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真空管

作者: 七星哲

            

 真空管 

 

  


 暗闇を遊覧していると、指先から広がるのは、すべすべとした女の柔肌とそれが覆う肉体であり、彼はなつかしくてその形を両腕でかき抱くと、暖かさと艶かしさに身震いし、その肌に指を滑らせてある一点に触れると、確かに熱く湿っている。閉じた視界のなか、急いで女の乳房のありかを指と唇で探るのだが、平らな冷たい板を触れているようで目的とするところに至るようで至らない。早く探して久々に欲望をはじけさせたいと思うのだが、次第に焦りが出て、何故なんだ、と苛立ったところで目が覚め、タオルケットの中のエリカのぬくもりを感じた。 

 雨戸を閉め切った畳六畳の寝室はそれこそ真っ暗でベッド脇の小机に置いた目覚まし時計をみると蛍光を放つ時計の長針と短針のなす角度から五時を少し回っていることがわかる。梅雨が明けきらない七月の月曜日、それも早朝に起きなければならないことの意義を見出せないでいる小倉健次郎は、辛い勤務の日々が始まる週明けくらいゆっくり寝て、心身を休めておきたいと思うのだが、一度目が覚めると、二度寝ができなくなっていることを知ったのはいつだったか。すっきり感のない生煮えの頭を抱えて不快な一日を過ごすことを思うだけで気が滅入りはじめている彼は、とりあえず便所に行き、たよりないイチモツを握って用を足そうと息む。和式便器の片隅に引っかかったよれた一筋の陰毛を目にしながら、若い頃であれば充血した海綿体が尿道を圧迫して小水の流出を遮ろうとするのだが、今のそれにはそんな勢いはなく、ただ排尿に時間がかかるだけだ。前立腺肥大、前立腺がん、脳裏を去来する単語がおぞましく、息んで血圧が高くなることがさらに怖い。

 便所から戻り、目を閉じ横になっていたのだが、眠りの精に見放されたようで悪態をつくわけにもいかず、意を決し起きることにすると、タオルケットに潜っていたエリカも起き出してきた。


 エリカとの出会いは三年前、健次郎が保健所の総務課に勤務していたときに遡る。

「ど、ど、ど、どうしてこういうこと、すっ

す、るんだ」

 ある日、出勤すると玄関先で軽度吃音者である衛生課のコニタンが段ボール箱を抱えながら顔を真っ赤にして怒っているのだった。コニタンこと小西環境衛生員には、野良犬の捕獲や、飼えなくなったペットの引き取り、近隣のペットが噛み付いたの、うるさいなどの苦情処理に至るまで、ややこしい仕事が多様にある。その日の朝、産まれたばかりのミニチュアダックスフンドが二匹、ダンボール箱に収められて、保健所の駐輪場に捨てられていたことが彼の怒りの発端だった。獣医師のコニタンは、動物が好きで好きで、その道を専攻したのだから、ペットの引き取りを申し出る飼い主を許せない。なら、何故、コニタンは犬猫病院や動物園に勤めなかったのだと訝るのだが、健次郎自身公務員になりたくてなったわけではないので、人生は説明がつくことばかりではない、と思うことにしている。その数日前、近所の組員が、オオカミとみまがうほどのシベリアンハスキーを「引き取ってくれ」、とやってきたことがある。男はまばらになりつつある髪にパンチパーマをかけ、鼻下にちょび髭を蓄え、ほほ骨が少し突出して眼球がやや陥凹気味で、左手小指の第一関節から先が欠損していた。ややこしそうな来客があると、トラブルの未然防止のため総務課長が立ち会う仕切りになっている。

「な、なんでですの?こ、この犬は、見かけはごついけど、従順でっしゃろ。こっこんな友好的な犬種、どこ探してもお、おまへんで」

 コニタンは相手かまわず突っかかる癖があるので、健次郎はヒヤヒヤする。

「そうや。花子はほんま可愛いいし、頭もええ、わしらのアイドルやねんで。しかしな、暴対法できてからわしらんとこ見たいな弱小企業は、シノギが厳しなってな、無理したら社長、避暑に行かされて、解散せなあかんようになってしもうた。辛いんやで、ほんまに辛いんや……」

 窪んだ眼孔に涙をたたえながら訴える男に、さすがにコニタンもきついことが言えなくなっていると、「だから、兄さんこの子の嫁ぎ先、探してやっておくんなはれ」の一言で、花子を保健所裏手の動物舎に連れて行くことになってしまった。建物の老朽化のため、空調が十分に効かない執務室で、のぼせたり凍えたりしながら仕事をする職員を尻目に、動物愛護団体の要求に応えた冷暖房完備の動物舎でトップブリーダー推奨のドッグフードとエビアンで花子は世話されることになったのだが、そこに彼女が居ることができるのは県が設置した動物センターに移送されるまでのせいぜい二、三日のことで、飼い主が見つからなければどうなるのかということについて、健次郎は考えないことにしている。体格が厳ついばかりでなく、見るからに怖そうな面相をし、餌代だけでも家計を圧迫するに違いない犬を引き取りたがる飼い主がいるだろうかと、思っているうちに、ついに移送期限が来てしまった。今、遺棄され、自力で生きることのできない二匹の子犬を目の前にすると、コニタン同様、無責任な飼い主への怒りが彼にも湧いてきて、自分にも育てることができるのではないか、とふと思い、「飼ってみようかな」と口走っていた。

 怒りと罵り言葉を吃音まじりにはき続けていたコニタンが、今、なに言うた、という顔つきになり、彼に視線を向けたかと思うと、相好を崩し、「オー」と雄叫びをあげながら、子犬の入った団ボール箱を彼に差し出してきた。

「ちょ、ちょっと待って、二匹は無理や、なんぼなんでも」

「そ、そんなら、も、もう一匹は、ど、どないなるねん」

 相好を崩していたはずコニタンの顔が険しくなり、「ど、どないなるねん、言われても……」と、飼おうと申し出てかえって責められはじめて言葉に窮していると、「私も、飼ってみようかな」と救いの手を差し伸べてくれたのが、いつの間にかその場にいた倉橋恵梨香(えりか)だった。 

「あっ、あっ、あり難や」と瞬時に再び相好を崩したコニタンが、「そいで、オ、オスとメスなんやけど、どっちがええ」と彼女にダンボール箱の内側で縮こまっている子犬を選ばさせようとすると、ちょっとのためらいの後、「オス」といった彼女の大きな目の下の色白の頬に、そっと淡い紅色が浮かんだことを健次郎は見逃さなかった。 

「そ、そやな、やっぱりオスやな」  

 コニタンは、片方の子犬をそれこそ壊れ物を扱うように掬い上げ、陰部を確かめると、彼女に抱かせようと差し出した。子犬は、薄いブルーのジャケットとタイトスカートの保健師のユニホームを身にまとった彼女のいささか膨らんだ胸に、優しく抱きかかえられ、収まった。

 その年の四月に役所に保健師として採用されたばかり、年の頃二十二、三の彼女に、部下といえども近づきがたいものを感じるのは、薄くなる髪の毛と相反するように濃くなる耳毛、増える顔の皺にシミ、朽ちて黄色くなる歯並びに加え、きっと同年齢の男達が発する加齢臭を自分も漂わせているに違いないと思うからである。自分をヒトと呼んでもいいのなら、さらにさらに美しくなるはずの潤いのあるはち切れんばかりの柔肌に包まれた彼女は、観音菩薩と呼ばれねばなるまい。指一本そのやわ肌を男に触れさせたことが無い筈と彼は信じている。

 子犬を貰って帰った日、彼はその幼い生き物にこっそりエリカと名付けて可愛がりはじめた。エリカが恵梨香嬢に貰われていった子犬と血のつながりがあることで、彼女と近しくなれるように思えて、健次郎はいささか浮ついた気分になった。それどころか、時折恵梨香嬢に「課長、わんちゃんお元気ですか」などと廊下ですれ違い様に声をかけられると、そこはかとなく嬉しくなり、若い女に気にとめられることなどもう無いと思い込んでいた彼には、それが望外の喜びに思えるのだった。保健所は地域住民の健康と衛生を守る要で、彼が所属した総務課は、文字通り総務全般を司る。ところが誰それが裏金を作っているとか、衛生課の妻子ある中年男がスナックのママさんと不倫していて、衛生監視に手を抜いているだとかの随時のたれ込みなどで顕在化する予想外のトラブル処理も彼の主要な業務なので、時間ばかりが費やされ、一向に達成感を得ることのできない仕事に疲弊していた。だから、恵梨香嬢とのささやかなやり取りは、一服どころか二服、三服の清涼剤なのだったが、それもその年度の終わりに健次郎が県庁の福祉部に転勤するまでのつかのまのことであった。


 エリカを抱き上げると、恵梨香嬢のことを思い出していた。エリカは三歳、ヒトの年にすれば二八歳、年頃だ。恵梨香嬢はきっとより艶やかに美しくなっているに違いない。衛生部所管の専門職職員には、部が違ってしまうと仕事で会うこともない。そろそろ彼氏ができたのではないか、ひょっとして結婚したのではないか、などと考え始めて、こみあがる感情、いわば嫉妬心に苛まれはじめ、彼は思考を停止した。とにかくエリカを散歩させようと銀色に光るステンレスの餌皿にドッグフードを入れ、エリカにそれを食べさせている間に、彼は綿の半ズボンと黄色いT シャツに着替えた。そしてエリカを抱えて玄関に行くと靴箱から防虫スプレーを取り出して、むき出しの腕と足と首筋に丹念に噴射した。年のせいか弱った皮膚が、蚊に刺されるとミミズ腫れになり、後日漏出液でぐじゅぐじゅになるので防虫スプレーが欠かせない。それから彼はエリカの首輪にリードをつけ、うんち袋の入った小さな手提げを手にし、サンダルを履いて表に出た。陽はまだ出ていないが空が白く抜け始めていて、朝の空気がひんやりと素肌に気持ちいい。すぐ近くに大都市を控えた中流家庭の一戸建や○○マンションと銘打った文化住宅が多くを占める住宅地の中に、彼の家はあり、かつて村だったその一帯には今は家庭菜園にでも使われているのか小さな畑がところどころに残っている。家並みを分断するようにあるアスファルトの道を胴長短足のエリカの歩みに合わせて歩く。目指すのは、五分ほど歩いたところにある八幡神社で道の両端に等間隔で並ぶ電柱を伝う電線が、鎮守の杜に覆われた神社に向かって、収束していく。そして、杜の遙か向こうの空に、霞んで見える山のところどころが角張った稜線が横切るようにしてある。子どもの頃、本州の端から端まで尾根伝いに歩けば渡ることができると聞いた覚えがあり、狭い街と職場の往復で時間を費やしている彼は、その稜線にそこはかとないロマンを感じるのである。平安時代に建立されたとされる神社は遠くから参りに来る人々を迎え入れようと、敷石の参道が遙か遠くまで続いていたらしいが、今は境内の入口の石鳥居の外で途絶えている。花崗岩の石鳥居は長年の風雪に曝され、削れて黒ずみ、注連縄(しめなわ)(ぬき)の上の両柱から渡され、弛んでいる所々に紙垂(しで)が風になびいてしなやかに舞っている。鳥居を貫く参道の両脇にはいつの頃か、奉納された竿に村内安全と掘られた石灯籠が間隔をあけて並び、神社の境内を覆うように高く幅広に育ったアカマツやクスノキ、シイなどに茂った葉が、あたりを覆い、その深い静謐に隙間をつくるように、鳥のさえずりが木々の間にしばしば響く。参道脇には無造作に背の丈の低い草木が生えていて、季節に応じた花が咲いていることがあり、今は、紫陽花の紫が濃い緑の中に映えている。社にたどり着くまで、さらに一つ石鳥居を潜ると左右に一対の狛犬が構えている先に小川を模した池を渡す小さな石橋がある。そこを超えると、いよいよ神聖な場所に入る。右手の手水舍を過ぎて社務所に行くと、日露戦争に出征した兵隊の名前が記された板札が、奉納されて屋根下の壁に掲げられ、その横に、まだ、幼さの残る軍服の男の古びた何葉かの写真が朽ちた木の額の中に並んでいる。また、境内の一角には、日清、日露、太平洋戦争に従軍し亡くなった五百人を超える人々を祀った慰霊碑がある。かつて村人達は可畏(かしこ)きものの住むその神社に日々の生活が安逸に営めるよう、魂が荒ぶれば鎮まるよう、何の疑いもなく祈りをささげていたにちがいない。だから彼も毎日のように神社を訪れ、祈る。 

 だがその日、いつものようにエリカを伴って鳥居の外に立ち、おもむろに社に向かおうとしたとき、橋を超えた少し向こうに、地に視線を注ぎながら、こちらに小走りに駆け寄ってきて、くるりと身体を右回りに回転させ。再び社に向かって去って行く小柄な裸足の女が、何かを思い詰めた形相でその動作を繰り返していた。お百度か——。しかも、しばらく会うことはなかったとはいえ、その女が妻の紗代子であることは遠目にもすぐにわかった。映画などでは見たこともあるが、実際に目にしたことのないお百度を随分小さくなって、背が丸まってしまった妻が踏んでいる。彼は見てはならないものを見てしまった気がして、その日、神社に詣でるのをやめ、踵を返して家に戻った。


 頭の芯にこびりついていたはずの鉛のような重苦しい寝不足の残滓は、つい今しがたの光景に煽られすっかり潰えた。一挙に頭に血が巡りはじめ、不安感を交えた激しい動悸を覚えた彼は、玄関から居間に連なる廊下を歩いた。居間に入る前に右に折れながら二階に向かう階段がある。見上げても壁が見えるだけで、何年か前、彼はこの階段を下りてきてそれきりになった。雨戸が閉まった暗い六畳の居間にエリカと入り、外装を外したままのマッキントッシュの真空管式プリアンプとメインアンプのスイッチを入れると、真空管のフィラメントが橙色の光を放ち始め、あたりをほんのりと明るく照らし始めた。それから、レコードラックからどれでも良いからと手にしたのは、中古のレコード屋で手に入れたサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」のLPだった。それは、彼が英語の歌詞の意味を知っている、数少ない洋曲で、高校生の頃にはやっていて、たまたま短波放送で聴いていた「百万人の英語」で歌詞の解説をしていたのを耳にし、引き入られるようにして聞くようになった曲だ。きっと大学に行けるくらいの学力があったら、ボブディランに傾倒していたのだろうと彼はコンプレックスを抱いている。少し背伸びをしたくて、なんどかボブディランに挑戦したのだが、詩もメロディーも彼の理解力を遙かに超えていて、ディランのだみ声になじむことはついになかった。その頃、流行っていた映画がゴッドファーザーで、残虐なシーンに目が取られ、凄まじい殺戮の繰り返しの中に浮かびあがる家族愛の物語を読み取ることはできなかったのだが、年をとるにつれ、苦み走ったアルパチーノの憂いを秘めた目つきを見ると、もの狂おしい気分になるようになった。

 トーンアームを右手指で支えると、レコードの載ったターンテーブルが回転を始め、盤の端に針をそっとおろすと、タンノイの大きなスピーカーから何かが爆ぜるような雑音がかすかに聞こえ、なじみのピアノのイントロのあとに、アートガーファンクルのクリスタルな高音が囁くように流れはじめた。彼はエリカを抱きソファに身体を沈め、その体温を腹部に心地よく感じながら、真空管の淡い明かりを網膜に感じていると、いつしか気持ちが和み始めた。真空管式のメインアンプから増幅される音に迫力はないが、それこそ心に染み込むような優しい音色を醸し出す古びたステレオセットが健次郎は愛しくてたまらない。難点は、真空管のフィラメントが時に切れることと、半導体にとって変わられた過去の遺物は、人気のあるものは高価なうえに品薄なところだ。ところが、真空管の交換が面倒で外装をはずしたままにしておいたところ、真空管の放つ光の響宴に魅了され、彼には思わぬ福音になったのである。

 そもそもそのステレオは義父のもので、デジタルのものを好まなかった老人は、フルトベングラーやカラヤンをいつまでもLPレコードで聞いていた。老人が亡くなったのはいつだったろうか、と思い起こそうとすると、階段を降りて来た日のことに連なった——。

 

 ¬¬あの日の朝、年休をとって県立病院の精神科外来に紗代子と行ったのは、中学生だった一人娘の繭美が、突然、学校に行かなくなって半年を経た頃だった。何故、娘が学校に行かなくなったのか、彼には未だに理由がわからない。妻は学校や教育センターをはじめあちこちに相談に行っていたようだが、学校でいじめがあったというならそれなりの対応もあったのだろうが、これといった原因も見当たらず、解決策は誰も持ち合わせていなかった。そしてどこかでひきこもりには精神疾患が隠れていることある、ということを聞き、本人が行けないなら母親だけでも、というアドバイスを受け、彼女は児童思春期の専門医がいる精神科に足を運ぶようになった。そして、何度かの診察があって、父親にも来てほしいと言われてその日に至ったのである。

 昭和四〇年代に建設された古びた病院は、立て替え計画があるのだが、財政状態の悪い県では、実施に至らないことを、県職員である彼はよく知っている。なにしろ、知り合いの職員が何人か、病院の総務課で勤務しているので、彼は会うのではないかと、二階の片隅に追いやられるようにしてある精神科の待合室に、居心地の悪さを覚えながら座っていた。診察は五診制で行われていて、待合室の壁面の上端に診察の受付番号が表示されるディスプレーがあり、彼はそれをしばしば垣間見ては、ため息をついた。ポーンと予備出し音が流れて、番号が呼ばれるとベンチシートに座っている誰かが立ち上がって診察室に入っていく。健次郎夫婦はその待ち合いで何も語ること無く座り、時折、彼は不安げに傍らの妻に目をやるのだったが、視線が交わることがなくなって、何年も経つこと、必要以上の会話が無いことに改めて気づくのであった。精彩のない顔つきだったり、独り言をぶつぶつ言っていたり、座席に沈み込むように座っている人がいたり、他の科とはやや雰囲気の異なる大勢の患者らしき人々の中に親子連れが何組かいた。座って待つことができないのか、廊下を行ったり来たりする中学生くらいの男の子や静かに本を読んでいる小学生の女の子、お絵描きを母親としている小さな女の子がいた。彼から見れば、どの子もごく普通に見え、こんなに早く精神科に通わなくてはならないことが不憫に思えるのだが、六畳の部屋に閉じこもったまま姿を見せようともしない我が子は、この空気に触れることもできないのだ、と思うと、胸苦しくなった。小一時間ほど待ってようやく呼び込まれた診察室では、白衣を着た中年の女が、机上のディスプレーを眼鏡越しに見ながらブラインドタッチでキーボードを打っていた。ナースがスチール椅子を一脚、診察椅子の横に並べて、彼等に座るよう促した時、彼は妻からの目配せを受け、診察椅子にしぶしぶ座ることになった。ディスプレーに向けていた女の視線が健次郎に移り、そのまなじりが僅かに緩やかになった。

「はじめまして、奥様からはお話を伺っておりますが、今日はお父様からお話を伺いたくて来ていただきました。お父様はこれまでどのようにお嬢様と接してこられましたのでしょうか?」

 漠然とした医師の問いにどう答えたらいいのか、一瞬戸惑いを感じるのだが、

「仕事が忙しかったものですから、子育ては妻と義理の父母に任せていましたので……。日曜日なんかは家族でハイキングに行ったりして、娘が大きくなりますと受験勉強が忙しくて、なかなか相手になってあげるというか相手にされることも少なくなりまして……」

 とぽつりぽつりと語った。

 しかし、「それから?」、「お父さんとしては?」、「何をしようとしましたか?」、「どのようにお考えですか?」などと、どこからか殴りかかってくるような矢継ぎ早の質問に彼はとまどい、答えあぐねた。彼にとって繭美はかけがえのない宝だった。しかし、娘が幼い頃からの妻と娘の密着した関係にどことなく入りにくく、距離を置かざるを得なかったことは否めない。繭美が物心つき始めると、妻は娘のお稽古ごとに異常な情熱を傾けるようになった。水泳、バレ―、ピアノ等々、お嬢さまに似つかわしいと世間が称する習い事全てをさせたいのか、毎日のように娘を習い事に連れまわし、上達しないと娘をののしるか、教え方が悪いと先生の悪口を言って次々に教室を変えるのだった。泣きながらも母親に抗うことのない娘が不憫でならず「子供は、ほんわか育てた方がええんやないか」と彼は妻に諭そうとするのだが、彼を見返す細長のきりっとした目が「戯れ言を!」と言っているようで、それ以上意見を言えなくなった。ご多分に漏れず小学校に入ると勉強の方にも力を入れ始め、公文式に始まり、有名中学に入るための塾に入れ、塾で食べる夜食の弁当を作っては塾に送り迎えをし、すさまじい受験勉強を経てお嬢様学校と言われる私学の中学校に娘を入れることができたのだった。

「奥さんのご両親と同居されていたそうですが、ご家庭での立ち位置はどうだったのでしょうか?端的に言えば父として夫としての役割ですね」

「夫として、父親として、それなりに頑張って来たつもりですが……」声が掠れ、細くなるのを彼は感じた。自分が責められている気がして、口の中が乾き、胃の辺りがずしんと重苦しく、痛みを感じ始めた。横目で紗代子の表情を伺いながら「確かに、養子でしたから、遠慮して思い切ったことはあまり言わなかったかもしれません」と言うと、「そうだったの?」、といった、訝るような視線がきりっと返って来た。

 県に入庁後、三十歳の時に親戚の紹介で見合いをし,当時二十八歳だった一人娘の彼女の親に請われて養子に入った。別に紗代子の実家にそれほどの財産があったわけではない。かつてはその辺りで農家を営んでいた先祖が、子孫に分け与えながら残して来た土地、すなわち、紗代子が家族で住んでいる家の宅地があるだけだった。

 御先祖様から受け継いだ土地を、守って欲しい—— 、紗代子の父親のささやかな願いをかなえるのは、次男の彼にはたやすいことで、結婚後、繭美が産まれるまでは、二人だけで賃貸アパートで生活をすることになり、その間に紗代子の実家では、二世帯が住めるようにと、家を改装していた。一階を紗代子の両親が、二階を健次郎夫婦がプライバシーを保ちながら住めるようにと、玄関を建物の両端にしつらえ、いつか、年寄りが亡くなった時には、一軒の家として使えるようにと、一階と二階を結ぶ階段は残しておいたのだが、二階には戸を立て普段は施錠がされていた。恋愛の経験が少しはあった健次郎と違って、紗代子には無かったのではないかと、彼は思う。見合い後、付き合っていた僅かな間、特段眉目麗しいわけではない彼女が愛おしくてたまらないという感情にはついにはなれなかった。女もこれ以上年を重ねるわけにはいかない、白馬の王子を待ち続ける年ではないといった諦念の結婚であり、好き合って結ばれたわけではない二人の生活は、どことなくしっくりいかない日々となった。

 世間には九時五時勤務と思われがちな公務員だが、議会や予算の時期になると県庁が不夜城と化すことは、知られようともしない。その頃は、公費の支出が鷹揚で、仕事が遅くなればタクシーチケットが出たので、中途半端に終電で帰るより、タクシーを使った方が楽ということで気楽に残業ができた。タイムカードの無かった頃は、課長は朝、十時、十一時に出勤し、退庁時間が過ぎてもだらだら職場に居残ったので、課員が帰りにくいという雰囲気が職場に密かに満ち、不必要な残業も結構あったのだが、月二十時間を超えるとサービス残業となるので、残業代がすべて支払われたわけではなかった。その代わり、年度に使い切れない出張旅費の予算を、架空の出張で支出し、裏金にしてプールしてタクシー代にしたり、会議などで認められている茶菓子代の予算を県庁近辺の飲食店に預けておいて、そこから夜食の出前を取ったり、飲み代にしたりすることによって、支払われない残業代に不満を感じる職員の糊塗にするという姑息な不正が行われていたのである。その後、預けをされていた飲食店の従業員が、不当に解雇されたことの腹いせに、公費の乱費を新聞社に垂れ込んだことがきっかけで、裏金の存在が明るみに出ることになり、そうした公務員特有の悪習は払拭され、ようやく課長は時間通りに出勤し、職員は余分な残業をしなくなるようになった。

 その残業が当たり前だった頃、健次郎が遅く帰宅しても、決まって紗代子は食事の支度をして待っていてくれていたのが、それが彼にはかえって気兼ねであったばかりではなく、帰りの遅い日が何日も続くと、妻の顔が能面のように無表情になっていることがあり、独身時代の気ままな生活が懐かしくなるのだった。

 「子どもでも生まれれば……」、と思ったのだが、生理不順だった紗代子は妊娠し難い体質で、結婚して5年ほど経ち、「だめかも」と諦めが勝つようになった頃に、子どもを宿したことがわかり、それこそ、結婚以来、「こんなに良かったことは無い」と思うほど、夫婦で喜んだのだった。しかし、繭美が生まれてから、彼女は娘の養育一筋になってしまった。赤児は夜泣きがひどく、寝不足になりがちで、朝起きられなくなり、彼の帰宅が遅くなると、先に紗代子は布団に入っており、冷たくなった食卓の食事を一人で食べた。台所があまり使われている気配がなかったことをみると、年寄りが一階で作ったものをそのまま運んだだけかもしれなかった。それはそれで彼には気楽だったのだが、やがて自分は養子なのだということを改めて自覚するようになった。日中、妻は子供を連れて老夫婦のところで過ごし、夜はおざなりに二階に戻ってきているようだった。妻と子供と老夫婦が一家族をなしていて、彼は金を家に入れるためにだけ日々県庁に出勤している感じがするようになっていた。  

「何年か前に、義理のご両親が続けてお亡くなりになりましたよね。お父さんとしての役割が大きくなったと思うのですが、いかがでしたでしょうか?」女が健次郎の顔を覗き込むようにして言った。

「特に変わったということはなかったと思うのですが。娘も大きくなっていて、どちらかというと母親とべったりでしたから。仕事も相変わらず忙しかったですし……」彼は、言葉を選びながら答えた。

 年寄りが他界して残した二世帯住宅は彼ら親子には広すぎて、結局二階だけを生活の場とすることになった。寝室、リビングルーム、和室、ダイニングルーム、それに繭美の勉強部屋が続く間取りになっていた。中学二年生になったある日、自分の部屋に閉じこもりはじめ、かつて、父の両腕に支えられて、「高い」、「高い」を喜んでいた娘が忽然と彼の目の前から消えた。紗代子が泣いても喚いても、部屋から一歩も出ようとしてくれない¬¬。¬¬¬¬¬¬¬あれだけ従順だった娘がはじめて自分の意志を示したのだった。だが、それはあまりにも唐突なそして衝撃的な自己主張だった。彼は寝ても覚めても繭美の部屋の戸が隙間なく閉まっているのを確認する度に深いため息をついている自分に気づき、世間に聞くひきこもりを我が身に体験することの辛さをはからずしも知ることになり、「学校に行かないことくらいたいしたことではない」と、かつて評論家口調で語っていた自分の思慮の浅さを恥じるのだった。人生を川に例えれば、本流から逸れて行き着く先のわからない支流に娘がかき消えてしまう、手をこまねいていればその支流のあぶくと化してしまうのではないかと、彼は、焦った。紗代子も焦っているに違いなかった。

「お嬢さんが学校に行かなくなった原因について、お父さんとして心当たりになることはありませんか?」

 それがわからないから途方に暮れているのではないかと、腹立たしさを感じながら、「最初いじめがあったのではないかと、妻が学校の先生を問いつめたようですが、学校は否定しますし、結局未だにわからずで……」

と答えた。

「お父さんはお嬢さんのことで学校に相談に行きはしなかったのですか?」

「……はあ。子育ては、妻に任せっきりで」

「父親としての役割をあなたは十分に果たしてこなかったのではありませんか?」この医者は、そう言いたいらしい。紗代子はここに来て何を話していたのだろう。夫の不甲斐なさを詳らかにすることが目的だったのか。こんな時だから夫婦で話し合い、一致協力してこの危機を乗り越えなくてはならないのではないか。わかっているのだが、長い間、いや結婚して以来、妻と心の奥底で深くつながりあえた実感のない彼には、妻にかける言葉さえみつからない。繭美が産まれて以来、彼は妻と寝室を共にすることがついになかった。だが、「どんなことがあっても娘を守り抜くのだ」、「この娘が成人して、愛する人と結ばれるまで、どんな我慢もしよう」と彼は固く誓ってこれまで生きてきた。それが、この世に自分が産まれたことの唯一の証、ささやかといわれようが頑な決意を携え、彼は、仕事も私生活もそれなりにこなしてきたつもりだった……。


 その日、病院を出た健次郎は、職場に戻って執務をし、夕方、帰宅すると珍しく紗代子が食事をせずに待ってくれていて、食卓を共にすることになったのだが、彼にはそれがかえって居心地が悪く、箸を動かしながらもお互いに交わす言葉がなく、食器の音が耳にいたずらに響くだけだった。向かいに座る紗代子の後ろに繭美がじっと棲息する部屋があり、その開こうとしない戸を見ると、長い間、会っていない我が娘に会いたくて仕方がなくなる。部屋から出てこない娘のために妻が食事を部屋に運び入れているが、彼には年頃の娘の部屋に入る理由がなかった。黙々と箸を口に運ぶ妻を見て、結婚した頃にはなかった白いものが、その髪に混じり、頬の膨らみもすっかりそげおちていることに気づいた。お互い年を取ったし、この先も取るばかりで、「娘の成長だけが楽しみだったのはあなたも一緒だっただろう、辛いな–––。その辛さを言葉で癒し合えないなんて……」と心の中で紗代子に語りかけながら、彼は、皿に乗った焼き魚に運んだ箸を、茶碗のご飯、碗の汁ものへと運びながら、妻とその向こうの繭美の部屋の扉を交互に見ていると、ふと顔を上げた妻の切れ長の射すくめるような目を見つめることになった。

「今日、先生も言ってたやないの。あんたが父親の役割をきっちり果たさへんかったからよ。養子やから遠慮したって?なんちゅう言い草——」そう言ったのを彼は確かに聞いた。

 紗代子は目を伏せ、箸を動かしていたが、妻と彼の間を隔てる空気が急に磁場を得て重たく緊張しはじめ彼を萎えさせ、その場にいるだけで顔の皮膚が痛くなり、彼は箸を止め、妻の顔を視野から避けながら、背にある娘の部屋の戸を見た。

「まゆちゃんお願いやから出て来てんか! お父さんとお母さんを繋ぐものが、もう何にもあらへん。無理や……」

 じわじわと彼は椅子ごと後ずさりし出していた。それは彼の意志ではなく、催眠でもかけられて、勝手に身体が動いているかのようで、やがて一階に続く戸のノブを背中に感じ、その戸の後ろに消えてしまえたらどんなに楽か、と思った瞬間、背中になんの抵抗も感じなくなり、彼は、妻とその向こうのわが娘が籠った部屋が急速に遠ざかり、あーと言う間もなく視界から消え去った。最後に目にしたのは、ダイニングルームの食卓に視線を落としたまま何事もないかのように箸を口に運んでいる紗代子の姿だった。

 その日から彼は一階の住人になった———。



 昭和初期に建設された六階立てコンクリート建築の県庁舍は、鐵扉のある正面玄関に車を横付けにできるようにローターリーを備え、その正門を中心に両翼に広がる建物は外壁に白い擬石材を用いていて、官庁街に古色整然と佇んでいる。無名の建築家の設計がコンペで採用されたと聞くが、その昭和の男の瞼には、遠いヨーロッパの森の中に佇む宮殿が映っていたに違いない。入職し立ての頃、青年らしい野心を抱くこともできず、たいした出世もせずに一生を公務員として慎ましく終えるであろう自分のことを不甲斐なく思うのだったが、その古びた威厳のある庁舎で働く職員となれたことにささやかな誇りを感じるのだった。在職三十年のキャリアがある健次郎は本庁以外に県税務署、高校事務所、保健所などの出先機関でも働いたことがあり、県民の生活を支えている多種多様な行政の仕事にいつしかやりがいを覚えるようになっていた。

 その日の朝、いつものように、県庁そばの地下鉄で降り、熱をはらみ出した外気に晒されながらしばらく歩いてたどり着いた庁舎のエントランスホールは薄暗くてひんやりとしていた。階段を使って五階の彼の執務室を目指して上がり始めると、三階あたりの踊り場で汗が吹き出し息が切れ始めるのだが、彼はエレベーターを使わない。運動の意味もあるが、時代物のエレベーターをイライラしながら待った上、ぎゅうぎゅう詰めにされるのが辛気くさいからである。ようやく着いた執務室はすでに陽を浴びて暑くなっているのだが、室温が二十八度に達していないらしく、クーラーは入っていなかった。夏は二十八度以上、冬は十八度以下にならないと空調をきかせてもらえないのは、エコというよりコストカットが目的である。バブル崩壊後、県税収は減少の一途をたどり、昼休みの消灯はもとより、コピー一枚に至るまで節約を強いられている。県庁舍の立て替え構想もあったが、財政難で頓挫し、当面耐震補強工事をして凌ごうということになったのだが、その古めかしい建物を愛している彼には、むしろ都合の良いことだった。

 彼はしたたる汗をハンカチでぬぐいながら、窓際に横一列に並んでいるスチールの執務席の一つに座り,ノートブックパソコンの電源を入れた。一メートルほど離れた左横に課長席があって、課長補佐の彼は、文字通り課長を補佐する役にあるのだが、実際は係長である。大量採用の団塊の世代が年齢構成をいびつにし、係長制を廃止して課長補佐ポストを増やしたのはいいが、年がいってもいつまでも係長と同等の仕事をしなくてはならないのである。彼の他にも筆頭格の課長補佐と彼より先に昇進した課長補佐がいるので、課の中の序列では、ナンバー四ということになる。課長席の前に、会議用の平机が置かれている以外は、職員の執務机が所狭しと並び、壁際には古びたスチール製のラックが長い歳月のちり灰汁で薄汚れた壁面を隠すようにぎっしりと立ち並んでいる。彼の課の職員は、五十人ほどいるが、そのうち二十人は派遣職員やアルバイト職員であり、人件費抑制を図るため徹底的な正規職員の削減がおこなわれている。新規採用のない時期がしばらく続いたことがあり、若い職員はほとんどいなくなった。そのため、主事、すなわち平職員が欠乏して、下働きをしてくれる職員が金の卵と化した。非正規職員にまかせることのできる仕事は可能な限りまかすのだが、行政判断を要する仕事は、公務員にしかできない。例えば、彼のグループで業務量の最も大きい障害者の公的医療費助成は、毎月千件にものぼる申請書が市町村を経由して彼の課に届く。申請者に医療給付をすることが適切であるか否か、審査委員の医師が申請書類に含まれている診断書に基づき審査する。それが該当となると、そのデーターを派遣職員がコンピューターに入力する。だが、障害者家庭の所得によって、負担金額が変わるので、打ち出された個票をチェックし、適正かどうかを判断するのは正規職員がしなくてはならない。そして主事は適正とされた申請者に医療券発給の承認伺いの起案をあげ、それが主査に渡り、そこで再度チェックされ課長補佐の健次郎のところに廻って来て決裁され、県知事の公印の入った医療券が正式に発給されることになる。公金支出に係ることなのでミスは許されない。単純で辟易しそうな仕事だが、家計の苦しい障害者家庭の医療費が少しでも楽になるならと遅滞なく作業が進むよう健次郎は部下を鼓舞している。が、決して感謝されることはない。

「補佐、課長を出せとえらい剣幕の電話が……」

 ウインドウズの立ち上がりを待っていた健次郎の傍らに緑色の分厚いファイルを抱え困り顔で立っている青年がそれこそ金の卵、主事の亀山君である。亀山君は東京大学卒業後、印刷会社に入社し営業部に配属されたのだが半年で退社してしまった。一部上場の大企業には違いないのだが、いわゆるブラック企業で、サービス残業、土日出勤はあたりまえ。売り上げが目標に達しなければ、衆人のもとで上司にネチネチとお小言を言われ、「それでもトウダイ出か」と皮肉られるのに深く傷つき続けたのだった。こんな会社にあと何年働くことになるのだろうと数えてめまいを覚え、迷わず退社し、それから公務員試験受験の専門学校に通い、県の若干名の枠に三十倍以上の応募がある狭き門をくぐって入庁してきたのである。民間企業ではだめだったかもしれないが、勉学は誰にも負けない亀山君は、東大入試に耐えうる学習力があってつくづくよかったと思うのだった。巷では公務員バッシングが凄まじいが、子どもを何にしたいかと親に聞くと、真っ先に返ってくる「公務員」。世論はルサンチマンで成り立っていることに気づいたと、亀山君は健次郎のグループに配属されたときの最初の面談で幼さの残る顔を紅潮させながら語っていた。亀山君は抗議電話のきっかけになったファイルに綴じられた申請書の箇所を開いて、彼に示した。今回の審査で医療費受給を却下され、医療費扶助を受けられなくなることへの怒りだった。理由は病状がよくなったと診断書に書かれていたため、障害等級が下がったことによる。扶助を受けられなくなれば、通常の保険診療になり三割負担しなくてはならない。却下に怒った障害者の父親が、夜も眠れず、電話交換が開くや否や電話して来たのであろう。彼は電話を自分のデスクにまわしてもらって、応えることにした。

「お電話代わりました。障害保健福祉課の小原と申します。お気の毒ですが、今回の審査で対象外となってしまったものですから……」

「あんた、課長か?」

「いえ、課長補佐です」

「課長出せ言うてるやろ!」

 彼の上司になる上島課長は既に出勤して、デスクについていたが、課長をトラブルに巻き込まれないようにするのも課長補佐の重要な仕事である。

「私が責任者ですのでご説明させていただきますが¬¬」

「あんたじゃ話にならん。とにかく課長を出さんかい!」

「課長は会議に出てまして,あいにく不在でございます」

「こんな朝早くから会議があるわけないやろ、ぼけ!。そこにいるのはわかっとんのや、出さんかい。わかっとんのか、うちの子は医療受けられへんと死んでしまうねんぞ。人殺しかお前は!」

「……」 

 健次郎は、その朝、一時間もその電話の主と応対し、結局、「税金どろぼうが。知事に電話したるからな、あほ!」という捨て台詞を吐かれたうえ、がちゃりと電話が切られた。「知事か、くそ!」彼はそう呟き「秘書課に行こう」と、ぼーと突っ立ている亀山君を促した。

 二人は急いで階段を下り、二階の知事室の隣の秘書課に入り、平机をいくつも通り過ぎて、知事室前室の平岡参事の席にようやく着くと「医療費のことで電話かかってやしませんか」と息せき切らせながら、健次郎は言った。

 参事は課長より一歩手前の課長級ポストで、管理職になる。秘書課の参事ともなれば、いかにも知事の日程を切り盛りし、要人の料亭接待から政治資金の管理をまかされるのではなかいかと思われがちだが、実はサヨク、ウヨク、ヤカラの専門対応が主たる仕事だということを知ったのは、つい最近のことである。健次郎とこの四月まで、課長補佐として同じ課で席を並べていた平岡が、秘書課の参事に昇格して異動したので、歓送迎会でそんな話しをしていたのだ。

「いや。今日はいまのところ静かやで。最近ウヨクもすっかりおとなしうなってね。不景気でスポンサーもつかんのとちゃいますか。左翼はとんと来ませんな。天皇陛下が行幸される時くらいしか、こっちも気にせいへんし」

 健次郎は、平岡参事にクレームの件を伝え、もし電話が秘書課に回ったら、あんじょう対応してくれとお願いした。どうせ現課対応ということで、戻ってくるだけなのだが……。長年の経験からこの件は,簡単に収まらないと踏んだ彼は、降りて来た階段を戻りながら、「診断書書いた医者に書き直し頼んで見てくれへんかな?」と言った途端、「えっ」と言わんばかりの亀山君の表情を読み取った彼は、加えて言った。「障害者の医療費問題は難しいんや。障害者を抱えて家計の苦しい家が多いから、医療費の負担が少々増えるだけでも、しんどいことになる。実はこれまでも、審査会ではねられそうになったら、診断書書いた医者に電話して書き直しをしてもらうようにしていたんや。君には前任者から申し送りがされてへんかったんやろうけど……」

「そんなことしてるから、公費負担が増えて県財政、破綻しかけてるんちゃいますの……」それまで今に何が起きるのだろうかと好奇に満ちていた亀山君の顔に明らかに不満な表情が浮かんだ。

 役所は声の大きい人に弱い。それが社会的弱者と言われる人であればなおさらである。規則や基準を盾に突っぱねるよりも、相手が困っているのならなんとかしてあげるほうがかえって楽だ。執拗な電話や怒鳴り込みを受けてから、どうしようもなくなって変更するのでは、無理を言えば役所は折れると思わせてしまうので、まずい。新人の亀山君が役所の掟に慣れるのには今しばらく時間がかかりそうだ。

「すまん。とにかくやってみてくれへんか?」

「はあ……」

 渋面の亀山君と執務室に戻った彼は、いつもなら出勤するやすぐに読むはずのメールをチェックし始めると、隣席の上島課長が開けたままの朝刊の三面を彼に示し、「小原さん気いつけや。記事には名前は載ってへんが、商工部の木村やで。君と年齢も一緒、課長補佐ってなっているから君やないかって思わず心配したで––」とタバコの脂で黄色くなった歯を露わにした。

 何のことかと紙面を覗き込むと「○○県職員電車内で痴漢」の大見出しが踊っていた。前週の金曜日、夜十時頃、彼が使う通勤電車で、県庁の五十一歳の課長補佐が二十八歳の女性の太ももを執拗に触り、被害者の女性に手を掴まれたまま警察に通報されたとあった。  

 まさか木村が–––。

 木村とは課を同じくしたことはなかったが係長試験がたまたま同じ勉強会だったのでともに勉強に励んだ時期があった。三十代の前半を農林部にいた健次郎と木村は、部の係長試験合格者がボランティアでチューターをしてくれる勉強会に参加していた。係長試験は一般教養と自治法、公務員法などの専門科目で構成され、三十歳になると受験資格が与えられる。年によって違うが合格率は五〜八パーセントといったところで一発で受かることはまずないが、一発合格組はエリートコースに乗ることになる。一般教養には数学や英語が入っているのでどうしても大卒が有利だ。ただ、まじめに受験していると加点がもらえ、三十代の後半から高卒職員の合格率が高くなりはじめる。木村は三十五歳で合格し、健次郎は彼に一年遅れた。いずれにせよ係長試験に通らないと一生主事という職階の平職員で過ごすことになるので、少しでも出世を望む職員は必死に勉強することになる。木村はやや神経質な感じのする線の細い痩せぎすの男で、知り合った頃は、整髪の難しそうな硬質の頭髪をしていたが、いつしか腰のくだけた髪になり、頭皮が透けるようになった。通勤経路が一部重なるので、朝夕たまに乗り合わせた車輌が同じになることがあり、付き合い程度の話はしたことがある。木村には二人の娘がいたが、上の娘はそろそろ大学受験を迎えるはずだ。金曜日の十時頃なら酒でも飲んでいたのかもしれない。健次郎は木村と酒席を共にしたことがあるが、特段酒癖が悪いといった印象はなかったから、「よほどストレスが溜まっていたのでは?」、と思いながら、長いこと女の身体に触れていない自分はどうなんだと思った。このまま女に触れずに生を終えるのだろうか。混雑する通勤の車内で何かの弾みに女の手の甲に接触すると、その柔和な肌にこころの奥底に残滓のようにある性が興り、女の手を握って我が身に入れたくなる。欲望をかろうじて包む理性の薄紙が剥がれてしまえば自分も木村と同じだ。警察に留置されている友が愚かとは彼には思えない。それより、木村は懲戒免職になるのだろうか 年金はどうなるのだ、彼の家族はどうなるのだ、と思いながら、先頃共済組合から届いた年金定期便を見て愕然としたことを思い出した。彼の年齢だと、六十二歳から退職共済年金が支給開始になる。それが年額百六十万円、六十五歳から老齢基礎年金五十五万円が上乗せになり、年額二百十五万円になる。定年が六十歳。年金がもらえるようになるまでは役所に再任用制度で雇用してもらえるが、年額二百四、五十万といったところであろう。彼が恐れているのはいつか紗代子が離婚を持ち出してくるのではないかということであった。離婚しても国民年金三号被保険者は厚生年金相当分の半額をもらえる制度改正が何年か前に行われている。妻はあと数年後にくる彼の退職を密かに待っているのではないか。養子になる時点で財産放棄を長兄に約束させられている彼には、実家からの財産は無い。退職金も、年金も折半され、家を出てどこかの安アパートで心細く老後を生きろというのだろうか。だけど、紗代子の家の財産の相続権は彼にもあるはずだから、一度、調べておかなければ、と思う。ところで木村の妻子は、夫を父を許すのだろうか、と木村に思いを馳せるのだが、翻って自分のことを考えると、せめてこのまま、あの家の一階に住まわせてくれればいいのだが、と無性に寂しくなった。

 沈んだ気分で、メールチェックを始め、読み飛ばせるものは飛ばすのだが、返信の必要があるものはしなくてはならない。職員の残業が多いので、残業するなら事前申請を出させ、必要性を吟味してから承認しろとか、飲酒運転事故が多いことに鑑みて県職員が飲酒運転で検挙された場合は懲戒免職にする処分指針を知事が示したとか、出張旅費の締め切りは十五日締めだから、職員に周知しろ……。

 休日を挟んでいたため、いつもより多く届いていたメールを小一時間かけてチェックし、次に机の右隅にある未決箱に積み上げられた決裁書類の処理に取りかかった。最初に手にしたのが夏の障害者スポーツ大会の開会式に出席する知事の挨拶文だった。読み出してすぐに、昨年の挨拶文を時点修正しているだけなのがわかって起案者の欄を見ると亀山君の名前があった。知事挨拶となると、その年の社会情勢や県の重要施策を入れないといけないのでこれでは課長に突き返される。新人教育のためにも自分の言葉で全部書き直しさせた方がいいと思った健次郎は、亀山君を呼び、書き直しを迫ったところ、「でも補佐、こんなんまじめに書いても、上の方でどんどん手が入るから、時間の無駄だって言われたんですが」と直ぐに反論してきた。

「誰が、そんなこと言ったんだ」と返すと、さすがに亀山君も、口が滑ったと思ったのか、「しまった」という顔つきになり、黙った。

 恐れを知らない現代っ子の亀山君は、なにかにつけ物怖じせずに上司に感じた疑問をぶつけてくる。それはそれでいいのだが、手抜きを新人に教えたのは誰だ¬¬¬、と憤慨し、ちらっと、亀山君の臨席の伊穴主査を見ると、こちらに向けていた視線がさっと途切れた。伊穴は余分なことを一切しない合理主義者で、残業せずにさっさと退庁するが、仕事にミスはなく、将来を嘱望されている。確かに知事挨拶文ほど無駄なものはない。通常であれば主事が書いて、主査が手を入れ、課長補佐の彼のところで手が入って、さらに課長のところで手が入る。それから課から出て部の次長のところに上がり、そこでまた手が入る。それからようやく部から総務部秘書課に入り、そこでまたまた手が入る。しかも、知事は自分の言葉で話そうとするので、挨拶原稿が日の目を見ることはまず無い。A4一枚ほどの挨拶文にかかる所要時間、それに係る人件費は莫大なものになるのだが、役所は形式が大事なのである。

「まあ、いいから、一度、自分で書いてごらん。うちの課の今年の重要施策を入れて」

 「承服しかねる」と言わんばかりの亀山君に起案文をつき返し、伊穴主査宛てにメールを書いた。


 伊穴主査様

 亀山主事の新人教育お疲れさま。障害者スポーツ大会の知事挨拶文、亀山主事に差し戻しましたので、校閲よろしくお願いします。教育は新人の時が肝心ですから。


 彼は今書いたばかりのメールを三度読み返し、メールを受け取った伊穴主査がどう反応するだろうかと考えていた。批判されているように感じて、気分を害するのではないか、そう思うと、メールの送信がためらわれるのだったが、職員の前で伊穴主査を呼びつけるのをさらにためらうのは、係長試験一発合格組の伊穴主査は京都大学卒でプライドの高さは人後に落ちないからだ。あと五、六年もすれば伊穴は課長補佐になるはずで今の健次郎と同じ職階になる。主査試験合格の年齢が人並みだった健次郎は、定年までに課長級になれればいいところだから、いずれ違う職場で課長補佐同士として机を並べることにもなりかねない。できれば伊穴を刺激したくないと、健次郎は逡巡し、やはり指摘するべきことはしておくべきと思い、送信ボタンをクリックするのだが、すぐに後悔に似た感情に苛まれ始めた。

 気がつくと十二時近くになっていて、彼は議会手帳を開いて、午後の予定を確認すると午後一番で障害者団体の要望受けが入っていたことに気づいて更に気が滅入った。忘れていたいという意識が働いていたのか、まったくの失念だった。しかも、伊穴主査と要望受けに臨まなくてはならない。つい今しがた送ったメールに彼が気づかずにいてくれたら、と願った。


 県民会館の大ホールは、障害者とその支援者や家族で埋め尽くされ、かろうじてできたホール正面の舞台前スペースに並べられた二列の数脚のスチール机が県職員の席だった。障害は大きく分ければ知的障害、身体障害、精神障害に区分されるが、身体障害ひとつとっても脳性麻痺、視力障害、内蔵疾患からくる内部障害など多様な区別がある。車椅子に乗っている人、白い杖をついている人は明らかに障害者だとわかるが、外見上は障害がわからない人も少なくない。しかし、ホールには車椅子に座して、手や頭を不随意に動かしている障害者が圧倒的に目につく。

 障害福祉の主担課の課長補佐である健次郎は、前列中央に座らされ、後列に彼の背中を盾にするようにして座っているのが伊穴主査である。クーラーの能力を遙かに越えた要望団体参加者の熱気でホールはむんむんとし、天井に話し声が鳴り響いていた。彼等にとって、県庁職員は自分たちの思いを存分にぶちまけることのできる生身の人間だった。そのざわめきを構成しているおのおの声がやがてホールの片端に追いやられるようにして座っている県職員に怒声に変わって襲いかかることを健次郎は知っている。彼の落ち着き先の無い陰鬱な気分が、手の平で生温かい汗となって滲みはじめている。彼はしゃべりが上手ではない。いや至って下手だ。事前に提出された要望書の各要望項目には基本回答が用意されているが、いずれも団体側を納得させられるような内容にはなっていない。

 その日、脳性麻痺のある障害者団体の代表が、マイクで不自由な言葉を駆使しながら、形式的な挨拶を終えると、行政側の回答が始まった。グループホームの国基準の単価が低すぎるので県費を上乗せしろとか、県営住宅の空き部屋を障害者用のグループホームのために提供しろとか、要望はいくらでも続く。県営住宅の件は、建築部の都市住宅課の所管だが、グループホームは彼の課の所管である。彼は、立ち上がって「財政状況の悪い当県では、県単費の上乗せは難しいので、国に要望してまいります」と答えざるを得ない。すると、「また国かよ」、「国、国って、そんなら県いらんやんか」、「知事は地方分権や言うてるやろ。国に頼らんと自分らで考えなあかんのちゃうの」、と彼らの常套句が飛んでくる。障害者団体からすれば彼は予算をつけようとしない、冷徹な小役人にしか見えないのだろう。浴びせかけられるささくれだった言葉が彼の保湿力の衰えた皮膚の毛細血管から血流に乗ると、分泌されたアドレナリンが身体を駆け巡って、頭を異様に火照らす。高血圧の気があって、常日頃、血圧を気にしている彼は、いつか血管が切れるのではないかという不安がある。彼はじっと呼吸を整えながら、少しでも血圧が上がらないようにと耐えなくてはならない。何かを言えば、何倍にもなって罵詈雑言が返ってくる。だが、何も言わなければ、「なんか言えんのか!」と罵声が飛ぶ。投げつけられるとげとげしい言葉に苦しくなると彼は自分を的当てゲームの的だと思うことにしている。思うのは、幼い頃、今は亡き父親に連れて行ってもらった遊園地の鉄人二八号の的当てゲームだ。子どもの目からは、そびえ立つようにみえる鉄人の尖った鼻にボール球が当たると、「ガオー」と雄叫びをあげながら鉄人は両腕を八の字にして空に構えた。彼の思い出にあるのは、決まって夕焼けを背にした、赤くて太いベルトをした青いたくましい鉄人の姿で、ボールを鉄人に向かって懸命に投げ続けるのだが、当たるどころか、大概は鉄人に届かず地面をころころと転がった。リモコンの持ち主次第で、正義の味方にも悪魔の手先にもなる冷たい目をした鉄人。鉄人に応えてほしくて少年の手には余る大きなボールを必死に投げた。

 障害者団体の要求はどれも切実なものだが、予算措置が必要なものばかりで、「はい、しましょう」と言うわけにはいかない。ひたすら罵声を浴びるために要望受けをしているようなものなのだが、いよいよ持ちこたえきれなくなると、財政課に泣きついて予算がとれることもある。時には知事選のタイミングに重なって選挙公約に入ることもある。目の前の車椅子上にいる、自分の意ではままならない身体を介護サービスにまかせ、生を繋いでいる人々。そしてホールの外にはもっと多くの障害者がいる、と思うと、少しでも予算がつけばと切に願う。だが、彼らの言葉の責めにいよいよ窮し、何も答えられなくなって、立ち尽くしていると、健次郎の視界にマイクを握って立ち上がる青年の姿が入って、彼は身構えた。

「あんたな、できません、できませんばっかいうけど、精神障害者だけ福祉医療費の無料制度ないのは、差別ちゃうの。そんな差別許されるのんか。どう思ってんのはっきり言うてみ!」

 勢い良く話し出したのは精神障害者の当事者団体代表で小林という青年だ。躁鬱病だと聞いているが、舌鋒鋭く、健次郎はいつもたじたじに打ちのめされる。障害者医療は、昭和四十年代に障害者家庭の負担を少しでも軽減しようと地方自治体レベルで策定された施策であるが、精神障害者はながらく福祉の蚊帳の外に置かれてきたため福祉医療費の恩恵に預かることができなかった。十数年前、障害者基本法に精神障害者が含まれたことにより、対象とされるべきとなったが、日本の病床数に占める精神科病床数がなんと五分の1にもなることは、意外と知られていない。医療が不可欠な精神障害者に医療費助成をしようとすれば莫大な財源が必要になる。「差別ちゃうのか?」と問われると、その通りなのだ。

「なあ、答ええや!」

 後ろの方から、「そうや」、「そうや」とはやし立てる声が飛んでくるが、「そのとおりです」と答えるわけにはもちろんいかない。「金がない」と答えれば、「やらなあかんということ認めているわけやな。どっかからでも金とってきてやらんかい」と言われる。何を言っても切り返され深手を負うだけなので、黙って突っ立っているしかない。「いつまで立ち往生していなければならないのだろう」、と思うと辛くなるが、どんな時間だって過ぎない時間はない。彼はひたすら鉄人を思った。

「でお宅の課の障害者予算のうち、精神関係の予算はどれだけなん?」

 想定外の質問だったというより彼は数字に弱い。煮えたぎりそうな血液が高速度で脳血管を流れ、耳の中で脈打っている。覚えていたとしても、記憶にあるはずの数字は沈んだまま浮かびあがりそうになかった。彼は手持ちの分厚いファイルから数字を探そうとしたが、こんなときに限ってどこにあったのか見当がつかなくなり、指先が震えて紙面がめくれなくなる。窮して後ろを振り向き、伊穴主査に助けを求めようとすると、彼と視線を合わせるのを避けるように主査はじっとうつむいたままだ。さっきの仕返しか¬¬……、。

「そんなことも知らずに仕事してんの?どういう了見なのよ。本気でやる気あんのおたく、給料泥棒じゃないの?」

 小林のマイクを傍で譲り受け、責め立て始めたのは、交渉のとき欠かさずやって来る健常者の岡本だった。

「給料貰ってあんた等がしなくてはならないのは、障害者の施策づくりだろうが。あんた等の給料はわし等の税金やで。金がないなんて言わせへんで。あんた等の給料へずってでも、施策を作くらなあかんやろ。ここにいる障害者はみんな、今日、明日生きるのも必死や。あんたみたいな身分保障されているコームインには、わし等の苦しみはわからんやろ!」

 岡本の発言が終わるのを待っていたかのように「税金泥棒」、「給料かえせ」とはやし立てる声、「ソ、ウ、ヤ、ソ、ウ、ヤ」と懸命に喉の奥底から絞り出るようなくぐもった声に拍手が共鳴して、高い天井に響いた。学生時代、脳性麻痺の女性の介護ボランティアをし,愛が芽生えて結婚に至ったという岡本は、いつも憤怒に駆られた厳しい言葉を行政職員に投げつけてくる。答えられそうで答えることができないグレーゾンに踏み込んで来るので、答弁者は決まって追いつめられることになる。それで火がついたように会場が沸き立つものだから、岡本がマイクを握るのを参加者は期待している。岡本の言葉に、障害のある家族の塗炭の苦しみが塗り込められていると受け取られるようだ。健次郎の視線は、横何列にもわたって並ぶ車椅子上の首や手をくねらせる動きや、何かを言おうとする唇のゆがみに釘づけになっていた。生まれたときから思い通りにならない身体で生きるとは、どんなことなのだろう。彼等から見える世界はどういうものなのだろう。障害が不幸ではないとよく聞くが、そんな言葉で絡めとってしまっていいのだろうか¬¬……。

「なんか言えよ。黙っていてもいつか終わって、すべて忘れてうまいビールが飲めるなんて思うなよ。俺たちは、いつだってどこだって障害から目を逸らすことなんかできないんだ。コームイン、ちゃんと働けよ。今日は、とことんやるからな。なんなら寝袋持って来て、徹夜でやってもいいんだぞ!」

 会場はさらに沸き、熱気を帯びた空気が彼を息苦しくさせはじめた。どうしたら収拾がつくのだろうか。頭に手をやると、頭皮ににじみ出る汗がねっとりと熱い。両脇に並ぶ同僚を俯きざまに見ると、彼らは卓上に視線をじっと落としたままだ。健次郎が立ち往生していれば、火の粉は自分らに飛んでくることはない。腹に赤いベルトをした鉄人が彼の瞼に浮かんだ。鉄人だったら、この仕事をきっとうまくやり遂げるに違いない——。罵詈雑言は、この社会の中で踏みにじられながらも生きていかなくてはならない、彼らの心の叫び、と言えなくもない。だが、その言葉が束になって彼を襲い、生身の身体を透過していくようで、痛くて仕方が無い。少しでも彼らが生きやすい社会にしたい気持ちは自分も同じだ。だが、人々の要求すべてを聞けるほど、国は寛容ではない。彼の頭の片隅にいつも陣取っている国という、息をすることのない奇妙で巨大なとてつもない生き物。いったい、誰がこいつを操っているんだ、と思う。鉄人みたいに、リモコンの操り手次第で、正義にも悪魔にもなるのか———。

 まゆちゃん、どうしているんや? お父さんは、お前に会いたい……。

 閉じこもったきり、あの子のこころの中で渦巻いているものは何なのか。どうしたら我が子をもう一度、光にまみえさせてやることができるのか。お前がしっかりしないから、お前の娘は、いつまでも暗闇のなかで這いつくばっているんじゃないのか。助けを求めて暗闇の中でお前の手が差し伸べられるのをじっと待っているんじゃないのか。

 ヤジを受けながら、健次郎は目の前のテーブルを飛び越えて、向こう側から、情けない自分に激しい言葉を浴びせかけたくなる。

 鉄人、代わってくれ、お願い–––。

 今にも沸点に達しそうな会場の熱気が、彼の呼吸をさらに苦しくし、キーンと金属音が耳の奥で聞こえ始めて、薄い皮膜が参加者と彼の間を遮り、一瞬ふわっとしたここちよさに救いを感じたところで、視界が暗くなった。

 


 目の前に若い女の顔があった。その女がしばらく会っていない恵梨香嬢だと気づいて驚きに変わるのに、今少しの時間が必要だった。

どこだ、ここは。視線の先に見えるものは天井か、どうやら寝ているらしい。

 目を動かすと、診察室のベッドにいることがわかった。それから、身体の何処かに染み入るように残っていた騒然とした会場の雰囲気が蘇り、戻らなくてはと、彼は身体を起こそうとした。

「まだ、寝てなくてはだめですよ、小原課長。急に起き上がると危ないわ」

 彼女の両手がさっと伸びて彼の肩を制した。小原課長って。自分は課長補佐だが……。ああそうか、恵梨香嬢は保健所にいたときの職級で自分を呼んでいるのだと彼は気づいた。出先では同じ課長補佐級でも課長になる。両肩に感じる恵梨香嬢の柔らかい小ぶりの手の触感に身体の芯が熱くなった。

 恵梨香嬢が何故ここにいて、自分がベッドにいるのか、困惑していると、「課長、お久しぶりです。私この四月に保健所から職員診療所に異動しました。ご挨拶に一度うかがったんですが、お部屋にいらっしゃらなくて」彼女は笑みを浮かべながら言った。

 職員診療所……。事態がおぼろげながらわかりはじめた。どうやら応接会場からここに担ぎ込まれてきたらしい。醜態を曝したのではないだろうか。衆人のもとばかりでなく、恵梨香嬢にも無様な姿を見られたのではないか、無防備に口を開いて、加齢臭の混じった汗臭さを放っていたのではないか、と羞恥にいたたまれない思いになった。

「わ、わたしは、どうなっていたんでしょう?」

「眠ってらっしゃっただけです。熱中症かと心配しましたが、大丈夫です。暑かったからのぼせたんだろうって、先生がおっしゃってました」

 眠っていただけと言われて、彼は少し安堵したが、のぼせて担ぎ込まれたと聞いて、今度は情けなくなった。エリカ嬢は、傍らの机にあるポカリスエットのペットボトルを手に取ると紙コップに注いで彼に渡した。

「飲んでください。脱水起こしかけてますから」  

 彼は一気に飲んで紙コップを彼女に返すと、「もう一杯飲んでおいてください」と,さらに注がれ、彼はそれをまた飲みほし、ふーと一息ついた。

「課長、ワンちゃんどうしてます?」

「エリカのことですか?」、とすんでのところで口に出かけた言葉を止めた。あのときの子犬をエリカと名付けたなどとは恵梨香嬢に口が裂けても言えない。 

「げ、元気ですよ」

「可愛いでしょ?」

 あのままガス室に消え去っていたかもしれないはかなきものが今の彼には、愛おしくかけがえのないものになっている。そして、恵梨香嬢とかろうじてつながるか細き糸の端でもある。エリカの話になって彼は途端にうれしくなった。

「ええそれは、それは……。一緒に寝てるんですよ。朝、いつも起こしてくれてね。起きてすぐに散歩するんですよ。近所に八幡様があるんで、朝、神社まで行って帰るの。夕方家に帰ってドアをあけると、もう僕を待ってくれててね。すぐにころんと横になって、お腹を曝すようにして、前足と後ろ足を掻くようにすりすりするんです。お腹さすってくれっていう催促。倉橋さんのわんちゃんはそんなんしない? やっぱりする? そう。それから抱き上げて、台所に連れて行って、ローカロリーのドッグフードをあげるんよ。ドックフードも気をつけてあげないとね。ネットやらで調べていたら、スーパーやコンビニで手頃に入るのって、着色料が沢山入っていて、材料も新鮮じゃないらしい。東南アジアのどこぞの国の生産工場で、死んだ動物の肉使って作っているって書きこまれているの見て怖くなってね。あの娘は僕しか頼れんからね。お父さんも、お母さんも知らへん、僕しか身内いいひんし。値段はるけどネットで調べて、少しでも安い国産のを選んで取り寄せて、高いんやけど、仕方ないよね……。また、一時金下がったね。選挙あるたんびに、公務員の待遇悪くなるね。今度、知事選やね。職員の給与10%カットするって公約入れてるでしょ。自分の部下の待遇悪くすればするだけ支持率上がるんやから、わけわからんね。中小企業の親父だって社員に気使う思うけどね。どうしても給料払えんかったら、詫びるよね。職員の悪口言ってれば、支持率あがるなんて、アホ臭い、やってれん思うけど県民のためには頑張らんとね。倉橋さん入職後、給料全然あがってへんのちゃう? 若い子は僕らより気の毒やね。バブルんときはすごう上がったよ。でも民間もええときは、よう上がったけどね。もうあんな時代はこんのやろね。とにかくあの娘、縁あって僕んとこ来てくれて、してあげられることはなんでもしてあげたい思うんよ。自分が先に死んだらあの娘どうなるんか、そう思うと、健康で、長生きせなあかん、って思うわ。でもあの娘、先に死んでしもうたらどないしよう、思うけどね。だから、ちゃんと運動させんとあかん思うてね、どんなに帰りが遅うなっても、夜の散歩は欠かせんのよ。ほんとうれしそうに散歩するんよ、リードつけて歩いてんねんけど、どんどん引っ張ってってね、時折、僕の方を振り返るのよ。こころがあるんやね、動物にもあるわ、こころは。少なくともあの娘にはある。人を思いやろう言うこころが……。それとうれしいのは、あの娘と散歩していると可愛い可愛い、ってよく声かけてもらえるんよ。自分がほめられているみたいでうれしうてね。僕なんか仕事してもなにしても、けなされることばっかり。公務員なんてそんなもんやね。給料泥棒、給料泥棒ばかりいいくさりやがって。あんた、なんぼ、税金払ってくれはったんや、言い返してやりたいわ。ああ、そうそう」

 そう言って、彼は胸ポケットの二つ折りのガラ携を取り出して開け、待ち受け画面のエリカの写真を彼女に見せようとした。その時、恵梨香嬢が微笑みの中に少しとまどった表情をしているのを読みとった彼は、「何をべらべら話し続けていたのだ、しまった」、と我に返り恥ずかしくなった。のぼせて担ぎ込まれただけあって、アタマのネジが外れてしまったのか、多弁になることのあまりなかった彼は、自分でも「おかしくなったのか?」と思った。

「課長は本当に、わんちゃん可愛がられてるんですね。私もほんと可愛くて……。待ち受け画面、娘さんからわんちゃんになったんですね」

 健次郎は、何気ない恵梨香嬢の言葉に、はっと我に返る自分を感じた。そう、恵梨香嬢が彼の職場に配属された時、繭美は引きこもりをはじめて、まだ間もない頃だった。携帯を開ければそこにはいつも娘がいた。小学校の卒業式に校舎の正門前で、卒業式と書かれた細長い立て看板を背にし、ランドセルを背負った頬がこぼれ落ちそうな笑顔の娘が彼の視界から消え、エリカが彼の唯一の近しい存在になったのはあれからどれほどしてからだったろうか? 繭美を忘れたわけではない。いや、忘れている時など片時もない。待ち受けの繭美を見るのが辛くてエリカに変えたのだけど、娘は彼のこころの奥底のもっと深いところで彼を見つめるようになった–––。息を思い切り吸い込もうとしても吸いきれない重苦しい感じ。(たが)のようなものが彼の五臓六腑をいつも締め付けている。会えない娘が待ち受けの画面にいるのが堪えきれなかった……¬¬。  

 携帯がバイブし、メールが着信したのがわかった。見ると、江川からの夜の誘いだった。江川は高校の同級生で地方の国立大学卒であることを誇りにする鼻持ちならないやつで、会えば決まって高卒の公務員より社会的には上なのだということを思い知らせたいのか、健次郎を小馬鹿にするような話しぶりが癇に障る。だが、友人の少ない彼は、江川の誘いをいつも断りきることができない。江川まで切ってしまったら、友人と呼べる人が誰もいなくなってしまうような気がして、いつしか、江川の言葉の毒に刺されにわざわざでかけるように、というか今度会ったら、何か言い返して、一矢を報いてやると思うようになっていた。その日、恵梨香嬢にまで無様な姿をさらしてしまった彼は、一人ででも飲みたい気分だったので、江川の誘いがむしろ有り難かった。彼はメールを返し、これ以上、恵梨香嬢の傍にいることが面映くなり、お礼を言って去ろうとすると、「課長、血圧が高かったですよ。上が百八十もあって……。お酒はだめですよ、血圧に!」心配してくれる彼女の言葉をいささか煩わしく思いながら、時間年休を取ってそそくさと自宅に戻ることにした。

  

 いつもより早く帰宅した主の足にエリカは思い切りしっぽをふりながら飛びついて前足でズボンを引っ掻くようにして少しじゃれたあと、腹をさすってくれと、廊下に寝転び無防備に彼にお腹を晒しながら、いつものように足を前後にせわしく掻くのだった。淡い栗色の毛並みのエリカは腹部だけが白い毛で覆われている。その白い腹を愛撫してやっているときのここち良さそうなエリカの表情を見るのが彼は好きだ。犬は笑わない。だが悲しそうな面持ちをみせることがある。エリカを悲しませたくない彼は、腹をさすりつづけたあと、彼女を散歩に連れだし、歩くだけ歩いて戻ると、別離が待っていた。彼は肉のチューインガムをエリカに与えて、「待っててや、はよ帰るし」とエリカの目をしっかり見ながら頭をなでて玄関を出た。

 江川に会う前にフィットネスクラブに寄ったのは、昼、散々な眼にあって、たたでさえ薄くなった髪がべたついて気持ち悪いだけでなく、体中のねっとり感に苛まれていて、フィッネスで風呂に入ろうと思ったからである。彼は長らく家で風呂を沸かしたことがない。年寄りが使っていた風呂があるのだが、いつしかガス釜が壊れて使えなくなっていた。一人だけだし、風呂を焚くより、共済組合の助成で月七千二百円で使えるフィットネスクラブの浴場の方が遙かに気持ちが良いし節約できる。仕事帰りや休日にクラブのスタジオに入って、若い女の子らに混じってエアロビをすることが彼にはささやかな楽しみでもあった。ユニクロで買った上下灰色、半袖短パンのトレーニングウェアを着て、スタジオに入ると、四十五分のステップエアロが始まるところだった。前方と両側面が鏡張りになっているスタジオの後方はガラス張りでこれからうごめきだす中高年男女の姿態を同じく中高年の男女が鑑賞しようと覗き込んでいる。平日の夕方、スタジオには、若い女はいない。退職した初老男性か、今時恵まれた専業主婦のご婦人ばかりだ。若者は仕事をしているか就職を控えてリクルートスーツで会社回りをしているのだろう……。

 スタジオの前方から三列目当たり、肉の塊のようなご婦人と、彼より禿げ上がった初老の男の間に隙間を見つけ、急ぎ駆けよりステップ台を置いて、その後ろに立った。が、右前方の小太りの叔母さんが立ちはだかっていて、赤と白のレオタードのインストラクター、智恵美姉さんの動きがからっきし見えない。よく見かける中年男女の男は腹がぼってりし、女は胴回りがしっかりして、こぞってよく太っている。遅れて入ってきたということは、そういう場所しか空いていないということなのだがインストラクターの動きが見えないと、文字通り手も足も出なくなる。ちなみに、智恵美姐さんは声の質、肌の張りからしてもはや二十代ではない。三十代、ひょっとしたら四十代に突入しているかもしれないのだが、エアロビの世界も実力社会なのだろう、智恵美姉さんは、他のインストラクターとひと味違う複雑な手足の動きと、ステップ台の前後の飛び跳ねを強いる高度な振り付けで、多くのファンを引きつけ、スタジオはいつも満員になる。大概の人は、激しい動きについて行くことができないのだが、それでもスタジオが満員になるのは、なんとかついて行こうとする人々のささやかな向上心の表れと彼は解釈している。お姉さんの小ぶりの胸が彼には愛おしくて、なんとか垣間見られないものかと気をとられていると、天井前方両隅に備え付けられたボースのスピーカーから一斉にジャジャーンとマイケルジャクソンのスリラーのイントロが流れ出し、ステップ台に皆一斉に飛び乗ると、ドンという大きな音がスタジオ全体に響いた。

 結局、複雑な振り付けについて行けなくて十分な汗をかけなかった彼は、爽快感の足しにとサウナに入ることにした。昼間に倒れたことはすっかり忘れ、バスルームの一隅にある木製の戸を開けると熱気が肌を射った。ひな壇よろしく三段に組まれた白木の席があって、常連の初老男が三人、股間を隠すことなく汗を流していて、彼は男達と少し離れたところに座り、鼻の奥に感じる熱気の中に、木の香を嗅いだ。

「で、退職金なくなるらしいで」と聞こえてきて嫌でも男達の話しに耳が向いた。

「まあ、警察署長が飲酒運転したらあかんわな。懲戒免職もしかたないやろ」

「公務員の懲戒免職はきついらしいで。退職金が無くなるのは当然だが、年金も自分でかけた分しか入らんらしいし……」

 真弓がアホだから阪神が勝てないとか、石川遼が若いのに、わしらの一生分どころか何生分も稼いでるとか、たわいのない話に終止する彼らだが、その日は某市の警察署長が飲酒運転で検挙された話に花が咲いていた。彼は、長年フィットネスに通っているのにも関わらず友人ができない。自分の顔つきが他人に忌避感を与えているのかと思う一方で、公務員だというだけで、「良いですな、親方日の丸で」、「恩給つくんでっしゃろ」とか「俺も無理して大学行かずに、公務員でもなっておけばよかった」などという妬み、僻みを聞くのが辛くて、積極的に話しかけようとしなかったことにも因がある。彼はそのとき木村は、懲戒免職にならなければいいが、と思った。


 江川と入ったのは、通勤路線の途中にある下町の普通電車しか止まらない小さな駅の近くにある小料理屋だった。カウンター越しに、黒枝豆、この店得意とメニューに記された肉入り豆腐、だし巻きたまごを注文していると、清楚に和服を着こなした、それこそ高級クラブにでもいそうな目のくりっとした小顔のおかみさんが、冷やしたお手拭きを持ってきたので、健次郎はそれで顔の汗を拭い、次に首筋をこすって手のひらに広げると、くっきり黒い汗の跡が白地のタオルについていて、「風呂に入ってきたばかりなのに……」、と思った。大きな頭に鉢巻きと法被姿の顔を照からした親爺が、先に頼んだ泡が溢れそうな生ビールの中ジョッキを彼らに差し出してきたので、久しぶりに会った印と軽く乾杯の仕草をして、一気に半量ほど飲むと、琥珀の液体が喉ごしさわやかに胃に流れ込んでいくのがわかった¬¬。健次郎は、この夫婦を見るたびに、「この親爺、若い頃、結構女にまめだったのだろうな」、と思うのだった。

 高校時代、長髪をなびかせながらフォークギターをつま弾き、岩波文庫でカントの純粋理性批判を紐解いていた江川も今や前頭部から禿上がって目尻に皺が濃く刻まれ、ひからびたチューブのようになった顔の皮膚が、自分の鏡像をみているようで苦しく、その皮膚に視線が行くことが無いように、出された小芋を煮た付きだしをついばみ、ビールを飲んだ。

 そして、いつものように始まった江川の話は、まず長男のことだった。旧帝大の工学部に浪人して入った長男は二回生になり、親に似ずに賢くて、と聞き慣れた語り口で、将来は大学院に行ってIT産業に勤めたがっている、といった話しをひとしきりしている間、彼はひたすらジョッキのビールを舐めながら飲んでいた。それから、¬国立は無理だったが、名前の通った私大に入ってくれた次女は、彼氏ができて、夜が遅くて心配だといい、子育ての苦労から開放されたワイフは、近所のママさんコーラスと卓球に忙しくて、しょっちゅういないし、時には有閑マダムと一緒に温泉旅行に行って帰って来ない、「亭主元気で留守がいい」ってことで、自分はこうして飲み歩いているんだ、と語り続けた。「うん」、「そうか」、「それはよかった」、などと適度に相づちをうったところで、江川の話は妬ましいだけで、「ところでお前のところはどうなんだ」と話しの矛先が向くことを恐れた。酔っている間は、聞き流せているものを、酔いが覚めて鬱陶しい気分になったとき、きっと惨めな気分で身の置き所がなくなることを彼は知っている。しかし、とりあえず酔いたくて、江川の了解を得て、黒霧島のボトルを入れ、ロックで始めていた。焼酎はロックで四五杯飲めば、ボトルの方が安くつく。江川も生ビールの中ジョッキを二杯開けると、焼酎を氷の入ったグラスに注いで飲み始め、知らないうちに話題が彼の仕事のことに移っていた。

 一年前に会ったとき、江川は「会社を変わったばかりだ」と言い、理由というのが、不況で社員のリストラをしなくなってはならないのだが、どこへでも行ける自分がまず辞めるべきだろうと思って身を引いたと言うので、「さすがだな」と言った覚えがある。そして、   

江川の余裕に満ちた語り口に、「そうか、そんな力があるのか?」と思わず聞き返していた。

「苦労して簿記も習ったからな。経理ができるってのは、会社でも重宝がられるんだな、これが。それに俺にはMBAがある。知ってるよなMBA」。

「MBA?」

「経営管理学修士のことだ。K大学の大学院でとったんだが、週末や夏休みを使ってわざわざ東京まで行って、あしかけ四年かかった。国立大学出ておいて良かったとつくづく思ったね。大学受験ってのは、無味乾燥でつまらんちんだがあのときに培った勉強し続けるための辛抱っていうのは一生役に立つ。子ども達にもそう言ってきたしな。それに学士会館に安くて泊まれるから、宿屋については助かったな」というようなことを、得々と語った後、「公務員はいいよな。九時、五時だろ、親方日の丸で」と江川がこれまでに幾度となく吐いてきた台詞に健次郎は鼻白むのだった。

 江川の会社での活躍は、依然めざましいようで、中国でいかに業績を上げているのかを、黙々と語るのだった。彼の会社は上海に支社を持っていて、年の半分は上海に行っているという。

「中国人っていうのは、図々しいぞ。取引先の親父が事務所に入ってきては、ロボットの機密部分教えろ教えろってうるさいんだ。気がついたら機密書類勝手に見られていることがあったんで、でっかい金庫買って中に入れることになった」と江川が話し続けている間、「ほう」とか「ふむ」とか適当に返しているうちに、街を横切る大河が海に注ぐ両岸に西欧風のビルが建ち並ぶいつか見たレトロな写真を思い出していた。戦前、列強が競って中国利権を漁っていた頃、租界地だった上海は魔都と呼ばれていたと聞いたことがある。—魔都—なんと淫靡な調べだろう。アヘン窟でキセルを吹かす中毒者、愛と憎悪、権謀術数のうごめく海の向こうのシャンハイが酔う頭の中でゆるりと巡り始める。魔女のキキが親からの自立を求めて新たに住む街を探しに帚で飛び立った時、雲を抜けるとそこに色とりどりの屋根の玩具のような家が立ち並ぶ美しい街を見つけて、そこで暮らそうと考える。キキが繭美に重なる。繭美がまだ彼の膝に乗ってテレビを見ていた頃、健次郎はいつかこの娘も、巣立って行ってしまうのだろうと寂しくなった。その娘が、健次郎のとても近いところにいながら、姿を見せなくなった。こうして焼酎の杯を重ねている間も、あの娘は闇の中を彷徨っているに違いない。見ることのできなくなった我が娘、一つ屋根の下の秘め事で成り立っている彼の生活。

「なんでもあるぜ、上海は……」

 突然耳に侵入してきた江川の言葉で彼は我に返り「なんでもあるのか?」と返していた。

「近代化で通りはすっかり奇麗になったが、狭い路地に入れば薄暗い迷路さ。どこに行き着くのか、一杯の不安を持ちながら歩いて行けば、やがて、八角の匂いが漂う商店街の一隅に闇市があって、何でも手に入る。バイアグラもあるぞ。本物かよくわからんが……。でそれを手にして、お姉ちゃんがいるところに行くのよ。表向きは飲み屋だけど、奥に入ればなんでもあり、っていう店があるわけ」

 帚に乗ったキキが雲を突き抜けて降りたったのは俯瞰して見えた美しい町並みとまったく様相を異にしたスラム、シャンハイだった。

「なんでもあるのか?」健次郎はもう一度訊ねた。

「ああ、なんでも」

「真空管はあるか?」思わず出た言葉に「まずい」と思った。

「真空管?」

 江川の眉間が怪訝そうに歪むのを見たとき、恥ずかしさで口唇をとうに離れた言葉をなきものにできるならどんなことでもする、と彼は思った。よりによって江川に……。

「真空管なんてどうするんだ? あんな過去の遺物」

 今更口をつぐむわけにもいかず、健次郎は、「アンプに使うんや」と力を込めて言い、恥ずかしさを覆い隠すように語り始めた。「今や、トランジスタに取って代わられてしまったが、真空管が発明されなければ、ラジオや蓄音機、通信機器、テレビも出来なかったはずや。第二次大戦中にアメリカ陸軍が弾道測定を迅速にするために真空管に計算させようとして、膨大な費用を投資して作ったエニアックっていうコンピュータには、一万七千本もの真空管が使用され、それまで何日もかかって計算されていた弾道が、二,三分でできるようになったんだ。残念ながらこのコンピューターの完成は、一九四六年だったから、戦争には間に合わんかったんやが……。真空管がなければ、コンピュータだってできてへんはずや。みんなが軽んじる真空管を、俺達は球と呼んでいるんや。アンプのケージに収まった球を暗い部屋で見たことあるか? あのか弱い透明なチューブの中のフィラメントがそれこそ淡くて温かい光を発する。暗い部屋の中でチューブを見つめていると、光が網膜の毛細血管から血流に染みこんで、体中をほのかに温めてくれる感じがするんや。寿命の短い球が明かりを精一杯放ちながら、僕らを照らそうとしてくれているように思えてならない。球の寿命はせいぜい千時間ぐらいや。球の時代は終わってしもうたからね。中国やロシア、東欧ではまだ生産しているけど日本ではほとんど生産されなくなって……。切れるたびに電化街までそそくさと買いに行って調達しなくてはならないんやが、人気のある球は高うてね。一万円以上するのもある。アナログの音に魅せられている音響愛好家がたくさんいるいうことだが、それこそいろいろな真空管がある。そしてどの真空管もアンプに組み込まれると異なった音色を紡ぎ出すんや。例えば、同じレコードでもそれまで聞こえなかった音が聞こえることがある。真空管は低音域に強いからね。隠れていたコントラバスの音を拾い出してくることがあるんや。レコード板の溝に織り込められた音信号をピックアップカートリッジが拾い出してアンプで増幅するわけなんやが、音を忠実に拾い出すことはたやすいことやない。録音する時、レコード盤の溝に織り込まれたまま再生できずにいる音がぎょうさんあると思うんや。真空管は、音の救世主なんよ……」

 焼酎を飲みながら、江川に語り続けていたはずだったが、江川がそこにいることすら忘れ、彼は暗い部屋で透明なチューブの中に浮かんでいるフィラメントがほんのりと発熱しながら熱電子を放っているのを眺めていた。見える筈もない電子だが、真空地帯を妖精が自由に飛び回っているように思えるのだった。隠されたもの、消え去ったものを引き寄せてくれる妖精。最後に見た我が娘は、何かにおびえているように、自信なげな顔をしていた。そして吸い込まれるようにあの部屋に消え、自分の手で扉をしっかり閉めた。暗い部屋の中で、繭美は何を考えているのだろう。寂しくはないのか。同じ屋根の下に暮らしながら、手の届かないことのもどかしさ、情けなさ、ふがいなさ。空になったグラスに氷を放り込み焼酎を注ぎ込んで一気に飲みほし、再び空になったグラスを見つめた。「何故出てきてくれないんだ、まゆちゃん–––」と、呼びかけたくなった時、何年か前に、北朝鮮に拉致されたことが明らかになった少女がまゆみという名前ではなかったかと、思った。繭美と同じ年頃の少女が忽然と消えた。なんの瑕疵も無いのに、慈しみ育てた娘がいなくなる。正気を保つことなどとてもできるわけがなかった筈の親のことを思った。テレビなどに映し出される白髪の年老いた両親が懸命に救援活動する姿を見みながら、彼は自分の非力をわびるのだった。いつも心のどこかに何かがつかえた感じ。絶望なんていう言葉では表せない歯がゆさ。言葉の無力、言葉なんて無ければ良いのに——。真空管の薄いガラスチューブ。直ぐにでも届きそうなところを隔てる薄いガラス膜。なのにガラスを破れば、全てが飛散して跡形も無くなる。隠された秘めやかなものを浮き上がらせてくれる真空管。無力な言葉にそのか弱い球が力をくれる……。

 傍らにいることをすっかり忘れていた江川に「真空管はないか? 上海に。北朝鮮製の?」と口走っていた。

「北朝鮮製の真空管? 北朝鮮が作っているのなら、あるだろうな。中国にも流れているだろう。どうするんだ?」

 また、馬鹿なことを言ってしまったと思うのだが、羞恥を厭っているわけにはいられなかった。

「きっと良い音色が出ると思うんだ。隠れた音が、優しい音色になって浮かび上がってくるように思うんだ……」

「ふふふっ」と江川は笑って、「ハイテクをひたすら追求している俺とはえらい違いだな。そういうお前のアナログ的なところ、コームインだっていうの。進歩についていこうっていう気さらさら無いだろ。親方日の丸、気楽な商売だな。ああ、探してきてやるよ。来月、上海に行く。中国政府の招きだ。工場を作って欲しいのだそうだ……」

 酔いで感受性が麻痺していて、江川の棘のある言葉を歯牙にかける必要もなかったが、酒が切れた早朝、覚醒して眠れなくなたところに、反芻される江川の言葉が蘇ってモーニングデプレッションをひどくさせる予感がした。そして、やはり江川に会わなければよかったと、思うに違いなかった。それより、江川の目つきがすっかり変わって、酔いが深くなっているのがわかった。明日になれば、江川は真空管のことなどすっかり忘れてしまっているだろう、素面の時に電話して、確認しようか、などと考えながら、グラスを口に運んでいると、焼酎を飲み切ってしまい、お開きにすることになった。

 駅で別れたとき、時計の針は、十一時を指し掛けていた。帰りの方向が違ったので、線路を挟んでプラットホームに立つ格好になった。通勤者の帰宅時間をすぎても夏の夜は蒸し暑く、肌にまとわりつく湿気が、不快だった。左方向から電車が徐行しながら入ってきた。彼は別れの挨拶に「よっ」と江川に声をかけようとしたのだが、酔いが回わり、立ち方もしゃんとしない江川は、健次郎の方に視線を移すことは無かった。ゆっくり停止した車輌が右方向に消えていった時、対面のプラットホームには誰もいなかった。

 

 健次郎がホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ時、客がほとんどいない車輌の端の壁に身体をもたれかけさせるようにして、横顔だけをこちらに向けて寝ている若い女をみつけ、目を疑った。

 まさか……。

 ゆっくりその女に近づいてみると、まぎれもない、恵梨香嬢だった。昼間彼を介抱し、すっかり疲れてしまったのではないだろうか、余分な仕事をさせてしまったために、帰りを遅くさせてしまったのではないだろうか、と彼は思った。眼下に薄く開いた形の良い唇が蛍光灯の光を淡く受けて、無防備に寝ている若い女がいる。酒臭さと汗臭さをまき散らしていることを自覚している彼は、不快感で恵梨香嬢が起きてしまうことを恐れながら、彼女の顔を斜め前に眺めるようにして座った。薄いピンク色のブラウスの襟元のボタンが一つ開いていて、僅かに垣間見られる白い下着と薄紅色の肌を覗かせ、膝上で終わっているベージュのスカートから伸びている長くてほっそりとした足がいささか大胆に開いて、アンニュイな色香を醸し出している若い女がいる。仕事中は保健師のユニホームをまとっててきぱき働いている健康的な女とは違った、熟れはじめた女がすぐ触れることのできる位置にいた。触れてしまえば、何もかもが消え去ることを彼は知っている。恵梨香嬢の寝顔を彼は静かに見守りながら、もし彼女が目を覚ましたら、なんて声をかけたらいいのだろうかと考えているうちに降りなければならない駅に電車は近づいて行く。恵梨香嬢が車掌のアナウンスに呼応して目を覚ますことを恐れた彼は慌てて立ち上がり、彼女と視線が決して合わないところの席に何事もなかったかのように座った。中年男の好色な視線に晒されていたことを知れば彼女は傷つくに違いないし、彼を厭うようになるだろう。彼は駅に着くと後ろを振り返ることもなく電車を降りた。


 

 辻田が、江川の訃報を電話で知らせてきたのは、その五日後だった。高校の同級生で大卒後に県庁に入職した辻田は、今、県税事務所で次長をしている。高校時代それほど仲がよくもなかった辻田とは、同じ県職員ではあったが、懇意にすることはなかった。辻田は高校時代、江川と軽音学部で一緒に活動していて、年賀状のやり取りをしていたために、江川の父親から訃報の連絡があり、同級生のよしみで健次郎にも連絡してくれたのだった。ファックスしてもらった告別式の知らせを手にして、彼は首をかしげた。死亡日が、江川と飲んだ日の午前零時頃となっていたからである。そして、喪主が父親になっているのも不可解だった。その日、次年度予算要求のための財政資料を完成させなければならなかった彼は、作るだけ作って、通夜に出かけるからと庶務係の女の子に喪章と数珠を借りて役所を出ることにした。翌日の告別式には出席がかないそうになかったからだ。

 

「事故死っていうことになっているが、自殺だと思うよ……」

 通夜の帰りに精進落としをしようと彼は辻田に誘われ、駅前の居酒屋に入った。江川の父親が語ってくれたところでは、自宅の最寄り駅のプラットホームから降りて線路上で寝ていたところ、最終電車が入ってきて轢死したというのだ。としたら、健次郎と飲んだ後のことになる。

「遺体の血中アルコール濃度が異常に高かったので、事故死なのか自殺なのかの検死に手間取っていたというのだ。プラットホームから落ちたとしたら、身体のどこかに外傷のようなものがあっていいはずなのだが、あいつ、線路を枕にして横たわっていたらしい」と辻田は言い、意外にも「江川はもう何年も前に離婚していて、嫁さんも子どももとうに家を出てしまっていたらしい」と続けた。

 健次郎は喪主が父親だったことにようやく合点がいく一方で、あれほど妬ましいと思ってきた江川の家庭が、いつの間にか崩れていたことを知り、しかも、その死が自殺だったかもしれないと聞いて動揺しはじめた。江川のいかにも家族円満でうまくいっているという話は作り話だったことになる。あの日、江川が健次郎を酒に誘ったのは、別れを告げたかったからなどということはまさかあるまい。別れた後、自殺を決意したとしたら、江川を傷つける発言が彼にあったのだろうか。しかし、聞き役だった彼が、唯一語ったのは、真空管のことだけで思い当たる節はまったくない。それとも、酔いの中で、何かを言ってしまったのだろうか。江川の死に自分が絡んでいるように思えて、彼は自分を責め始めていた。そして、彼が求めていた北朝鮮製の真空管が手に入る見込みが江川の死とともに消えたことに無念を覚え、その死が自殺だったかもしれない、という憶測が、彼の脳の襞をかき分けかきわけしたずっとずっと奥の方で生命体のようなしこりになって淡く発光し始めた。そのしこりに酒精を注ぎ込み溶かしてしまいたい欲求に駆られる。しかし、どれだけ飲んでも、その一点を酒精は迂回するように避け、彼の酔いに歯止めをきかすように悪さをした。しこりが、触れることができるものなら、してみろと彼を挑発し、彼は杯を重ね続け、何かがぷちんと音を放って切れるのを感じた。

 

 左側頭部こめかみあたりから髪の生え際にそって耳まで綺麗に剃られてむき出しになった白い皮膚にメスが立てられ、さっと左から右に引かれ血がすーっと滲み出て線になると急停止し、今度は垂直に下がり、そして直角に左に走って停止するや、ピンセットの先が皮膚の端をつまみ剥がしはじめ、メキメキと音をたててぺろんとめくりあげられ、白い頭蓋骨が長方形にむき出しになると、電動ドリルのギーンという金属音が響きはじめ、骨の四隅四隅に空いた小空に、のこぎりの歯が挿入されて、四個の穴を繋ぐようにギーという音を立てて切り進み、すこんと骨が取り外されると、血にまみれて光る硬そうな膜が露わになり、その膜にはさみが入って切り開かれた後、透明な液体に漬かった白っぽくてわずかに桃色に色づく粘膜の表面に細く青黒い血管が這っており、さらにハサミは粘膜を切り裂いて、白子のような色をした脳があらわになると、流れ出る液体に躊躇することなく、ハサミの刃が入り、脳表面の陰唇に隠れたような切れ長のY字の形をした割れ目がいくつも晒し出され、思わず分け入りたくなる衝動に駆られると、それを知ったかのように鉱がその割れ目を開くように挿入され、美麗なピンク色の粘膜にぽっかりと空いたホールが佇むように露わになり、入り口に肉色の襞のあるその奥底を覗き込もうとすると、漆黒の闇に覆われたそのホールに鉗子が突き刺され忍び込み、すぐにスーと引かれ出てきた物体は、彼がこれまで見たことのない奇形の茄子のように歪んだチューブの真空管で、「それをください」と言いかけたとき、鉗子に挟まれた幽かにオレンジ色に光るフィラメントごと、チューブが音も立てずに砕けたと思いきや視界に青い粒子が散った。それから、なにかに煽られる気分がし、彼の耳をつんざくようにプロペラ音がけたたましく鳴りだした。


 どこだろう。獲物を狙い澄ますようにホバリングするヘリコプターの下方に青いシートに覆われた家が見える。風圧でシートが煽られる度に、露わになるのは、モルタルの黄ばんだ白壁で、それはまぎもない見慣れた彼の家、彼の家族が住む家だ。雨戸で閉じられたままの二階の部屋に繭美はきっといるはずだ。ヘリコプターが狙っているのはなんなんだろう……。

 彼の後方にサイレンの音が鳴り出し、振り向くと、救急車が猛スピードで近づいてきて傍らを通り過ぎ、その行く先を追うと、彼の家の玄関口あたりでするりと止まり、サイレンの音がさっと消えた。

 ———何があったのだ?

 鼓動が耳の中で高鳴るのを感じはじめる。その時、長らく閉じられていた雨戸がすっと開いて戸袋に消えたと思ったら、無数の蛾のような羽虫が一斉に解き放たれるように飛び出してきて、ヘリコプターが作る風流を迂回するように上空を目指していくのが見えた。これでもかというくらいに窓から飛び立つ羽虫の流れが帯をなし天空に向かい、曇った空一面を埋め尽くすように黒いドットがさらに暗くし、羽虫の帯が窓から消えた時、恵梨香嬢が顔を出した。何故あんなところに彼女がいるのだ、全てを知られてしまったのだろうか、と羞恥に気がそぞろになりそうになると、玄関口に止まっていた救急車が向きをくるりと変えるなり、再びサイレンをかき鳴らしながら猛スピードで健次郎に向かって近づいて来て、佇んでいるままの彼を尻目に走り去って行くのを目で追った。そして、視線を家の方に戻すと、エリカが彼の方に向かって猛然と疾駆して来るのが見え、彼の足下に来るとまとわりつくように何度か回り、いつものようにお腹をさすってくれと、地面に転がって白い腹を露わにした。彼が腰を下ろして、その柔らかい腹を撫ぜてやっていると、いつの間にかコニタンが傍らにいたので、なぜコニタンまでここにいるのかと訝り、エリカの腹を撫ぜながら「やあ、久しぶり」と言ってみた。

「課長、な、な、何していたんや。こんなになるまで」と詰問口調で口をとがらせ、「ま、ま、まゆみさんが」とコニタンの言葉がそれ以上続かないのは、激しく怒っているからで、救急車で運ばれていったのはまぎれもなく我が娘であり、危険な状態に陥ったに違いないと確信に近いものを感じ、どうしたらいいのかと、混乱し、絶望的な気分になった。その時、二階の窓から彼を見ている恵梨香嬢と視線が合い、そして、家の玄関口には八幡神社でお百度を踏んでいるのを見て以来、まみえることの無かった沙代子が、さらにやせ細って、青白い顔で立ちすくんでいた。きっと、泣いているに違いないのだが、涙を確認出来る距離にはなかった。

「何しているんだ」立ち上がろうとした彼にコニタンが右足で蹴りをいれてきたので、咄嗟に後ずさって避けようとすると、バランスを崩して、地面に尻餅をつくように倒れてしまった。

「は、は、早く」救急車を追いかけろとコニタンがけしかけているのがわかって、彼がよろけた身体を反転させて身を起こそうとして、両手で地面を支えると、熱さが身体に染み入り心臓から腹にまで伝わるのを感じた。この大きな大地が自分に力を与えてくれそうで勇気が沸き始め、思わず接吻したくなったが、コニタンの手前そうするわけにもいかず、立ち上がってとぼとぼと走り始めると、エリカが彼を先導するように走った。エリカは、少し走っては、彼の方に戻って来て、また、先の方に走って行くということを長い舌を口の端から垂らしながら、うれしそうに繰り返していた。ゆっくり走っていた彼は、救急車が走り去った方角に向けて、次第に真剣に走り始めた。走りながら俺は、いつもフィットネスで鍛えているから、きっと走りきれるに違いない、と僅かな自信が芽生え、救急車が繭美を運んで行ったということは、あの娘が生きているということなのだから走ればきっと会える、だからどこまでも走るんだ、と彼は自分に言い聞かせた。

 彼が、走りに走って、どれだけ走ったかと後にした方角に目をやった時、曇り空一面に羽虫でできた無数のドットが羽ばたく大きな鳥のような形をなしていて、そこだけ光が射し出し青空が覗き始めていた。ヘリコプターはどこかへ飛び去っていて、その巨大鳥に見守られるかのようにブルーシートに覆われた彼の家が、小さく佇んでいた。

                                  (了)


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