、後に三宝院と名を変え、醍醐寺の大本山、門跡寺院となり、鎌倉・室町時代を通じて絶大な政治力を有した。
その後、豊臣秀吉によって、数千本の桜が植えられた。世にいう「太閣秀吉の醍醐の花見」の舞台である。




