家庭教師、対面する 3
大姫の桶の中身は、昆虫だった。
桶に土と水を張って、木の枝が挿してある。
小枝には、巨大な蓑虫のような虫がへばりついていた。胴がぶっとくて足が見えない。少し緑がかった茶色だ。
うん、これくらいなら、いやがらせにならないよ。
別にわたしも、虫が得意というわけではない。
ミミズを手づかみしろと言われたら、躊躇する。
でも、こんな乾いた足のないコオロギみたいな虫なら、どうってことはない。
まじまじと見ていると、その虫が、ぴくんと二、三度動いた。そこで、思いつく。
「大姫様、これはヤゴですか。もうすぐ、羽化するのでは」
「ヤゴ? 違うわ、螻蛄よ」
螻蛄? あ、そうか。
昔は、こういう形状の昆虫はひとまとめに「螻蛄」と呼ばれていて、区別されていなかったのだ。
「つまり、羽化すると蜻蛉になるのでは? この様子だと、明日の朝くらいでしょう」
子どもの頃、蜻蛉を捕ったこともあるし、家庭教師になってから、夏休みの昆虫採集を手伝ったこともある。
ここまで大きくなって、ほとんど動かなくなったら、羽化間近だ。
「まあ、斎迩の君はよく知っているのね。けら男も、まったく同じことを言ったわ」
ん? けら男?
記憶の片隅が引っかかったが、爛々と目を輝かせて食いついてくる大姫に、ここは、びしっと先手を打たなければならない。
わたし個人としては、ヤゴの羽化の観察なんて、子どもの教育にはうってつけだと思うけれど、雇い主の意向は「お淑やかな姫様教育」なのだ。
「大姫様、この枝は、元あった池にお戻しになった方がよろしいでしょう。蜻蛉の羽化は、朝晩関係ないですし、時間がかかります。ずっと見てはいられませんよ」
「いやよ、わたくし、絶対にこの子が蜻蛉になる瞬間を見るの」
「水が足りなすぎます。羽化したら、すぐに餌が必要なのに、それもないでしょう」
「餌って、蚯蚓よね。大丈夫よ、今から取ってくるわ」
わたしと大姫の会話をおそるおそる窺っていた周りの女房達が、びくっとした。
「もう日も暮れようという時間に、皆に蚯蚓を取りに行かせるのですか。それはあまりにも無体です。……大姫様がご自分で取るのは、もっとダメです」
大姫は、頬をぷーっと膨らませた。
「じゃあ、いいわ。わたくしの大切なお友達だけれど、この子を螻蛄の餌にしましょう」
取り出した扇には、えらく色鮮やかな毛虫が、乗っていた。
げ。
毛虫は、あまり、得意じゃないなあ……。
さすがにこれを素手では触りたくない。
というか、これ、毒があるヤツじゃないか。うろ覚えだけれど、ド派手な色合いの毛虫には毒があると、聞いたような。
などと思っていると、周りの女房達は、大騒ぎになっていた。耳をつんざくような叫び声の嵐に、思わず顔をしかめそうになる。
中には、そのまま突っ伏して気を失っている人もいて、大輔の君が介抱している。
大姫は、ドヤ顔で、扇を突き出していた。
「うふふ、わたくし、本当は、烏毛虫が虫のなかでいちばん好きなのよ。斎迩の君は、烏毛虫はお好き?」
なるほど、二段構えのいやがらせだったわけね。
ヤゴはともかく、毛虫が大好きな女性は、あまりいないと思う。
この姫様は、今までもこうやって、家庭教師を辞めさせてきたのだろう。
「それほど好きでもありませんが……、この毛虫は毒があるのでしょう。羽化したばかりの蜻蛉には、これは餌になりませんよ。反対に、毒針に刺されて死んでしまうかもしれません」
「え。……斎迩の君は、烏毛虫にも、詳しいの、ね?」
完全に虚を突かれた顔で、大姫は呟いた。
別に、詳しくはない。
虫大好きな姫様が、扇に乗せて差し出したから、毒があるのでは、と思ったのだ。
大姫は、じゅうぶん賢いのに、自分の興味のあることにしか意識がいかない。
こういう子どもを指導するには、まず、信頼感を育てることが必要だ。
「螻蛄も烏毛虫も、それほど珍しいものでもないでしょう。それよりも大姫様、あちらの女房方に謝罪なされませ」
わたしが言い放った瞬間、空気が凍った。