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家庭教師、対面する 2

つらつら考えていると、大姫様がふいっと御座から立ち上がって、こちらに走ってきた。

軽やかで、いかにも普段から走り慣れている足音だ。

今さらだけれど、平安貴族の姫君は、走ったりしない。

というか、めったに歩きもしない。

屋内を移動するときは膝行しっこうといって、膝を床についてずりずり進む。そもそも、立ち上がっただけで、はしたないと言われるのである。


姫君は物怖じもせず、わたしの顔を正面から覗き込むと、にこっと笑って、


「それで、わたくしは、あなたをなんとお呼びすればいいのかしら」


ちょっと、不意を突かれた。

あり得なさすぎなのでスルーしていたが、実はこの姫様は、ずっとわたしに向かって、直接、話しかけていた。いくら驚きの連続だったとはいえ、顧客に対して挨拶もしなかったのは、失敗だ。

この時代のマナーでなら、姫様と目を合わせず、傍の女房に対して返事すべきだけれど、わたしは、この新しい生徒さんの流儀に乗ることにした。


「不調法で、たいへん失礼いたしました。

わたしは斎木と申します。さいき、でも、いつき、でも、大姫様のよろしきようにお呼びくださいね」


この時代、というよりも、かなり長い間、日本という国では、本名を呼ばない文化が続いた。

そもそも子どもや平民には、名前を付けるという習慣がない。

名前を付けられた貴族の姫君でさえ、知っているのは家族と夫くらいのもので、決して声に出しては呼ばれない。

発声してしまうと、言霊で名前に込められている魂がなくなると信じられているので、男性も、名前を隠す。あだ名か官位、もしくはその合わせ技で呼び合うのだ。

だから、わたしが自己紹介をしなかったのは、マナー違反ではない。

呼び名は主人が考えるのである。


だいたい姫君の「大姫」も、名前ではない。

大姫とは、長女のことだ。中姫、小姫と続く。それより姫の数が多くなると、二、三、四と数を付けて呼ぶ。

女性は他家の人と交際しないので、区別する必要がない。家の中だけで通じればいいのである。


大姫は、軽く目を瞠った。そうすると更に瞳が大きくなってかわいい。なぜか、えらく重々しく頷いた。


「まあ、わたくしの目を見てお話して、しかも謝った方なんて、初めてよ。どの先生方も、お叱りの言葉ばかりお口に上せて、そのくせご自分達が間違った時には、それをお認めにならないのよね」


したり顔の姫君がお茶目で、わたしはつい笑ってしまった。慌てて扇は口元に開いたが、かなり手遅れだったかもしれない。

そういう権威主義者の教師は多い。この姫様も、よく見ているものである。


「さいきの君だと、き、の音がうるさいわね。でも、さいの君だとさいの神のようで不吉だし。いつきの君だと伊勢の斎院のようだし。そうね、あなたのことは、さいにの君とお呼びしましょう。よろしいかしら」


「ありがたく、よろしくお願いいたします」


大したものである。

塞の神とは、道祖神のようなもの。

境界に穢れが侵入しないように祀られている様々な神の総称だ。注連縄や七夕の流し雛、沖縄のシーサーも、塞の神の一種である。

転じて、穢れを一身に引き受けた依り代そのものを呼ぶこともある。神扱いされていても、あまり縁起のいい言葉ではない。

それに、「さいき」か「いつき」で、大姫には漢字が分かったのである。伊勢や賀茂の斎院と同じ字だが、まさか家庭教師を、皇族の内親王と同じ役職では呼べないと思ったのだろう。

音のセンスもいいし、実は、楽器や和歌も上手なのではないだろうか。

確かに、大輔の君が言っていたとおり、「素直で賢い姫」のようだ。


満足げに笑った大姫は、すっくと立ち上がって、くるんと女房達に向き直った。

本当に、この姫様は、ひとつひとつの動きが軽やかで、キレがある。現代小学生なら、体育でヒップホップのスターになっただろう。


「みな、よいわね。これからこの方は、斎迩の君よ」


高らかに宣言して、また、


「大姫様、お静まりくださいませ」

「あれ、そんな大声を出されて、悪しきものが入ってまいります」

「大姫様、せめてお座りになってくださいませ。扇を、あれ、扇はどこですか」


女房達に騒がれ、叱られているが、けろっとしていた。


うん、ものすごく、見覚えがある。

あれは、よく生徒に見かける表情だ。

ぜんっぜん、まあったく、聞いていない。気にもしていない。


「大姫様は、物事をよく見ていらっしゃるのですね」


「そうよ、わたくし、いろいろな物を見るのが大好き。それに、その物がこれからどうなっていくのか、考えるのも楽しいわ」


とととっと御座まで戻ると、すぐに小さい桶を抱えて、姫君は戻ってきた。

満面の笑顔で、わたしに見せる。

まあ、ある程度は、予想してたよ。

やっぱりキタね、いやがらせ!



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