第4話 決意 希望
「ローガン様。おぼっちゃん。お止めなさいな」
そこにいたのはルーカスだった。
この屋敷に仕え続けてきた使用人だった。
「じい……」
そういえば、青年が東京に引っ越す前、祖父はちょうどルーカスくらいの歳だったな。
青年はもう何年も前になることを思い出した。
少し酒焼けしたような、かすれた声の人だった。
日本に住んでいた頃のことは、もう遠い昔に感じる。
ルーカスは、ローガンに優しく話しかける。
「おぼっちゃんは、良いスキルを得られましたな」
「……そんなことないよ。だって僕は、魔法が使えないんだ」
そんなことない。
魔法が使えなければ意味がない。
「それを補って余りあるスキルじゃないですか。おぼっちゃん。あなたは、幸運ですよ」
「そんなこと、ないよ」
幸運なんかじゃない。
確かにスキルは欲しいと思った。
でもそれは、魔法という選択肢を捨ててまで望んたことではなかった。
当然のように魔法も使えて、さらにスキルもあったら、と。
そう望んでいたのだ。
魔法が使えなければ意味がない。
アランが、ローガンの父親が望んだのは、魔法だったのだから。
期待されていたのは、魔法だったのだから。
「いいえ、おぼっちゃんは神様に愛されていますよ。とても恵まれています」
そんなことない、とローガンがまた否定しようとした時だった。
「――おぼっちゃん。一つ、昔の話をしましょう。おぼっちゃんが生まれる、ずっと前の話です。あなたのお父様のアラン様が、ぼっちゃんと同じ年だった時の話です」
ルーカスは巨木のような声で切り出した。
「プリーシア家の人間はみな、強力なスキルを得ることで有名でした。今は亡きダグラス様、ぼっちゃんのお爺様をはじめとして、皆様がスキルを持っていたのです。これは物凄いことなのですよ」
遠い目。
ルーカスはダグラス・プリーシアのことを思い出していた。
この国一の猛将として恐れられた男のことを。
「しかし、アラン様。アラン様には、スキルがありませんでした。彼一人だけ、スキルを授かれなかったのです」
それは、どんな気持ちだっただろうか。
ローガンほどではないにしろ、五歳と言ったらもう十分人としての知性が存在している。
はっきりと理解できたはずだろう。
自分だけ。
自分だけが劣っている。
自分だけその力がない。
辛かった、だろうな。
ローガンは想像した。
その気持ちは容易に思い浮かべることができた。
自分と一緒だからだ。
「それで、父さまはどうしたの?」
「アラン様は……、教会から家に帰ると気を失ってしまい、半月ほど寝込んでしまいました」
碌に食事もできず幾度となく死の淵を彷徨ったのです、とルーカスは続けた。
「危ない容態になる度に、それはもうダグラス様が大慌てなさって。戦場では敵なしと恐れられる猛将が、寝込む息子の前でおろおろと何もできずにいる」
あの時は本当に大変だったのですよ、とお茶目に笑う彼の瞳は、ここじゃないどこかを映していた。
きっと彼は今、昔に戻っているのだろう。
段々と、声に張りと若々しさが戻ってきている。
「そんな子供が、今では立派に宮廷魔法使いを務められています。並大抵の努力ではありませんでした。寝る時も食事をとる時も、用を足しているときでさえ、アラン様は魔法の練習を続けました。そして遂には、ダグラス様を魔法で打ち負かすようにすらなったのです」
ダグラスは、その時やっと安心したようだ。
あの時寝込んでいた子供が、努力を重ねてスキルを持つ自分をも上回ったと。
それは贖罪にも、懺悔にも似ているかもしれない。
許されたと感じたのだという。
「ローガン様。おぼっちゃん。あなたは、幸運なんですよ」
「…………」
「羨ましい限りです。どんな怪我をしてもたちどころに癒えてしまう。その力があれば、このじじいの膝も治りましたかな」
ほっほっほと笑い、冗談じみた声で自分の膝をさするルーカス。
それを見て、はたと気づいてしまう。
「でも、そうだよ。僕のこの力は、自分しか治せない。じいの膝を治すこともできないんだよ……?」
自分自身しか癒せない力。
それにどんな意味があるのだろうか。
しかしルーカスは、このローガンの言葉を聞いて満面の笑みを浮かべた。
「おお! これはなんとも嬉しい! おぼっちゃんは、この老いぼれの心配をしてくださるのですか。いやはや、その気持ちだけでこの膝、痛くなくなりましたぞ」
おどけたようにそう言ったルーカスは、いつもついていた片手杖を手放した。
ポンポン、と膝を叩いて調子を確かめる。
そして、勢いをつけて芝生の上を駆けだした。
「じい、なにを……!?」
「ほっ! はっ! よっと! この通り! この通りですぞ! おぼっちゃんのお優しき心遣いのおかげで、膝の痛みも治りました!」
昨日ローガンが走った芝生の上をなぞるように、ルーカスは走った。
お世辞にも速いとは言えない。
だが、愛があった。
溢れんばかりの愛が詰まっていた。
痛みなんて癒えたはずがない。
なのに。
なのに。
「じい……、じいじ……」
ローガンの心に様々な光景が思い浮かぶ。
じいじ、じいじと呼んで慕っていた祖父の姿。
最後に見た祖父は、どんな姿だっただろうか。
どうして自分は、祖父を一人置いて東京に出てきたしまったのだろう。
――どうして自分は、死んでしまったのだろう。
廃れかかっていた道場を営んでいた祖父。
厳しくて、力強くて、愛してくれた。
いつでも帰ってきていいからと、笑って送り出してくれた。
祖父の教えてくれた護身術は、死に際の青年の身を一度、護ってくれた。
――どうして自分は死んでしまったのだろう。
どうして。
どうして。
どうして。
ローガンの目から、とめどなく涙があふれた。
――どうして自分は、最後まで生きなかったのだろう。
あれだけ愛してくれた祖父を置いて、どうして先立ってしまったのだろう。
後悔が、胸の奥から湧いてきた。
とめどなく涙が溢れてきた。
「ごべん、ごべんね。お゛れ゛、おれさ、ぢゃんど生ぎるから! 今度はぢゃんと、最後まで生ぎるがら……!」
嗚咽交じりにひねり出された声は、全て日本語だった。
ここにいるのは、ローガンではなかった。
青年は、泣きじゃくっていた。
死んでごめん、と。
生きれなくてごめん、と。
一人で先に逝ってごめん、と。
後悔から、泣いていた。
「じい゛じ! じい゛じ! お゛れ゛、だいずきだっだよ。じいじのおかげで、おれ、一度助かったんだ。じいじ、あ゛り゛がど! ありがと……!」
青年は、子供のように泣きじゃくっていた。
年相応に、泣きじゃくっていた。
その涙は決意から。
その嗚咽は感謝から。
青年は――ローガンは、愛に泣いていた。
泣きじゃくるローガンを、ルーカスはそっと抱きしめる。
それをローガンは力強く抱き返し、一層強く泣きじゃくった。
「ありがとう! あ゛りがどう! じいじ、ありがとう……!」
ルーカスは慈しむような目でローガンの頭を撫でた。
「ローガン様。ローガン様。あなたは、強い子です。あなたは、アラン様の、そしてミーシャ様の、大事な大事な最高の息子です。あなたは神様にも、そして周りの誰にも愛されてるんですよ。このじいもローガン様に仕えられて幸せです」
さ、もうお泣き止みくださいと、ルーカスはローガンに囁いた。
その声は、柔らかい愛に満ちていた。
ーーーーー
泣き疲れたのか抱き着いたまま眠ってしまったローガンを、ルーカスは背におぶさろうとした。
するとずっと聞いていたのだろうか、物陰からアランが飛び出してきた。
「ありがとう……。本当にありがとう。もう、なんてお礼を言えばいいか……」
アランは、ローガンにどう話しかけたらいいのか、全くわからなかった。
怖かったのだ。
もっと傷つけてしまうんじゃないかという不安も。
聡明な息子に、父親失格な自分を見抜かれることも。
だから、ローガンとルーカスに声をかけることができなかった。
ずっと物陰で見ていることしかできなかった。
そんなアランにルーカスは、明朗な笑いを送る。
「はっはっはっ、礼には及びませんよ。わたくしは、このプリーシア家に仕える使用人として当然のことをしたまでです」
「ありがとう……。ありがとう……。じいやのおかげだよ。僕は、本当にダメな父親だ」
「やはり、皆さんよく似ていらっしゃる。ダグラス様も、幾度となくそうぼやいていらっしゃいましたよ」
遠い目で昔を見つめるルーカス。
「え、親父が? 知らなかった……」
「男親というのは、中々に不器用なものですからな」
いつも豪放磊落だったダグラス。
彼も父親として悩んでいたのかと思うと、アランは少し肩の荷が下りたような気がした。
完璧に思えていた父の意外な情けない所を聞きながら、二人は笑いながら屋敷に戻る。
アランも、その背で寝ているローガンも、つきものが落ちたような顔つきをしていた。
ーーーーー
目が覚めると――いや、気が付いた時にはと言うべきか。
ローガンは見知らぬ場所に横になっていた。
(あれから、どうしたんだっけ……)
頭の下には温かくて柔らかい感触。
どこか安心するような、とても落ち着く感触。
母の膝枕だった。
未知らぬ場所ではない。
そこは既に、ローガンの知っている場所だった。
ローガンの、居場所だった。
段々と意識がはっきりとしてくると、周りの会話が聞こえてくる。
「もうルーカス。あなた無理をし過ぎよ」
「ほっほっほっ。ローガン様を見ると、色々考えさせられましてな……。私にも孫がいたら、こんな気分だったのだろうか、と。はは、こんなことを言ってはダグラス様に怒られてしまいますな」
「そんなことないさ。親父だったら、よぉくやったぞぉルーカスぅ! って、君の肩をバンバン叩いただろうさ」
ミーシャにルーカス、それにアランもいる。
野太い声で声真似をしたアランに、みんな笑っていた。
みんな、幸せそうに笑っていた。
「でも本当にありがとう。ルーカスのおかげだわ。ほら、ローグったらこんなに柔らかい顔して眠ってる。私、少し嬉しいわ。ローグったら本当に手がかからなくて、寂しかったんだもん。もっとこうして甘えてくれるといいのに」
「まあ小さい頃の暴れようったらなかったけどな。俺が抱っこしようとしたら、物凄い力で肩によじ登ろうとするんだから」
「私も、おっぱいあげようとするたびによじ登ってきて」
「それが今では逆立ちで階段を登るのですからな。いやはや全く、子供っていうのはわからないものですな。私もあんなことができる子供を見るのは初めてです」
ローガンの家族の声だ。
今の家族。
両親におじいちゃん、それに妹までいる、今の家族。
幸せな家族。
また、ミーシャの声がする。
「それよりルーカス、ほら。膝見せてみて」
「いえいえ、これしき大丈夫ですよ」
「そんなこと言って、さっきすごく引きずってたじゃない。これはお礼なの。受け取ってくれる?」
そういうと、ミーシャはなにやら祈りを唱え始めた。
ローガンの瞼の裏にも、淡い光が映し出される。
数秒して、その光が収まるとルーカスは言った。
「ああ、痛みが少し引きました。やはり奥様の回復魔法は素晴らしいですな。ありがとうございます」
「いいのよ、お礼なんだから」
「本当にありがとう、ルーカス。ルーカスのおかげだよ、本当に」
と。
ふぇぇぇぇんという可愛らしい泣き声が聞こえた。
そういえばソフィアは体調を崩していたのだった。
ローガンに膝枕をしているミーシャの代わりにソフィアをあやしに行ったアランとルーカスをうすぼんやりと眺め、ローガンは思った。
温かい。
これが両親の温かさなんだ、と。
これが家族の温かさなんだ、と。
この日から、ローガンは本当の意味でローガンとなった。
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