家庭教師、仰天する
東の対屋の朝は早い。
大姫が早朝にも昆虫採集をするからだが、この時代の貴族は夜明け前から起きて支度を始めるので、その点は世間と合っている。
朝食前、大姫が占いを受けている間、わたしは身支度を整えながら、今日の授業を休めないか、考えていた。なるべく早く現代に戻って、調べものをしたい。
けれどその希望は、またもや阻止された。
どすどすと床が鳴って、撫子の君が駆け込んできたのだ。
一流の女房である撫子の君とは思えない、行儀の悪さである。手には、文を持っていた。
「斎迩の君っ、なにとぞ、お助けくださいまし!」
「撫子の君、は、走れたんですか?! あ、いえ、すみませ……、え、助ける?」
「先師の方様のたってのご希望で……っ、どうか私と共に、お方様のお邸へおいでください!」
このとおりです! と平伏されても、意味が分からない。
先師の方って、誰?
なんでわたし、全然知らない人に、助けを求められてるわけ?
「あの、撫子の君、落ち着いてください。こんな朝早くから出かけるのですか。ともかく、大輔の君にも、お話を通したほうがよくありませんか」
事情が分からないので、大輔の君も巻きこむ。実際、住込みの撫子の君が私用で外出するなら、筆頭女房である大輔の君の承諾は、必要だ。
「先師のお方様というと、あの、碩学の先師殿の、奥方様ですね。撫子の君の以前のご主人ですが」
大輔の君は、大姫の朝食のお世話を済ませてから、落ち着いて登場した。てきぱきと質問する。
「なぜ以前のご主人のお邸へ? しかも斎迩の君をお連れするとは、どういうことです」
そうそう。
わたしも力いっぱい頷くと、撫子の君が、そっと文を差し出した。中には、別人の書いた文も同封されている。
「お方様は、正真正銘の貴婦人です。私が今のお邸を抜け出すのも、こちらの家庭教師である斎迩の君を連れ出すことも、事情を説明しなければとても許されないだろう、と。この文を直接お読みいただいて、ご判断ください、と」
用意万端な奥様のようだ。それはともかく。
「あの……、申し訳ないのですが、碩学の先師殿とは、どなたですか? お殿様とお付き合いのある公卿の方でしょうか」
わたしは薄氷を踏む思いで、尋ねた。
平安京じゅうが知っている有名人、だったら、昨日の「院」を知らなかったのと同じ失敗になる。
いなご麿相手ならともかく、この二人を前に危険な質問だが、これから訪ねるかもしれない人の夫を、知らないままでは済ませない。
けれど、あっさりと答えた撫子の君の発言に、わたしは仰天した。
「ああ、そうですね。先師の殿は世を忍ばれていらっしゃいますもの。今の左府殿のご嫡男ですが、もう7~8年、宮中にも世間にもお出になったことはございません」
大輔の君も、
「ですが、天下の碩学と名高く、先師という尊称で呼ばれています。当家の殿様とは、先帝の御世に、親しくお付き合いされていらっしゃいましたわ。まだ先師殿が、世を忍ばれる前のことですが」
はあ。天下の左大臣の跡継ぎ息子が、引きこもりなのかぁ……って、左大臣?!
左大臣って、大僧正達が、今上暗殺未遂の黒幕「候補」と言っていた人だよね?!
ここで、黒幕(仮)の長男の嫁から、わたしにヘルプ?
わたしは、二通の文をぐっと掴んだ。
「これは、今、当家のお殿様が励んでいらっしゃる内裏のお仕事と、関係のあるお話かもしれません。わたしに分からない部分は、お二人が補足してください」
特に、大輔の君を見つめる。大輔の君は、今上暗殺未遂のことまでは知らない。だが、その後のパパ殿や大姫、家じゅうの緊張した雰囲気から、重大事だと、推測はしているはずだ。優秀な人だから、質問もせず、わたしの行動にもとやかく言わないでくれているのだ。
一通目の差出人は、撫子の君の前の雇い主、先師の方である。「先師」と呼ばれる人の妻なので、先師の方、と呼ばれているそうだ。
――元夫から、とんでもない依頼の文が来た。どうしてよいか分からないので、助けてほしい。
と、認めてあった。
「元夫、なんですか?」
「はい。お方様は、先師の殿から離縁を言い渡され、今はご実家に戻られています。そのときに大半の女房がお役を解かれ、それで私も、こちらのお邸の女房になったのです」
撫子の君が、ふっくらした体を縮めた。なるほど、以前はすごい権勢のお邸の女房だったとは聞いていたけれど、そういう事情の再就職だったのだ。
次は、その先師殿の文が同封されていた。
――ある文を認めて、令子内親王に投げ文してほしい。自分やそなたでは筆跡が知られているので、信頼のおける者に書かせるように。このようなことは、そなたにしか頼めない。
「令子内親王とは、どなたですか」
「今上の叔母上で、准母様です」
ああ、今上には、母代りの叔母がいるって、聞いたっけ。出家しているそうだけれど、個人の邸を持っていて、寺ではなくそこに住んでいるらしい。
「届けるんじゃなくて、投げ文というのが、すでに穏やかじゃありませんね」
「問題はその先なのです、斎迩の君!」
――投げ文の内容は、「今上への呪詛あり。首謀者は、醍醐寺寺男、千手丸」と書け。
こちらの文の末尾には、藤原師頼と署名がしてあった。
え、まさかの本名?!
いや、妻宛の手紙だから、実名でもいいのか……?
「じゅ、呪詛!!」
大輔の君が驚愕して、あえぐ。
あ。
そうだった、普通、驚くポイントはそっちだよね。
最近、今上暗殺未遂のことばかり考えているから……、ん? 呪詛?
この時代だと、暗殺も、呪詛って呼ぶのかな。
いや、でも、呪いで今上が死ぬのを待つのと、毒蜂をけしかけるのとは、だいぶ違うよね。
「斎迩の君、今上の御病とは、この呪詛のせいではありませんか。それならば、一刻の猶予もなりません!」
「お殿様が関わっている事件とは、これなのですね。それでは先日、斎迩の君がお見舞と称して参内されたのは、もしや、特別な呪詛返しの技をご存じだったとか?」
なんだか誤解している二人に、慌てて否定する。
「待ってください、違いますよ! わたしは今上への呪詛なんて、聞いたこともありません。今上は、その、体調を崩していらっしゃいましたが、あれが呪詛によるものとは、内裏の方々も、考えていらっしゃらないですし……」
答えながら、わたしも自信がなくなっていく。
清涼殿に入った途端の、ものすごい護摩壇の数々。祈祷の煙。
あれが、病気平癒の祈祷でなくて、呪詛返しだとしても、わたしには分からない。
もしかして、両方、合わせ技だったのだろうか。




