家庭教師、入浴する
この夜、わたしは、現代に帰るべきだったかもしれない。
いや、結果的には、ひと晩早く帰って歴史を調べたからといって、この時点で、わたしにできることは何もなかった。
それなら、この夜、大姫の側にいたことは、少なくとも家庭教師としては役に立ったのだと思いたい。
ステキな女性探偵・葉村晶も、言っている。
悲劇は、ずっと前からその流れに乗って進んでいて、止められないと。
ほとんど駆け足でお邸に戻ると、大輔の君が待ち構えていた。
わたしは現代に帰って、院政について調べたいと気が急いていたが、そんなことを許してくれる人ではない。
「大姫様が、たいへんご心配のまま、お待ちです。とにかく、お顔を見せてあげてください」
とはいえ、わたしは最悪の穢れに触れたため、禊をしなければ、大姫の前に出られない。
どうしても話を聞きたがっている大姫のために、すでに当家御用達の陰陽師が待機していた。あくまでも大姫様優先、さすが、敏腕執事である。
浴衣より薄い真っ白の着物に着替えさせられ、有無を言わさず、お祓いを受ける。
水を振りかけられ、人形の紙で体を撫でられ、呪言をむにゃむにゃ唱えられ、五芒星の印を切られた。
その後、入浴もする。
「え、わたし一人のために、お風呂を立てていただくのは申し訳ないです。いったん家に帰って、また出直してきますから」
とにかく一度、パソコンと資料に当たりたい。
消毒液も使いたい。
その一心で申し出てみたが、大輔の君と若狭に一蹴された。
「いいえ、今日はもともと占いで、大姫様の入浴の日でしたから。斎迩の君にも一緒にお入りいただければ、手間がはぶけます」
――はーい。
平安貴族の行動は、占いに依っている。
特に、髪の毛や体を洗うと魔を呼び込む、と考えられていて、細かく日にちが決まっていた。
つまり、平安貴族って、めったにお風呂に入らないのだ。お香の文化が発達したのも、体臭消しという一面もある。ヨーロッパ貴族の香水と、同じ原理だ。
そんな中、大姫は、かなり頻繁に、入浴する。
単純に、外を走り回って泥だらけだから。いくら足や首筋だけ水拭きしても、すっきりしないだろう。
陰陽道の占いには抜け穴があって、「今日はこっちの方角がだめ」とか「今日は髪洗い禁止」とか出るけれど、何も言われない日については、本人の解釈次第で、好きにできちゃうのだ。
普通の平安貴族は、入浴の機会をなるべく減らすけれど、大姫は、禁日と言われない限り、できるだけ入浴するのである。
わたしは湯殿に入った。
少しだけ高床式の建物で、床は、簀子状の板間だ。
この時代のお風呂には、湯船がない。現代の、韓国の蒸し風呂に似ている。
「あら、斎迩の君、もう入っていらしたんですか。じゃあ先に湯殿の中からお湯、お持ちしますけど、わたしらが入ってもいいですかいね?」
「はい、お願いします」
まだ準備が終わっていなかったようで、下男達が運んできた大量の桶を、下女達が、床下にも床上にもずんずん並べていく。
桶には熱湯が入っていて、運んでいる下男も「あちぃっ!」と叫んでいる。
部屋の壁際は、ぎっしり熱湯入り桶で囲まれて、もうもうと湯気が上がり出した。床下にも同じように置き、簡易サウナのような状態になる。
この時代、火を熾すのもお湯を沸かすのも、すべて人力なので、お風呂を立てるのは、ものすごく大変なのだ。
「どんどん沸かしていますから、冷めないうちに次々入れ替えますね」
「は、い、お手数、おかけします……」
目の前で、大人数が重労働をしているのに、自分だけが座って見ているのは、現代人としては、けっこう居たたまれない。
しかも彼らは、このお風呂に入れるわけでもない。
立ちのぼる湯気の上に座って、じっくり汗をかくのは、高貴な身分の者だけに許された入浴である。一般人は、単に水浴びするだけだ。
いったん誰もいなくなり、ホッとした。
分厚い麻袋を被ってじっと座っていると、じんわり汗が出てくる。
お湯いっぱいのお風呂とは比べるべくもないけれど、これはこれで、気持ちいいよね~。
今日は、疲れたし。
ぼけっと座っていると、軽い足音がして、大姫が湯殿に入ってきた。
「斎迩の君、ご無事だったのね。穢れに当てられたりはしなかった?」
「ご心配をおかけしました。大丈夫です、陰陽師にも清めてもらいましたし」
「そう、よかったわ。――それで、斎迩の君、その穢れ、を見てみて、どうだったの? 何か分かって?」
外に控えている大輔の君達に聞こえないよう、声を潜めて、でも、好奇心を抑えきれずに、さっそく質問してきた。
「大姫様、せっかく穢れを祓ったのに、そのような話題をお耳に入れることはできません」
しかつめらしく、威厳をもって、断った。
「あら、そんな建前、聞きたくないわ」
うーむ、見透かされている。わたしはつい、笑ってしまい、
「仕方ない姫様ですねえ。では本音を言えば、長くなりますから、お風呂場で話したら、お互いにのぼせてしまいます。それに、あまり気持ちのいいお話ではありませんから、せっかくのお風呂を、台無しにしたくないのです」
「そう、じゃあ、後で聞かせてね! 絶対よ、お約束!」
元気に答える大姫の横顔が、つやつやだ。
11歳の少女だから、そりゃ、お肌もぷりぷりだろうけれど、大姫の場合、よくサウナに入っているせいもあるのかもしれない。
平安貴族がシャンプーや入浴を忌避する理由は、なんと、「毛穴が開くから」!
すごい、大正解だ。
その、開いた毛穴から、「魔が入る」として、嫌がられているのである。
まあ、沸かしたお湯の湯気だけのサウナって、今はまだいいけれど、冬になったらかなり寒い。
それに当時の女性の髪は、やたら長い。髪洗いの日は、午前中から総出で、一日仕事になる。ドライヤーも吸水タオルもない。人海戦術で、布で拭くだけである。
お風呂やシャンプーのあと、風邪を引いて、そのまま亡くなる人も、多かったのではないか。それで、「魔が入る」と言われるようになったのだろう。
しかも、この時代の姫様って、実はほとんどが、冷え症ではなかろうか。
ほとんど歩かない。一日中座っている。家も着物もそんなに暖かくはないし、暖房といえば、火鉢だけ。ヒートテックもホッカイロもない。
だいたい30代くらいで不健康になるのも、冷えからくる自律神経の乱れが原因じゃないかなあ。
でも、大姫は、ちょっと珍しいほどの、健康体だ。
現代では、入浴が健康にいいのは、常識である。
そして大姫は、とにかく毎日、外で走り回っている。
貴族の姫なので、この時代の子どもにしたら、栄養状態もいいほうだし。
あと、大姫は、この年になってもまだ、化粧をしていない。
この当時の白粉は二種類あって、原料が、水銀か、鉛なのだ。どちらも長く肌に付けていると、健康被害が出る。
顔に薄く塗るくらいでは問題にならないが、江戸時代の歌舞伎役者は全身に鉛の白粉を塗りたくっていて、最後は鉛毒が脳に回り、衰弱し、発狂して亡くなる人が多かった。
白粉が危険ということは一部の人以外には知られておらず、昭和初期になって、やっと、法律で使用を禁止されたのだ。
うーーーん。
大姫を貴族の姫っぽくするために、わたしは雇われているのだけど、そういう知識があると、お風呂は控えろとか、化粧に励めとか、言いにくい。
人間、健康がいちばんだよね。
「大姫様、もっと寒くなったら、無理に入浴せずに、足湯でもいいと思いますよ」
そう、ビバ! 足湯!
わたしはこれで、冷え症が治ったのだ。
「桶に、少し熱いくらいのお湯を入れて、足を浸けるだけです。できれば、膝下まで入れるといいですが、最初は足首くらいまででも充分、体全体が温まりますよ」
「あら、それは、お風呂を立てる者達にとっても、ラクになるわね。薪も水も、ずいぶん節約になるし」
おお、さすが一家の主人である。
「ええ。半刻(30分)もやれば充分ですし、手軽ですから、ほかの女房方も、ご一緒にできますね。血の道の、腹痛や腰痛なども、かなり和らぐんですよ」
「わたくしはまだ分からないけれど、撫子の君などはお辛そうだものね。足湯ね、皆を誘って、やってみるわ」
撫子の君の場合、ダイエットにもなるかもしれない。いろいろオススメである。




