表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/103

家庭教師、仰天する


 東の対屋たいのやの朝は早い。

 大姫が早朝にも昆虫採集をするからだが、この時代の貴族は夜明け前から起きて支度を始めるので、その点は世間と合っている。


 朝食前、大姫が占いを受けている間、わたしは身支度を整えながら、今日の授業を休めないか、考えていた。なるべく早く現代に戻って、調べものをしたい。

 けれどその希望は、またもや阻止された。

 どすどすと床が鳴って、撫子なでしこの君が駆け込んできたのだ。

 一流の女房である撫子の君とは思えない、行儀の悪さである。手には、文を持っていた。


「斎迩の君っ、なにとぞ、お助けくださいまし!」


「撫子の君、は、走れたんですか?! あ、いえ、すみませ……、え、助ける?」


先師せんしかた様のたってのご希望で……っ、どうか私と共に、お方様のお邸へおいでください!」


 このとおりです! と平伏されても、意味が分からない。

 先師の方って、誰?

 なんでわたし、全然知らない人に、助けを求められてるわけ?


「あの、撫子の君、落ち着いてください。こんな朝早くから出かけるのですか。ともかく、大輔たいふの君にも、お話を通したほうがよくありませんか」


 事情が分からないので、大輔の君も巻きこむ。実際、住込みの撫子の君が私用で外出するなら、筆頭女房である大輔の君の承諾は、必要だ。


「先師のお方様というと、あの、碩学せきがく先師せんし殿の、奥方様ですね。撫子の君の以前のご主人ですが」


 大輔の君は、大姫の朝食のお世話を済ませてから、落ち着いて登場した。てきぱきと質問する。


「なぜ以前のご主人のお邸へ? しかも斎迩の君をお連れするとは、どういうことです」


 そうそう。

 わたしも力いっぱい頷くと、撫子の君が、そっと文を差し出した。中には、別人の書いた文も同封されている。


「お方様は、正真正銘の貴婦人です。私が今のお邸を抜け出すのも、こちらの家庭教師である斎迩の君を連れ出すことも、事情を説明しなければとても許されないだろう、と。この文を直接お読みいただいて、ご判断ください、と」


 用意万端な奥様のようだ。それはともかく。


「あの……、申し訳ないのですが、碩学の先師殿とは、どなたですか? お殿様とお付き合いのある公卿くぎょうの方でしょうか」


 わたしは薄氷を踏む思いで、尋ねた。

 平安京じゅうが知っている有名人、だったら、昨日の「院」を知らなかったのと同じ失敗になる。

 いなご麿相手ならともかく、この二人を前に危険な質問だが、これから訪ねるかもしれない人の夫を、知らないままでは済ませない。

 けれど、あっさりと答えた撫子の君の発言に、わたしは仰天した。


「ああ、そうですね。先師の殿は世を忍ばれていらっしゃいますもの。今の左府さふ殿のご嫡男ですが、もう7~8年、宮中にも世間にもお出になったことはございません」


 大輔の君も、


「ですが、天下の碩学と名高く、先師という尊称で呼ばれています。当家の殿様とは、先帝の御世みよに、親しくお付き合いされていらっしゃいましたわ。まだ先師殿が、世を忍ばれる前のことですが」


 はあ。天下の左大臣の跡継ぎ息子が、引きこもりなのかぁ……って、左大臣?!

 左大臣って、大僧正達が、今上暗殺未遂の黒幕「候補」と言っていた人だよね?!

 ここで、黒幕(仮)の長男の嫁から、わたしにヘルプ?


 わたしは、二通の文をぐっと掴んだ。


「これは、今、当家のお殿様が励んでいらっしゃる内裏だいりのお仕事と、関係のあるお話かもしれません。わたしに分からない部分は、お二人が補足してください」


 特に、大輔の君を見つめる。大輔の君は、今上暗殺未遂のことまでは知らない。だが、その後のパパ殿や大姫、家じゅうの緊張した雰囲気から、重大事だと、推測はしているはずだ。優秀な人だから、質問もせず、わたしの行動にもとやかく言わないでくれているのだ。


 一通目の差出人は、撫子の君の前の雇い主、先師の方である。「先師」と呼ばれる人の妻なので、先師の方、と呼ばれているそうだ。

 ――元夫から、とんでもない依頼の文が来た。どうしてよいか分からないので、助けてほしい。

 と、したためてあった。


 「元夫、なんですか?」


 「はい。お方様は、先師の殿から離縁を言い渡され、今はご実家に戻られています。そのときに大半の女房がお役を解かれ、それで私も、こちらのお邸の女房になったのです」


 撫子の君が、ふっくらした体を縮めた。なるほど、以前はすごい権勢のお邸の女房だったとは聞いていたけれど、そういう事情の再就職だったのだ。


 次は、その先師殿の文が同封されていた。

 ――ある文をしたためて、令子じゅんしの内親王ひめみこに投げ文してほしい。自分やそなたでは筆跡が知られているので、信頼のおける者に書かせるように。このようなことは、そなたにしか頼めない。

 

 「令子じゅんし内親王とは、どなたですか」


 「今上の叔母上で、准母じゅんぼ様です」


 ああ、今上には、母代りの叔母がいるって、聞いたっけ。出家しているそうだけれど、個人の邸を持っていて、寺ではなくそこに住んでいるらしい。


 「届けるんじゃなくて、投げ文というのが、すでに穏やかじゃありませんね」


 「問題はその先なのです、斎迩の君!」


 ――投げ文の内容は、「今上への呪詛あり。首謀者は、醍醐寺だいごじ寺男、千手丸」と書け。


 こちらの文の末尾には、藤原ふじわらの師頼もろよりと署名がしてあった。

 え、まさかの本名?!

 いや、妻宛の手紙だから、実名でもいいのか……?

 

 「じゅ、呪詛!!」


 大輔の君が驚愕して、あえぐ。

 あ。

 そうだった、普通、驚くポイントはそっちだよね。

 最近、今上暗殺未遂のことばかり考えているから……、ん? 呪詛?

 この時代だと、暗殺も、呪詛って呼ぶのかな。

 いや、でも、呪いで今上が死ぬのを待つのと、毒蜂をけしかけるのとは、だいぶ違うよね。


 「斎迩の君、今上の御病とは、この呪詛のせいではありませんか。それならば、一刻の猶予もなりません!」


 「お殿様が関わっている事件とは、これなのですね。それでは先日、斎迩の君がお見舞と称して参内さんだいされたのは、もしや、特別な呪詛返しの技をご存じだったとか?」


 なんだか誤解している二人に、慌てて否定する。


「待ってください、違いますよ! わたしは今上への呪詛なんて、聞いたこともありません。今上は、その、体調を崩していらっしゃいましたが、あれが呪詛によるものとは、内裏の方々も、考えていらっしゃらないですし……」


 答えながら、わたしも自信がなくなっていく。

 清涼殿せいりょうでんに入った途端の、ものすごい護摩壇ごまだんの数々。祈祷の煙。

 あれが、病気平癒の祈祷でなくて、呪詛返しだとしても、わたしには分からない。

 もしかして、両方、合わせ技だったのだろうか。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ