家庭教師、対面する 1
うまくしたもので、タイムスリップしたわたしは言葉も分かるし、服装なども勝手に修正されているらしい。
先ほどの執事さんの呪文も、翻訳されて、普通の言葉になった。
「ダメですよ、参りましょう、急いで。日が暮れてしまいます。大姫様がお会いするのをお許しになられたのに、遅れるなんてとんでもないことですわ」
同時に、さっきまでの耐え難い悪臭も、ふっと消えた。
単に鼻が慣れたのか、タイムスリップ調整が効いたのか、とにかくありがたい。
ここが中世だとしたら、あの臭いも当然だ。
平安京には、下水汚水設備がなかったのである。
なんでもかんでもおまるに溜めて、道端や川に捨てていた。平安から室町時代にかけて、やたら疫病が流行ったのも、その不衛生が原因のひとつだ。
それにしても。
奈良の平城京には、簡易水洗トイレと下水処理設備が整っていた。
平安京を造るとき、なぜ、真似しなかったのか不思議で仕方ない。あんな便利なシステムなのに。
水洗トイレって、一度使ったら、もう離れられないと思うんだけど。
人間って意外と、口で言うほどには、歴史に学ばないものだよね。
タイムスリップしたと分かってみれば、この御殿は、典型的な平安貴族の寝殿造りだ。
姫君の局は、今までわたし達がいた本殿の東側、東の対屋と呼ばれる一棟だった。
姫君は、部屋のいちばん奥の一段高いところ(御座)に座っていたが、驚いたことに、御簾も下ろしていなければ几帳も立てておらず、扇は持ってはいたものの、顔も隠していなかった。
そんな姫君をひと目見て、わたしは混乱した。
顔が、普通なのである。
なんというか、現代風に、普通にかわいい少女だ。
ついさっき、執事さんの、いかにも平安女性という顔を間近に見たばかりだ。
人間の容姿まで現代風に調整されたのかと、執事さんを振り返ってみたものの、別に変りはない。周りにはお付きの女房達、つまりはメイドさん達も何人かいたけれど、みんな平安風の顔立ちと化粧だった。
姫君だけが、瞳はぱっちり、眉毛もそのままなのだ。
化粧もしていないので不自然に白くもなく、むしろ少し日焼けしていて健康的。
顔立ちは少々しもぶくれ気味のぽっちゃりだけれど、かえって愛嬌がある。
いわゆる十二単スタイルではなく、当時の女の子が着る衵という着物だ。身長と同じ着丈なので、動きやすいが、一般的には幼児の服装である。11歳の姫君は、普通、着ない。
驚くほど豊かで黒い髪の毛は、後ろでふたつに分けて括ってあった。
「あなたが、今度のわたくしの先生?」
きらきらした瞳でいたずらっぽく笑う姫君を見て、ようやく、遅ればせながら、わたしも理解した。
――確かに、平安時代のお姫様としては、規格外だ。
そりゃあ、学校には、行ってないだろうさ!
一生自分の局から出ない姫君さえ、いる時代なのだ。
裸足で男の子と昆虫採集をしていたら、現代のADHDどころではない。
よくて奇人変人扱い、下手したら物怪憑きと信じ込まれて、祈祷とか調伏とかされかねない。
さっきまでは時代錯誤だと思っていたけれど、平安貴族にしては、こちらは破格にフリーダムなご家庭なのかもしれない。
――ん、11歳?!
「姫君は、御裳着は……」
裳着は、平安貴族女性の成人式である。大抵12~14歳で行い、その1年後くらいには結婚する。多少のズレはあるが、高位の貴族の姫君ほど早い。
執事さんは、身を縮めながら囁いた。
「もう、来春には……。ですが大姫様は、どうしても嫌だと仰せられて」
「大輔の君が悪いのではないわ。いいじゃない、裳着をしない人がいても」
あっけらかんと話に入ってくる。
貴族の姫君は、顔を隠すのはもちろん、話し声もめったに他人に聞かせない。
扇で隠しながらこしょこしょ呟いて、それをお傍の女房が代わりに言ったり、御簾の陰から和紙に書いて渡したりするものだ。
いちばん近くにいた女房が慌てて、自分の扇で姫君の口元を隠したが、姫君は、きゃらきゃら笑いながら、その扇を手で払いのけている。
――いや、で、この姫君に、わたしが何を教えろと?!
ほんの何分か前までは、小学校の5教科の基本を教えればいいと思っていた。
が、平安時代の女性の教養といえば、3つしかない。
「書道」 この時代の美人は、髪の長さと字の上手さで決まるのだ。
「楽器」 おもに弦楽器。箏の琴、琴の琴、琵琶など。
「和歌」 詠むのも必要だが、なによりも、暗唱が必須。覚えるのは、ずばり『古今和歌集』一辺倒である。
書道も楽器も、わたしが教えるなんて、無理だ。
古今和歌集の暗唱、一択だけれど、これまた、難しいんである。
古今和歌集には1,111首もの和歌がある。
長歌や前書き後書きもあるので、全部覚えなくてもいいのだけれど、ほぼ全ての和歌の意味、技巧、背景を理解しなければならない。
そして、その場に最適な歌を瞬時に思い出し、ほんの少しカスタマイズして、詠み替える。それを、相手に聞かせたり渡したりする。
これが出来て初めて、大人の女性として認められ、恋愛の対象となる。
平安貴族女性は、これを子どもの頃から、何年もかけて訓練しているのだ。
黙って座って講義を聞いていられない姫君に、おそらくまったく興味のない膨大な和歌を暗記させる……。
お外遊び大好きな姫君に、今までに何人もの教師が辞めさせられたらしい。名うての教師達が、チャレンジして、玉砕していったのだ。
だからこそ、時空を超えてわたしに話が来たのだろう。一筋縄ではいかないと思って、間違いはない。
――それと、これを認めるのは悔しいんだけど。
仮に姫君が、古今和歌集を丸暗記できたとしよう。
問題は、その後だ。
それをどんな場面で、どう活用するのかが、わたしにはまったく、さっぱり、想像もつかない。
ただの恋愛の駆け引きすら苦手なのに、和歌を使って、恋のゲームをする。
そんなこと、どう教えろというのか。