9月28日
9月28日
戸田奈央子はジリリリリという音で目を覚ました。
時刻は午前6時。
ベッドから出て、すぐさま準備に取り掛かる。冷蔵庫から昨日の残り物が入ったパックを取り出し、温めて食べる。食べ終わったら洗面台の前に立ち、化粧をする。そして7時までには家を出る。
奈央子のアパートは郊外にあった。線路沿いのこじんまりとした建物で、住んでいるのは自分を含め、大家と隣人の三人しかいない。不動産屋でもここを紹介されたのは最後の最後だった。それでも彼女がここにしたのは建物を取り巻く環境によるものだった。
アパートの階段を降り、門を出ると彼女はいつも大きく息を吸い、自然の香りを取り込む。
それこそが彼女がここに住むことを決めた理由、緑に囲まれた土地だということだった。
ビジネススーツを着た彼女は、今日も笑顔で緑のアーチを潜り抜け最寄り駅へと向かっていく。
午後9時。多くの仕事帰りの人たちとともに彼女は改札からでてきた。夕飯の食材を買うために駅前のスーパーへと向かう。
買い物かごを押しながら店内を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「これ、落としましたよ」
振り返ると笑顔の男性が立っていた。30代くらいだろうか。いかにもサラリーマンという格好だ。その手には黒い無地のハンカチが握られていた。
すかさずポケットの中を確認する。中からは綺麗に折りたたまれた黒いハンカチが出てきた。
「私のじゃないですね」
途端に男の顔が無表情になった。そのまま男は振り返り、商品棚の角を曲がっていった。
彼女は変なのと思っただろう。
奈央子はスーパーから出るとアパートに通ずる路地に入る。ここは仕事帰りの人達の大半が向かう方とは真逆に位置し、また街灯も少ない。女性がこの時間一人で通るにはあまりにも不適切なところであった。
しかし彼女はこの道をかなり気に入っていた。静けさが心を癒し、想像力を掻き立てるからだった。もちろん彼女も人並みの警戒心は持ち合わせていた。ただこの道の心地よさはそれを上回っていた。
今日も妄想を膨らまそうとする。その時だった。
「これ、落としましたよ」
思いがけない声にギョッとして振り向く。スーパーで会った男だ。
「いえ私のじゃないんで」
言いながらもすぐさま歩き出す。少し早足気味に。
尚も執拗に同じことを繰り返しつつ詰め寄る男。
腹が立つ。さらに脚を進める速度を上げる。
それが間違いだった。
彼女はすぐさま逃げるべきだったのだ。
男が彼女の首を掴んだ。ほどこうとする手。手に加わる力は大きくなる。顔に血がたまっていく。爪が皮膚と食い込んで今にも引きちぎれそうな。
やがて、その細くしなやかな腕からは力が失われていった。だらしなく伸びきった腕はしだいに硬さと冷たさを帯びていく。
これで終わり。死後の世界なんて存在しないし、彼女が蘇るなんてこともない。そのあと男がどうしたか。それはここで描かれる必要もない。
これは彼女の話だ。