家庭教師は不在中 @醍醐寺 2
――ああ、この瞳は、知っている。
俺は、座主の顔を見た。許される範囲で、しっかりと。
初めて主人と目通りするときだけは、使用人が直視しても、無礼にはならない。これから働く場所の主の顔も知らなくて、主人と客人の区別が付かなかったら、最悪だ。
ひき麿が挨拶やら激励やらを受けている間、俺の方は平伏しながら、上目遣いで観察もできた。
宮家期待の相撲士候補という触れ込みだから、声をかけられるのも答えるのも、基本的にひき麿だ。むしろ、付き人の俺はほとんどしゃべる必要がない。
座主は、衣擦れの音、御座所に座るしぐさも洗練されて穏やかで、どこぞのご主人とは段違いだった。焚き染めている香も高価で雅やかな薫りだ。
だが、座主の特徴は、なんといっても、その声だった。
「そなたが三宮院から来た相撲士か。よう参った。兄上のかけた迷惑は、この座主が払おう。これからはなにも心配せず、鍛錬に励むがよい」
染みわたるような深みのある声で、直接頭に響いてくる。
高音と低音が混じったような、複数の人間がしゃべっているかのような、複雑な声音だ。
穏やかな物腰、優しい微笑、真剣なあいづちに、この声が合わさると、座主の言葉はすべて真実のごとく、いや、神仏の託宣のように聞こえる。
「そちが、ひき麿の付き人か。面を上げよ。……当寺に参って間もないのに、骨身を惜しまぬ働き者と、評判じゃの。その殊勝な姿勢は、必ずそちを助けるであろう。一の主はひき麿であろうが、この醍醐寺にも、尽くすがよいぞ」
途中で許されて顔を上げた俺は、ほんの一瞬、座主の瞳を覗き込んで、悟った。
――これは、相手を支配する瞳だ。
「あ、ありがとう、ございますっ」
がばっと平伏する。動揺した顔を見られたくなかった。少し声が揺れたのは、演技ではない。
座主の声だけなら、騙されていただろう。
うまく隠しているが、座主の瞳は、あの座長の目と同じだ。他の演技が完璧すぎて、かえって、酷薄な瞳が際立っている。
物売り一座にいたとき、どいつもこいつも、座長に殴られないよう、いつも怯えていた。座長が見ているかどうかは関係がない。ほんのちょっとの物音にでも、びくっと身体が反応する。
座長はとにかく誰かを殴っていないと気が済まない、最低なヤツだった。一座のみんなは、誰がいちばん殴られないで済むか、常に気を張って逃げる状態を万全にしていた。いちばんガキの俺が餌食になることが多かったとはいえ、素早さを身につけるにつれて、他のヤツが殴られる確率は上がった。誰が殴られるか、一日中、チキンレースだった。
あの空気感が、この寺は似ているのだ。
褒められるか殴られるか、だけの違いだ。
……いや、そこは大きな違いかもしれないが。
少なくとも、速足のお殿様の邸に、こんな空気はなかった。使用人達は、主人の陰口を叩き、他のお邸より待遇のいいことを認め、同僚の悪口や体調のグチを言い合い、コイバナをしていた。
要するに、銘々が好き勝手だったのだ。
だからこそ、俺はあのお邸で、自由に息ができた。
「座主様。こちらが三宮院からのご挨拶の品々でございます」
またもや平伏した俺達の前に、大量の贈答品が運びこまれ、執事が報告する。
「ほう? 三宮院にそのような余裕があるとはの。予算が厳しくて、相撲士ひとりも養えないと泣きついてきたというに……」
いぶかしそうな声に、座主の用心深さを感じて、俺は緊張した。
この贈り物は、実際に三宮院の宝物庫にあった物ばかりだ。ただひとつを除いて。
斎迩の君が用意した、鈴。周りを金箔で覆ってあり、贈答目録の一番目に載っている。
これを目立たせないために、大僧正が三宮院の宝物庫を漁りまくったのだ。あのじーさんは、本当に抜け目がない。
そして、俺への、計画開始の合図でもある。
「三宮院の方々も、さすがに申し訳なく思われたのでしょう。何の咎もない座主様に、お兄上の後始末を押し付けるのですから……。大僧正様は、物の分かったお方と伺っておりますし」
まったく疑いもせず、満面の笑みを浮かべている執事の言葉に、座主はほんの少し、表情を和らげた。
贈答目録はずらずらと大量に並んでいる。通常、最も高価な品を、2つ3つ検めるのが、こういう場での慣例だ。
座主は優雅な身振りで立ち上がり、一の品、黄金の鈴の箱を開ける。
両手でそっと捧げ持ったとき、声が響き渡った。
『座主様……、幼きときより、学問と武芸を授かり、これほど深いご恩を賜ったこと、厚く御礼申し上げます。また……』
「せ、千手丸?!」
「ひ、ひょえぇっぇぇっ」
「ど、どこじゃ! どこに潜んでおる?」
「あやつは佐渡に流罪になったはずじゃ!」
「生霊じゃ!」
「いいや、呪いじゃ! やはりあやつは呪詛をしておったのか!」
「お、恐ろしや、おおおおお~」
執事をはじめ、居並ぶ僧侶・小坊主達は右往左往の大狂乱になった。何人かの僧侶は、必死に念仏を唱えている。
あまりの大騒動に、千手丸の言葉はかき消されたが、声が止まったわけではない。俺は再生の練習で、何度も聞いた。この後、縷々、座主への感謝と崇拝の言葉が続くのだ。
座主は、手の中の鈴を凝視していた。
座主だけが、千手丸の言葉を最後まで聞いたはずだ。
座主の身体の力が、ふっと抜けた。顔は蒼白だが、落ち着いた動作で、鈴を箱にしまう。
その俯けた表情を盗み見て、俺はぞっとした。
狂気を帯びた怒りの瞳と、口元には、凄まじいほどの嘲笑。
それは、鈴を片づけ、顔を上げた時には、すっかり消え去っていた。
「騒ぐな。見苦しきことよ」
法会のときのような張りのある声が凛と響き、広間の隅々まで届く。
一瞬にして、場は静まり返った。
「ここは何処じゃ。大逆の罪人の生霊が出たくらいで驚き騒いで、なんとする。その荒御霊を救わんとしてこその、寺であろう」
僧侶達は恥じ入ったように、俯いた。執事が震える声で訴える。
「し、しかし、座主様。あれは、あの、千手丸……。あやつ、生きながら惑っておるのでしょうや」
「あやつの母は、この寺におる。座主も目をかけておった。彷徨い出るとしたら、ここしかないであろう。何を驚く。我らが鎮めればよいことよ。――じゃが、ひき麿、そなた、この法具について、何ぞ知っておるか」
座主の自信満々な態度に、僧侶達が落ち着いていく。
一方、厳しく誰何されたひき麿は、正真正銘、慌てていた。
「え、いえ! オイラ、あ、いや、私は全然知りません! えっと、贈物があるとは聞いていましたけれど、全部、大僧正様がご用意されて、オイラは見もしませんでしたし……。あの、今の声は、どこから……、な、なんだったんですか?」
法具について、ひき麿は何も知らされていない。
金塗りの鈴も、俺が隠し持っているもうひとつの道具についても、ひき麿に話してはならないと言われていた。
今のひき麿の反応を見ていて、斎迩の君が言っていたことが、よく分かる。
ひき麿は嘘がつけない。少しでも法具について聞いていたら、これほど自然な反応はできなかっただろう。
それに、ひき麿にとっては、千手丸という名前も初耳だ。
聞いたことのない名前が出て、周りが慌てふためいている中、驚きつつもまったく事情が分かっていない状態だった。
俺は、そんなひき麿の横で、内心の感心や驚きは表に出さず、ひたすら震えて平伏していた。
座主は、見定めるように睨んでいたが、ひき麿が心底驚いていて何も知らないことが得心できたらしく、頷いた。
「よい。これをご用意された、大僧正様にお伺いしよう」
「あ、はっ、はい! そうしてくださると、オイラ、助かります~」
大きな身体を丸めて平伏し、ついでに転びそうになるひき麿に、周りの空気が緩んだ。




