第9話 清流に見る
歩いてみると、やはり夜の森というのは静かだ。
前を歩くウルクが木の枝やら枯れ葉やらを踏むパキパキという音。
それに、ちょっとの虫の声。
自分が動いているからなのか、寝ている時よりも数倍は静かに聞こえる。
まるで、森も眠りについているようだ、とローガンは思った。
意味もないのに息をひそめ、そしてローガンは何故か無性に用を足したくなった。
と、その静寂の中に、サラサラという音が混じったような気がした。
ウルクが言う。
「もうすぐ、だな」
その言葉通り、少し歩くと森が開け、川が見えてきた。
水深は膝丈くらいだろうか。
底に沈む石が見えるほどその水は澄んでおり、岸辺の石にこびりついた苔の光るような緑色と相まって、それは幻想的な空気を醸し出していた。
多分夏になったら蛍が飛んでもっと綺麗になるだろう、とローガンは前世の家のすぐ裏を流れていた川のことを思い出しながら思った。
窓を開けて居ようものならすぐに家の中に入ってきてしまい、翌朝部屋の隅で動かなくなっていた蛍。
あれを最後に見たのはどれだけ前だっただろうか。
「きれい、だな……」
「ああ、そうだね……」
エリスの思わずといった風に口から零れ落ちたその言葉を、ローガンはそっとすくいあげる。
ウルクもこの光景を見て、ほぅ、とため息をもらした。
「こりゃあ、いい川だなァ。……身体洗ったりするのは、もうちょい下流でするか」
ウルクもどうやらこの光景にケチをつけたくなかったらしい。
まあ水は飲んでいいだろうけどな、と続けたウルクの言葉に従い、二人は川をのぞき込んだ。
灰色をした沢蟹のようなものが石の真似事をしながら眠っているのを邪魔しないように、二人はそっとその川に手を入れようとする。
と、ローガンは自分の手が魔犬の体液でデロデロに汚れていることに気付いた。
血やら唾液やら脳漿やらがこびりついた手は夜の暗闇も相まって、月明かりに照らしてもなんだかよくわからないような色をしている。
(どうしよう……)
手を洗っていいものか。
ちらりとエリスを見、そして彼の方が下流にいると気づいてしまったローガン。
少し逡巡した後、仕方なくローガンは顔ごと川に突っ込んだ。
冷たい。
水草が顔をくすぐり、穏やかな川の流れが頬を優しく撫でる。
コクリ、と控えめに一口含むと、それは驚くほど甘く感じられた。
「プハァッ」
息継ぎに顔を水から離す。
戦いの後のローガンの喉はどうやらかなりの水を欲していたらしく、彼はすぐにまた川に顔を埋めた。
そのままエリスとローガンは満足するまで水を飲み続けた。
ーーーーー
2人と交代してウルクも水を飲み終え、そして体を洗うため少し下流へ向かって歩いている時の事。
水も飲んで頭が冷えたローガンは、さっきの戦闘のことを段々と思いだしていた。
特に、最後のこと。
(僕は、ウルクを攻撃しちゃってた、んだよね……)
頭に血が上っていて仕方がなかったとはいえ、その事実にローガンは猛烈な後悔のようなものに襲われ、チラチラとウルクの方を申し訳なさそうに見た。
相手がウルクだったからまだ良かったものの、もしその矛先がエリスに向いていたら、とローガンはぞっとした。
この手についている汚れが、魔犬のものだけではなかったかもしれない、と。
すると。
「ん? どうしたァ?」
それに気づいたのか、ウルクがローガンの方を振り向き、そしてああ、と納得したような顔をした。
歩みを止め、ローガンの横に並んだウルクは、努めて明るい声を出す。
「気にすんなってローグ。戦場じゃあよくあることだぜェ? 戦い酔いしちまったやつが暴れるなんざァな。よくあることさ」
よくあること、なのだろうか。
今までの2年間で幾度か行った訓練とは違い、自分は正気を失くしてウルクを攻撃してた。
それこそ、本気で殺すつもりだった。
「でも……、僕、ウルクのことを攻撃しちゃって……」
戦う時には仲間に迷惑はかけるな、とはこの2年間で何度か言われたことだった。
今回のことは、迷惑以外の何物でもない。
そう情けない声を上げるローガンに対して、ウルクは鼻で笑って返した。
「あァ? 攻撃だァ? おいおい、あれひょっとして攻撃のつもりだったのかよォ! 戦いが終わったハイタッチかと思ったぜ。弱すぎて、な!」
ローガンの背中を強くバンバンと叩くウルク。
「大ッ体なんだよその辛気臭ェ面はよォ。笑えってんだ。笑ってねェやつがいるんだったら、そりゃあ勝利じゃなくなっちまうじゃねェかよ」
最後に一つ、特大の力でウルクはローガンの背を叩いた。
それに無理やり背筋を伸ばされたローガンは、うん、と口の中で小さな音をはじくと、ウルクの顔を見上げて明るい顔を作った。
「そう、あれはハイタッチだったんだよ! 良かったよ攻撃だって勘違いされなくて」
「フンッ。俺に攻撃なんざ、10年早ェよ。せめて今の10倍は強くなれってんだ」
明るい顔を作り、そして戯けたように喋ってみると、なんだか心が軽くなったような気がした。
そんなローガンの様子を見て、ウルクはニィ、と口を歪ませる。
と、2人の会話に混ざろうと流れを伺っていたエリスがここぞとばかりに軽口をたたいてきた。
「ま、俺だったら父さんのことボコボコにできるけどな!」
「あァ? 調子に乗んなよエリス! お前なんて、ローグよりも弱ェじゃねえか! 大体なんだよ今日の腰が引けた戦いっぷりは。何回俺が助けたと思ってる?」
「きょ、今日はたまたま調子が乗らなかっただけだ! 俺が本気出したら一瞬で全滅させちまうからな! ローグのためにもならないだろうと思って今日は手加減しといたんだよ!」
「じゃあエリス、今度僕と戦ってみる?」
「い、いや、それはいいかな……。だってほら! 俺お前をボコボコにしちまうからな!」
エリスをからかうローガンと、そのからかいに端正な顔を歪ませるエリス。
そして、そんな息子と弟子の会話を面白そうに見守るウルク。
3人で和やかに会話しながら、川沿いに歩いていく。
その頃にはエリスとローガンのちょっとしたわだかまりも、溶けてなくなっていた。
ーーーーー
「止まれ」
いつになく鋭い目をしたウルクの声に、ローガンとエリスは歩を止める。
「静かに。何か来る」
そういって二人を下がらせると、ウルクは魔犬と戦った時にも抜かなかった背中の大剣を抜き放ち、川の方に向けた。
重厚で、丸太なんかも一刀両断できそうなほど巨大な剣。
それをウルクが抜いたという事実は二人に状況の危険度を示すにはあまりにも十分で、二人とも黙ってウルクの後ろに隠れた。
次の瞬間、川の水面がポコポコと不自然に泡立ち始める。
そして――――
――――水面が盛り上がり、いくつもの山を作った。
それを見てローガンとエリスはウルクの背で縮こまり、そしてウルクは丸い目をしてぽつんと呟いた。
「すげェや……。《渡り》だ……」
「《渡り》……?」
ウルクの言葉に、ローガンが問い返す。
しかしウルクとエリスはなぜか水面の上にばかり意識が向いているようで、ローガンのその問いは地面に転がり落ちた。
「すげえ……。水精霊、なのか……?」
「あァ。珍しいこともあるもんだ。俺も10年以上昔に一度見たっきりだなァ……」
「水精霊……?」
ウルクとエリスの会話に、ローガンだけ置いてけぼりである。
と、その様子にやっと気付いたウルクがローガンに説明した。
「《渡り》ってェのは、簡単に言ったら今みたいに精霊が姿を現すことだな。ほら、精霊が見えるだろ?」
「……どれのこと?」
「どれって、水の上にいるだろ?」
「……見えない、けど……」
ローガンがいくら目を凝らしても、そこにあるのは不自然な形をした水面だけである。
見えない。
そう答えたローガンに、ウルクは小さく呟く。
「もしかして……。いや、わかんねェな……」
そして数秒首を傾げた後、確証はないが、とウルクは切り出した。
「もしかしたら、魔法適正がないから、かもしれねえ。俺たちとお前の違いって言ったら、それくらいしか考えられねェが……。いや、わかんねえけどな。そもそも《渡り》なんて中々見る光景じゃねえし……」
「そう、なんだ……」
魔法適正。
また魔法適正なのだろうか。
いい加減一々気にしないようにしていたものの、そのせいで見えるものも見えないとあっては、複雑な思いにもなる。
ローガンはもう一度よく目を凝らして水面を見てみた。
やはりそこにあるのは、不自然に隆起した川だけだ。
明らかに物理的におかしい川には、なんらかの魔法の力が働いてるということはわかる。
だが、そこに精霊がいるなんていうことは信じられなかった。
と、エリスが声を上げる。
「なあ、なんかあいつらなんかこっちを見てない……?」
「……そうだなァ」
「そう、なの?」
「あァ、こりゃあちょっと面倒かもなァ。精霊っつーのは悪戯好きって相場が決まってやがる。なんかされない内に――――」
ここを離れるか、とウルクが続けようとした時だった。
川面から水渦が3つ浮かび上がり、そしてそのまま3人を飲み込んだ。
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