9月2*日
9月2*日
奈央子はベッドで呼吸を荒くしていた。
午前5時半。日はまだ出ておらず、部屋は薄暗い。身体中に汗がまとわりつき、より気分が落ち込む。いつもの彼女ならあと30分は寝ているところなのだが、今日は違う。悪夢の為だった。
汗を流すために彼女はシャワーを浴びることにした。
奈央子が風呂場から出る頃には、朝日が差し込んでいた。日の光を浴び、彼女の気分は高揚する。
冷蔵庫から昨日の残り物が入ったパックを取り出し、温めて食べる。終わったら洗面台の前に立ち化粧をする。
いざ出ようとドアノブに手をかけた時、彼女はハンカチを忘れていることに気がついた。
居間に戻り、タンスの引き出しを引く。
どれにしようかと思っていると、黒い無地のハンカチが目に付いた。
理由は分からない。ただそのハンカチを持っていってはいけないという気持ちが彼女の中にはあった。
隣にあった白いハンカチを手に取って彼女は家を出た。
彼女のアパートは郊外の住宅地にあった。線路沿いのこじんまりとした建物で、住人は三人。周囲にはコンビニもなく、何か買うなら駅前のスーパーまで行かなくてはならない。都会とは正反対の静かなところだった。だからこそ彼女はここに住むことにしたのだが。
さらに言えばこの周辺の住宅地は緑が多い。
なんでも町内の取り決めで、建物一棟につき3本以上の木を育てないといけないというルールがあるのだそうだ。
その点においても、ここは彼女の好みにふさわしかった。
ビジネススーツを着た彼女は、今日も笑顔で緑のアーチを潜り抜け、最寄り駅へと向かっていく。
午後9時。多くの仕事帰りの人波と共に彼女は改札から出てきた。夕飯の食材を買うために駅前のスーパーへと向かう。
買い物かごを押しながら店内を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「これ、落としましたよ」
振り返ると笑顔でこちらに手を差し出す男がいた。彼の手には黒い無地のハンカチが握られていた。
「私のじゃないですね」
「そうですか、失礼しました」
彼女は不思議とその男に見覚えがあるように感じた。
奈央子はスーパーから出るとアパートに通じる路地に入った。ここに引っ越してきてから5ヶ月。既に通い慣れた道だった。
路地に入ってから5分くらい経った頃だろうか。遠くに見える十字路の角から白い人影が現れた。普段はあまりないことなので警戒心を抱く。
そして彼女は異変に気づいた。
振り返りすぐに駆け出す。二度も同じことは繰り返すまいと。
男は白い能面をつけていた。白装束を身にまとい、手には反りのある日本刀が握られていた。
常人ではないのは明らかであった。
「誰かッ!助けて!」
夜道に声が響き渡る。答える声はない。
木々の合間から見える家々からは明かりが一切見られなかった。
後ろを見る。白装束は地を滑るように近づいてくる。
さらに力を振り絞る。いくつもの角を曲がり逃げ切ろうとする。しかしソレもしつこく現れる。
体力の限界を悟った彼女は、ソレの視界から外れたタイミングですぐそばの家の塀をよじ登った。すぐさま物陰に隠れ、通りをじっと見つめた。
彼女が隠れた直後、ソレは家の前を横切っていった。しばし気持ちが落ち着くのを待つ。
どのくらい経ったころだろうか、彼女はやっと重い腰を上げて、家のドアを叩いた。
「助けてください!お願いです!開けて!ねえ!」
返答は無かった。
恐怖と苛つきが混じり、ドアノブを強引に引く。
鍵はかかっていなかった。
一瞬ためらったが中に入るとすぐに鍵を閉めた。安堵からその場に座り込む奈央子。そして住人に危険を知らせるべく彼女はリビングへ向かった。
結論からいうとその家には誰もいなかった。リビング、洗面所、台所、寝室。生活の痕跡はあれども誰一人としていなかった。外出を疑った彼女だったが、玄関には靴が残されていた。
仕方なく彼女は警察に電話しようとした時だった。
電話の横にあるメモ帳に目がいった。そこにはただ一言。
「隠れろ」
と記されていた。
不気味に思い、メモ帳を手に取りめくっていく。すると一ページだけ、消しゴムの消し跡が目立つ汚いページがあった。
目を凝らす。よく見えない。しかし部屋の電気をつけるのは気がまずい気がした。スマホを取り出す。
うっすらとだが何が書かれているのかを理解した時、彼女は小さな叫び声をあげた。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
「なんなのよもう!いい加減にして!」
その時だった。突如メモ帳が赤く染まり始めたのだった。
同時に奈央子は理解した。
それが自分の血だと。
胸の激痛が思考を妨げる。
床に体がぶつかり、フローリングの溝を生温い血が伝っていく。
視界の隅にはあの白装束が。
これで終わり。死後の世界なんて存在しないし、彼女が蘇るなんてこともない。白装束が誰かなんてのも彼女の知るところではない。
これは彼女のお話だ。他人は関係ない。