その後のパパ殿
その後、わたしがあの邸に渡ることは二度となかった。
でも資料をひもとけば、その後のパパ殿の消息はかなり詳しく分かる。
パパ殿、藤原宗輔はかなり長生きした。鳥羽帝、崇徳帝どころか、その3代後の二条帝にまで仕え、86歳という長寿を全うした。
出世の方も順調で、なんと最後は太政大臣にまで昇りつめている。
太政大臣といえば臣下の最高位、もはや半分皇族だ。左大臣より上位で、常に置かれる官職ではない。
長年の帝への貢献を特別に認められた場合のみ、一代限りで臨時に設けられるのだ。
「あ、あはっ。これって、みんなが困った挙句の、苦肉の策なんだろうなぁ」
思いついて、笑ってしまった。
太政大臣は最高位だが、実際の業務を担うことはあまりない。ぶっちゃけ、ご褒美の名誉職だ。
「パパ殿の実務能力を考えたら、ねえ……」
パパ殿はその前は右大臣だった。左大臣の方が格上とはいえ、左右の大臣が政務の実質上の最高責任者ツートップだ。
特にこの頃は天皇がころころ変わり、院政も失政続き、加えて武士が台頭し各地で内乱が勃発していた難しい時期だ。
あの事務処理能力皆無のパパ殿に務まるとは思えない。でもパパ殿はすでに押しも押されもせぬ大貴族の第一人者。帝からの覚えもめでたく、忠誠心はピカイチ。
そんな功労者は太政大臣という名誉な椅子に座ってもらって、実務からは離れてもらうに限る、と周囲が考えても不思議ではない。
別にわたしだけがパパ殿に厳しいわけじゃない。ちゃんと、資料としても証拠がある。『九条相国記』などの当時の官僚の日記だ。この日記の著者は、藤原伊通。パパ殿のイトコである。
大治五年(1130年)の春の除目(人事考課と異動)で、先師の殿が25年ぶりに朝廷へ呼び戻されることとなった。もともと「天下の碩学」と名高い秀才なので、本人の体調と気力さえ戻れば引く手あまたなのだ。
が、当時、参議だったパパ殿が、除目の任命書類を書き間違えてしまった。
先師殿は権中納言として復帰する予定だったが、パパ殿が「権」を書き忘れ、中納言にしてしまって、もう一年、就任が延びたのだ。
除目は、帝が神聖な役割を臣下に授ける、という一種の儀式なので、間違いはあってはならない。とはいえ、正式な任命書類が間違えていたのであれば、もうその除目は「なかったこと」にして、翌年仕切り直すしかない。
はっきり言って、前代未聞の失態である。
――でも……。パパ殿、わざと書き間違えたのかも。うん、あり得る。
ひとしきり笑ってから、そうも思う。
先師殿は、前の左府(左大臣)の長男だ。すでに左大臣は、前左府の弟、藤原顕房殿に代わり、その久我家一族に引き継がれている。おそらく、先師殿の回復うんぬんよりも、もはや北家一族が政敵にならないとみなされたから、復帰が許されたのだろう。
実際、25年も出仕していなかったのにいきなり権中納言は破格の待遇だが、前左府の嫡男、ということを考えれば、決して高い官位ではない。
それでも、実はこの除目には批判が大きかった。
日記を書いた伊通も、同じ権中納言だったこともあり、かなり強い口調で非難している。
権中、大納言あたりは実務処理を一手に引き受ける役職だ。長いブランクのある先師殿を引き受けることに難色を示した官僚がかなり多かったらしい。
それにこの大治五年というのは、白河院と、醍醐寺の座主、勝覚が亡くなった年でもある。もし前年から体調を崩していたのだとしたら、先師殿は、最後の兄弟の死に動揺していたのかもしれない。
さらにパパ殿は、白河院が亡くなれば、鳥羽院が返り咲いて朝廷が混乱することが分かっていただろう。権力闘争を嫌って隠居していた先師殿が復帰早々、そういう内裏の空気に耐えられるか、心配したと思う。
――もしも先師殿が、まだ出仕はしたくない、ムリだと言ったのなら。
パパ殿なら、自分が間違えたフリをして先師殿の出仕を延ばすだろう。
除目自体は春と秋の年2回あるけれど、秋の除目は地方官吏や欠員補充など、補助的なものだ。
「帝が任命する正式な」除目は春のみ。しかも先師殿ほどの高級貴族の御曹司を、秋の除目で新規任命するなど、あり得ない。
結果的に、先師殿には一年、猶予が与えられたのだ。
――それにしても、パパ殿ってば、あいかわらず同僚に愛されてたんだなぁ。
この資料だって、当時の貴族の日記だ。高位貴族の日記は仕事の正式な記録なので、業務マニュアルの役割もあった。
そんななかに、こういうエピソードが書かれているのである。
書いた人は、「また中御門殿がやらかした」と感想だか愚痴だかを、えらく生き生きと書き加えている。
事務能力がないパパ殿にマジ切れしていたのか、「しょーがねーなー」と苦笑していたのかは、分からないけれど。
いずれにせよ、公式文書である日記に、正式な漢文ででさえも、書かずにはおれなかったのだ。
そういう記述がいろいろな本や日記にあって、パパ殿は一貴族のわりに、かなり日常生活や性格が明らかになっている。
わたしが予言、というか調査したとおり、パパ殿自身は保安四年(1123年)にやっとこさ、28年ぶりに出世した。
この保安四年は、鳥羽帝が20歳になった年、つまり白河院からムリヤリ退位させられ、崇徳帝が即位した年だ。
鳥羽帝は、パパ殿に感謝していたのだろう。頭のいい人だったみたいなので、パパ殿がずっと五位の蔵人だったのは、自分を院から守るためだと気づいていたはずだ。
鳥羽帝が出家し、内裏を去る直前に、パパ殿は従三位に上がり、同時に参議となった。
参議は、執政会議に参加できる資格だ。本来は三位からだが、帝及び上位者からの推薦があれば四位以上から参加できる。
五位からいきなり従三位の昇格も破格だが、パパ殿が28年も出世していないことは知れ渡っていたので、特に反対もなかったのだろう。
この時、崇徳帝は5歳。白河院の曾孫で、実は実子だ。またもや白河院制の完全独裁となった。
そして、六年後。
白河院が亡くなって、鳥羽院はやっと巻き返しを図る。
まずは崇徳帝を退位させ、出家させる。そして次男の近衛帝を即位させた。この帝もまだ幼かったので、今度は鳥羽院が院政を始めたのだ。
宇治に蟄居させられていた、自分の昔の摂政、藤原忠実を呼び戻し、関白に取り立てた。
この時点で、鳥羽院はまだ27歳だ。やる気、体力も十分だっただろうけれど、不幸なことに、この人には政治的センスがなかった。
白河院のせいで政治的教育を受けていないから仕方ないのだけれど、独裁者としての振舞いだけは見習ってしまったようで、
「其の政多く道ならず、上は天心に違い、下は人望に背く」
と日記に書かれている。
ちなみにこの日記を書いたのは、例の、藤原忠実だ。
子どもの頃から慕い、祖父を敵に回してまでも関白に呼び戻した当人から、こんな言われようをしては、鳥羽帝も報われない。
てか、関白・忠実、あんたは無責任すぎだろう!
鳥羽院の失政と、崇徳院対後白河帝の政争が激化して、朝廷は荒れた。保元の乱が起き、武士が政治に介入してくるようになって、その間、帝はころころ変わった。
ちょうどパパ殿の兄上、藤原宗忠が亡くなり、パパ殿が北家中御門家の惣領となる。
参議で、北家藤原氏のトップ。鳥羽院の信頼厚い忠臣とくれば、あとは黙っていても、トコロテン方式に順調に出世街道を突っ走ることになったのだ。
そんなパパ殿は、『今鏡』『十訓抄』などの説話物語でも大人気だ。
ある年の鳥羽院主催の宴で、蜂が紛れ込んできた。
鳥羽院は蜂にはトラウマがあるし、周りには女房ばかりで、大騒ぎになった。
そんな中、ひとり落ち着きはらったパパ殿が、枇杷の実のついた木の枝を折り取ってくる。筝の爪で枇杷の皮を剥ぎ、そのまましばらく枝を捧げ持っていると、すべての蜂が枇杷に吸い寄せられ、パパ殿はその枝を御所の外まで捨てに行った。
駆けつけた衛士達も感心し、鳥羽院もいつものエラソーな態度ではなく、「やはり大臣がいちばん頼りになる」と素直にお礼を言ったそうだ。
この当時、パパ殿は堀河大臣と呼ばれていたが、この事件をきっかけに、蜂飼の大臣と呼ばれるようになった。これほど院の信頼が厚い忠臣はいらっしゃらない、と褒められている。
――やっぱりパパ殿は、約束は守る人だったね。
パパ殿のお邸は堀河から近かった。だから堀河大臣と呼ばれていたのだろうけれど、大臣と名のつく役職に就いてからも、鳥羽院のアナフィラキシーショックには注意していたのだ。
これらの本には続きがあって、蜂飼大臣には若御前と呼ばれる美しい姫君がいて、鳥羽院と恋愛関係だったことになっている。
御前という呼び名は、この当時、白拍子の源氏名だ。高位の貴族の姫君の名前としてはあり得ないし、大臣の娘なら普通、女御として入内する。というか、そもそも出家している院と恋愛関係、というのもおかしい。
まあ、『今鏡』も『十訓抄』も百年ほど後にできた物語だ。時代が進むにつれていろいろ脚色されて、矛盾点はスルーされたのだろう。
それくらい、パパ殿という存在は話題性に富んでいて、周りからいじられ愛されていたのだと思う。
そんなパパ殿は、最後まで彼らしく過ごした。
86歳の大往生で亡くなる数年前まで、やっぱり幼い少女たちを邸に住まわせて、きゃっきゃうふふしていたらしい。
――いや、それもはや絵面的には、じーさんと孫のひなたぼっこだから!
そしてこれほどの大貴族の惣領でありながら、ただの一度も正妻を娶らなかった。
どこまでもゴーイングマイウェイなおっさんである。
ここまで終始一貫していると呆れるのを通り越して、尊敬する。
でも。
ほんの少しだけ、わたしも妄想する。
――じゃあ、パパ殿が正妻にしてもいいと思ったのは、わたしだけ、だったのかな?
たとえそれが政治的な思惑だったとしても。
「ものすごく頑張ればムリじゃない気がしないこともない」という、ふざけたプロポーズだったとしても。
中御門一門の惣領として、政略結婚の申し込みも、嫡男を持たなければならないプレッシャーも、半端じゃなかったはずだ。
それでも、どんな相手も、「ものすごく頑張ってもムリ」だったのだろうか。
ひとりでにやけてしまい、その後、28歳でこのレベルのコイバナ(なのか、これ?)にしか縁がない自分に、ちょっとだけ打ちのめされた。