“愛する妻へ”
アリーアへ
この手紙が君の元へ届いていると言うことは、きっと僕はもうこの世にいないのだろう。君には生まれて此の方迷惑しかかけていないような気がする。本当に申しわけない。これからもきっと君に辛い思いをさせるのだろうけど、僕の友人達に君を頼むと頼み込んでおいた。きっと助けてくれるはずだから、どうか一人で抱え込むような事だけはやめてほしい。
死んだ僕に遠慮なんてしなくていいから、素敵な人が見つかったら再婚して、今度こそ幸せになってください。僕は君の幸せだけを願っています。
あと、こんな事を頼むのは本当に心苦しいのだけれど、僕の両親を時々気にかけてやってくれ。母は足が悪いから、誰かの助けが必要なんだ。永遠に君に頼れるわけではないことくらいわかっているけど、こればかりは君にしか頼めなくてーー
「ロン、お前さぁ………奥さん宛の遺書でこれはねぇよ」
「うわぁ! し、シリウス!? お前なんでこんな所に……」
一心不乱に机に向かって羽ペンを動かしていた僕は、突如かけられたその声に思わず仰け反った。驚かさな、ノックもせずに部屋に入ってくるな、などなど言いたいことは山ほどあるが、今はそんなことより書いていた手紙の内容を読まれたことへの羞恥心が勝る。
「なんだっていいだろ?! 僕の……遺書、なんだから」
「こんなこと書いちゃってさぁ、もうちっとアーリアちゃんを気遣う事でも書けよな。お前らもう夫婦だろ?」
「か、書いてるじゃないか。再婚のこととか……」
これは遺書だ。僕は1ヶ月後に兵士として戦地へ赴かなければならない。万が一の場合に備えて、こうして家族や友人宛の遺書を書いていた。
しかし僕の妻、アーリアへの遺書はなかなか筆が進まなくて、何枚も書いては握り潰し書いては握り潰しを繰り返している。その上、必死に書いた文章は親友こらこの言われようだ。ムッとしたが、確かにシリウスの言っていることも事実で、僕は唸るしかなかった。
「そうじゃなくて、もっと言うことあんだろ? 「死んでもずっと君だけを愛してる」……とか?」
「うるさい大きなお世話だあっちいけ」
一息で言いきると、僕は大きく溜息を吐いて頭をかいた。
僕と妻のアーリアは幼馴染みだった。
僕はこれでも結構な広さの領地を治める子爵の跡継ぎで、アーリアは過疎の進む田舎町で数少ない子供のの1人。同い年の友人は彼女一人だったので、僕たちはいつも二人で遊んでいた。
アーリアは幼い頃からそれはそれは器量が良く、首都でも通用する美人と評判の子供だった。蜂蜜色のブロンドの髪の毛は絹糸のように細く艶やかで、整った顔に輝く瞳は深い湖の底を思わせる蒼。長いまつ毛が影をおとす頬はほんのりと色付き、まるで女神の生まれ変わりのようだと町の大人たちは彼女を褒め称えた。
それに比べて僕ときたら、傷んだ赤銅色の髪はくせっ毛であちこち跳ね(くせっ毛だけでなく寝癖も含まれている)、日に焼けた顔にはそばかすが散っている。垂れた緑色の目は濁っていてまるで澄んでいない。チューブの絵の具を水で溶かずに塗りたくったような色だ。
チェスと昆虫標本作り(以前各地を放浪する珍しい種類の美しい蝶が近隣の森にいたので標本を作ってアーリアにあげたらとても喜んで貰えた。)しか特技がない子供だった僕と、歌が得意で才色兼備を絵に描いたようなアーリアとではとてつもなく釣り合いが取れていなかった。
父のお下がりであるブカブカの外套を着込み、アーリアに手を引かれて隣町の学校へ行き、苛めっ子達からアーリアに守られて1日をやり過ごして、アーリアと共に帰宅する。(実は苛めっ子達はアーリアの事が好きで、僕に嫉妬していただけだった)
年頃になってくると、いよいよ僕もアーリアを意識せざるを得なくなって素っ気ない態度をとってしまったこともある。アーリアはそれでも「ロンは私がいないと何にもできない」と言って僕と一緒にいてくれた。
アーリアが学校で告白されているのを何度も目撃した。自信がなくて、告白もできない僕は悔しくて下唇を噛み締めていたのだが、当のアーリアは告白を丁寧に断って、また僕の手を引いて帰り道を歩くのだ。
以前、僕が「告白を断ってしまってよかったのか」と聞いたら、何故かアーリアは不機嫌になって口を聞いてくれなくなった。あれ以来僕はアーリアに告白の話をするのをやめた。
田舎町の学校を卒業してから、僕は首都の高等学校へ進学する事になっていた。これでも勉強だけは頑張っていたので、ようやく努力が実ったのだ。
アーリアは地元で実家のパン屋さんの手伝いをする事になっていたが、僕はとてもそれが気がかりだった。いくら田舎だからって当然同年代の男はいるし、隣町からアーリアを追いかけてくる輩だっている。僕が大学へ行っている間に、アーリア誰かと恋人になってしまったらと考えると冷りと胸が凍るような気がした。しかし「待っていてくれ」だなんて僕が言えるはずもなく、楓の葉が紅く色付き始めた夏の終わりにひっそりと逃げるようにして町を後にした。何から逃げるのかって、勿論アーリアに恋人ができたら云々から。もう考えたくもなかった。
大学ではシリウスに出会った。チェスのサークルでたまたま顔を合わせ、意気揚々とチェックメイトを告げた僕にシリウスが食い下がってきたのだ。こいつはとんでもなく負けず嫌いで、毎日僕と対戦しては負かされて「もう一回!」と叫んでいた。あれはなかなか愉快だった。
クリスマス休暇に入ると、僕は重い足を引きずって地元へと向かう汽車に乗り込んだ。その時、何故かシリウスも僕の地元が見てみたいと言って付いてきた。帰省中にまでチェスの対局を挑まれると思うとゲンナリしたが、両親は僕の友人となれば喜んで歓迎するだろう。なんて言ったって僕は今まで友人と呼べる人間がアーリアしかいなかったから。
汽車を降りると、都会育ちのシリウスは目を丸くしながらキョロキョロと辺りを見回していた。田舎がそんなに面白いだろうか。
僕の家から使いの馬車が来ていたからそこに乗り込む。御者のお爺さんは昔から家に仕えてくれていて、制服姿のまま駅から出てきた僕を見るなり「ご立派になって」と涙ぐんだ。そんなに変わっていない気がするのだが。
子爵家の邸宅は、下手したら僕の通っている学校の校舎より年季が入った建物で、古い事だけが取り柄のような家だ。あと土地が腐るほどあるので無駄に広い。これまた都会育ちの友人は大はしゃぎだった。
僕の思った通り両親はシリウスを歓迎した。シリウスはその人当たりの良さから両親のお気に入りとなり、何故か久々に顔を合わせる我が子より手厚い待遇を受けていた。解せぬ。
そして、昼過ぎにアーリアが訪ねてきた。正直、僕はシリウスとアーリアを会わせたくなかった。シリウスは男の僕から見てもなかなか端正な顔立ちをしているし、愛想もいい。街に出れば女の子を口説いて歩くような男だ。今でもどうして僕とこいつが友人になったのかよくわからない。
シリウスは僕が思ったとうり、歯の浮くような言葉を並べてアーリアを口説き始めた。僕がイライラしながらいつコイツの頭を殴りつけてやろうか考えていると、ふと、アーリアがじっと僕を見ていることに気がつく。僕は動揺して、思わず彼女から視線を逸らしてしまう。久々に会うアーリアは更に美しく成長していていた。
「聞いてくださいよアーリアさん、コイツったら口を開けば貴女のことばかり話すんですよ」
唐突にシリウスが爆弾を投下してきた。僕はギョッとして、間髪入れずにシリウスの脛を蹴りあげる。呻き声をあげ蹲る彼と「何を突然言い出すんだ」「本当のことだろ?」などと言い合いをしていると、アーリアがクスリと笑ったのに気づいて彼女に目線を移す。
頬を微かに赤らませたアーリアが楽しそうに笑っていいた。
「ロンにこんなに仲がいい友人ができるなんて嬉しいです。これからもロンと仲良くしてあげてね、シリウスさん」
なんだか親のような言い方に一瞬ムッとしたが、アーリアが嬉しそうなのですぐに忘れた。彼女が笑っていてくれると僕も嬉しいし、幸せだと感じる。
ちなみにアーリアに彼氏はできていないようだった。僕は心の中でガッツポーズをした。
それから季節は巡り、僕は高等学校を卒業した。
地元に戻り、父から領地経営を学びつつ、仕事を手伝って過ごしていた。相変わらずアーリアに言い寄ってくる男は尽きないが、アーリアが首を縦に振ることはないのだという。僕にとっては幸いだが、不思議だ。
僕らはいつ結婚してもおかしくない歳になった。親が結婚相手を探してきてしまうかもしれない。
僕は夜な夜な悩んだ末に、シリウスに相談してみることにした。女の子へのあれそれならば、これ以上適任はいないだろう。手紙を書き、医者になるべく首都で勉強に励んでいるシリウスへ送る。
返事はすぐにきた。それもこれ以上ないくらい簡潔な一文だった。「ガタガタ言わずに告白してしまえばいい」、と。
どんな美丈夫からの誘いにも首を縦に振らないアーリアが、こんな僕何かからの告白を受け入れる訳がないじゃないか。
その夜、僕は鏡をのぞき込んだ。勿論、ナルシストだからじゃない。
頬に散っていたそばかすはだいぶ薄れているが、冴えない顔が美しくなるわけではない。ハァと溜息を吐いてベットに倒れ込む。
告白。告白か。このままアーリアが他の男に攫われるのを待つくらいなら、いっそ玉砕覚悟でしてみても良いのかもしれない。
アーリアは優しい。でも、本当に嫌ならすっぱり断ってくれるだろう。そうだ。そうして僕らは元通り友達のまま、きっと上手くやっていける。…………本当に?
自問自答を繰り返し、眠れない夜は刻々と過ぎていく。
数日後、アーリアの働くパン屋へフラリと現れた僕を見て、彼女は目を見開いた。焼きたてのバケットが収められたカゴを棚に押し込み、慌てた様子で駆け寄ってくる。
「ロン、どうしたの? 顔色が悪いわ。それに酷いクマ」
「そんなことはいいんだ。……ねえ、アーリア。君、今交際している相手はいる?」
「……突然どうしたの」
何かおかしなものでも食べたの、なんてはにかんで見せる彼女の表情には、少しだけ困惑が滲んでいた。けれど数日ろくに眠れずに彼女のことばかり考えていた愚かな僕は、考えなしに口を開く。
「もし、君に恋人や将来を誓うような相手がいないのならば、僕と結婚して欲しいんだ」
言った。言ってしまった。絶対に場所もタイミングもシチュエーションも最悪だ。店の奥から彼女の両親が目を丸くしてこちらを覗き見ている。パンの香ばしい香りに包まれて言うべきセリフじゃなかった。
口にした瞬間我に返った僕は、声を裏返しながら「返事はいつでも構わないから。もちろん断ってくれたって構わない」と言ってその場を後にした。のんびりと時間の流れる田舎町を駆け抜けて、屋敷へ逃げ帰る僕の滑稽なこと。部屋に戻ると、僕は気を失うようにしてベッドに倒れ込み、そのまま意識を手放した。
その後まる2日寝込んだ僕は、相変わらず青い顔をしたまま執務机に張り付いていた。寝込んでいる間に溜まった書類に黙々と判を押していた時、ノックの音が響く。僕は書類から顔を上げずに「どうぞ」と声をかけた。
扉の隙間から顔を覗かせたのは父だった。父は僕に似ている。いや、僕が父に似ていると言うべきか。ひょろりとしていて無駄に背が高いのも、瞳の色も赤銅色の癖毛も父譲りだ。
そんな父は何やら嬉しそうに顔を綻ばせ、僕の元へ寄ってくる。
「良い知らせだ、ロン。アーリアちゃんから手紙が来た。お前との結婚を了承してくれるそうだよ」
持っている判子をうっかり落としそうになった。
は? 今何と? 咄嗟に声が出なくて、はくはくと口を開閉する。
必死に息を整えて、朱肉の上に置き、動揺を隠せずに父と向かい合った。
「なぜその手紙を、僕ではなく父さんが先に読んでいるんですか!」
「ああ。言っていなかったが、お前が寝込んでいる間にアーリアちゃんがお前に会いに来たんだ。でもお前が寝込んでいると聞いて、後で手紙を届けると言ってくれてな。しかもこの手紙は子爵家宛だ。私だって読む権利はあるだろう?」
「子爵家宛? な、なんで」
「理由は書いてあったぞ。お前宛にすると、たぶんお前は手紙を読まずに数週間放置するか、読んでまた体調を崩すから、と。あの子はお前のことがよくわかってる」
そんなふうに思われてたの? と少しショックを受けるが、確かに彼女からの返事が綴られた手紙と聞けばそうなっていただろう。
……ん? 結婚を、なんて言った?
「と、父さん。アーリアが、僕との結婚を了承してくれると、そう言ったのですか?」
「ああ。だから言ったじゃないか。良い知らせだと」
この後、父の言葉が信じられず……いや、信じたい気持ちと、信じられない気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合いながら、その手紙に自分でも目を通した。そこには確かにあの告白……というかプロポーズの答えが記されている。嬉しさのあまりフラリと体制を崩して壁に激突した僕を見て、母は「本当にロンは父親そっくりなんだから」と笑っていた。
「あー……あの、さ。アーリア? 本当にいいの?」
後日、アーリアの家を訪問して、彼女とご両親に挨拶をした。それからアーリアと思いがけず二人きりになり、微妙な沈黙が流れる。
アーリアは僕の言葉にムッとして、視線をそらした。
「私がいやいや結婚を承諾するとでも?」
「………すみません」
とりあえず謝ることしかできなかった。しかしどんな理由であれ、アリーアと結婚できる事が嬉しくて、この時僕は舞い上がっていたんだ。
「でも、さ。我ながら酷いプロポーズだっただろ? あの時の僕、寝不足でちょっとおかしかったんだ」
「そうね。自分は言いたいだけ言ってこちらの返事も聞かずに帰るなんて、私に対して失礼よ」
「ごめん……」
そっぽを向いてしまった彼女に謝り倒していると、僕と視線を合わさないまま、アーリアが言った。
「私に恋人がいないから、私と結婚するの?」
「え?」
「そんなに謝るなら、もう一回ちゃんと私に告白してみせて。ちゃんと頷いてあげるから」
陶器のように滑らかな頬をほんのりと赤く染め、潤んだ瞳が僕を見上げた。心臓が痛いくらいに大きく跳ねて、顔がほてる。たぶん、この世で1番情けない顔だ。喜びで満たされた頭を必死に動かして、僕は口を開く。
「ずっと、君が好きなんだ。君以上に好きな人なんてきっとこれからも現れない。僕は君に少しも釣り合わない。でも、それでも、君の隣には僕が立ちたいんだ」
僕がそう言いきると、アーリアは両手を伸ばして僕に抱きついた。花みたいな甘い香りが鼻先を掠める。僕がその衝撃に慌てふためいていると、アーリアは涙の滲む声で、けれど確かに嬉しそうに笑って言った。
「ばかね。今まで私の隣にいたのはあなただったじゃない。これからもずっとそう。大好きよ、ロン」
たぶん、いや絶対に、僕以上に幸せな奴なんていない。そう確信しながら、僕は震える手で彼女を抱きしめ返す。愛おしいって、きっとこの感情だ。この人のために僕は尽くそう。彼女の安寧を守り続けよう。
そのためならば、僕はなんだってできる気がするんだ。
結婚式は盛大に行われた。刺繍の施された古風なウエディングドレスに身を包んだアーリアは、もうこの世のものとは思えないほど美しく、可憐だった。
僕は彼女を見た瞬間に情けなく泣いて、アーリアは苦笑いを浮かべながら僕の頭を撫でてくれる。子供の頃と変わらないアーリアの笑顔は、今までにないほど輝いて見えた。
けれど幸せな日々はそれほど長く続かない。
半年ほど経つと、この国は戦争を始めたのだ。僕が首都にいた頃から、以前から仲が良いとは言い難い隣国との関係が悪化しているという噂は囁かれていた。だから驚きはしない。しかし、ついにその時がやってきてしまったのだという絶望と悲壮感が街には漂っていた。
僕はこれでも子爵家の息子で、国に忠誠を誓う身である。戦場へ向かわねばならない。
徴兵を命じる通知が家に届いた時、アーリアは泣いていた。ベッドにへたりと座り込んで、両手で顔を覆い、声を殺して泣く彼女に、僕は何と声をかけるべきだったのだろう。
そりゃあ僕みたいなのが戦争なんて行ったら一瞬で消し炭にされてもおかしくないけど、まだ死ぬと決まったわけではないんだ。僕だって死にたくないし、できるだけ頑張るよ。きっと大丈夫さ。
アーリアの隣に座り、そう言って抱き寄せてみたのだが、アーリアは真っ赤に泣き腫らした目で僕を睨みつけてきた。
「頑張るって、何を? 優しいあなたが人なんて殺せる訳がない! 殺されに行くようなものだわ!」
ひどい言われようだが、一理どころか百理ありそうだ。嘘で誤魔化せない僕は、力いっぱい彼女を抱きしめ、震える体をさすってやった。
アーリアはさらに涙を溜めて僕を見上げて、それから胸に頬を寄せる。その動作が痛々しくて、それと同時に愛おしくて。
こんなに幸せなのに、死ねないなぁ。
寄り添った体温を確かめるみたいに、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
出兵の為に軍部へ向かう日は、今にも雨が降り出しそうな厚く黒い雲によって空が覆われていた。
手続きのために受付へ向かうと、そこには同じように徴兵された若者でごった返している。シリウスは医者の卵でもあるため、今回は徴兵されていない。各種手続きを終え、最後に窓口で手紙の束を受付に差し出す。これは事前に用意していた遺書だ。まずは軍部で保管され、僕が死んだら遺品や死亡届けと共に遺族に渡される。
僕は海軍に所属し、これから訓練を受けて実際に艦に乗り込むらしい。陸地での銃撃戦よりは幾分気が楽な気がする。戦争に楽も何もないけど。
こうして、僕の地獄の日々は始まった。
………結論から言おう。戦争は僕の国が勝った。故郷は田舎過ぎて敵からの爆撃の被害も少なかったらしい。みんな無事だ。
僕はというと、乗っていた戦艦が敵に沈められて、戦艦から漏れ出した石油が浮かぶ海を2日浮かんでいた。寒さで凍え死にそうになったり、鱶に怯えたりしながら、浮かぶ木片にしがみついて夜を明かした。日が登ると敵の艦がやってきて、浮かんでいた僕らを回収した。
それから捕虜として敵国に捕らわれて、土木だとか工場だとかで働かされた。ろくな食事も与えられず、飢えと疲労は常に体を蝕んだ。地獄のような日々の中で、仲間達は次々と倒れていった。
ある日、僕は高熱を出し、意識が保てなくなるような夜を過ごした。「ここまでかも」と死を覚悟したが、結局僕は死ねなかった。この時、生き残ったことをショックに思っていた僕は、おかしくなっていたんだとおもう。
しばらくすると、僕や生き残った仲間たちは貨物列車みたいな車両に乗せられた。どこへ向かっているのか、いよいよ処分されてしまうのかも。そんな予想は外れ、僕らは森の奥ほ檻に入れられて、死んだように寝て1日を過ごすしかなかった。それでもまだ死ねそうにない。僕の体は案外丈夫だったんだなぁと、この時思った。健康に生んでくれた両親に感謝しなくちゃ。ああ、母さんが焼いたアップルパイが食べたいな。父さんと、あの穏やかな湖畔へ釣りへ行きたい。アーリアの、笑った顔が見たい。
僕らが捕らえられてから、半年ほど経過した頃。僕はもう祖国では死んだものとして扱われているんだろうな、と考えながら1日を過ごす。ずっと、ずっとアーリアのを思い出していた。
祖国が戦争に勝利しても、僕たちはすぐには帰れなかった。勝利していた、ということを知ったのも国へ戻ってから。僕たちは、かろうじて生きてるみたいな状態で、永遠にも感じられるような時間を過ごした。もう帰れないのだろうと思っていた。
ある日の夢に、アーリアが出てきた。彼女は泣いていた。笑って欲しいのに、なかなかこちらを向いてくれなくて。肩を震わせるアーリアを、黙って眺めていることしかできなくて。夢の中でくらい、彼女を抱きしめたかったのに、なんて思いながら目覚めた僕の母には、涙の跡がついていた。
それからまた半月ほどたって、信じ難いことに祖国から迎えが来た。頭のおかしくなっていた僕は、そいつらが敵で、僕を騙して殺すのだと思った。本気でそう思って抵抗したのだ。けれど祖国からの使者は本物で、牢獄から連れ出された僕は久々に医者に見てもらい、まともな食事をとり、ちゃんとしたベットで寝た。涙が出た。やっと人間に戻れるのだと。僕は家族のもとへ、彼女の元へ帰れるのだと。
僕が再び祖国の土を踏んだのは、優しくて温かな日差しが降り注ぐ、穏やかな春の日のことだった。船から降りた先には、兵士たちの家族が待っていた。
そこにはアーリアや僕の両親の姿があった。母は泣いて、僕の名前を何度も何度も呼んで。父はそんな母を抱き寄せながら目に涙を溜めて。
アーリアはーー僕を見た瞬間に僕に駆け寄り、震える手で僕に手を伸ばす。僕は冷たいその手を握りしめ、彼女を引き寄せ抱きしめた。久々に会ったアーリアはすっかり痩せ細ってしまっていた。輪郭を確かめるみたいに僕に触れて、首に腕をまわす。
アーリアは泣いていた。
夢の中に現れたアーリアとは違う。だって、僕はアーリアに触れることができて、その体を抱きしめられるのだから。
「おかえりなさい………おかえりなさい、ロン」
「ただいま、アーリア遅くなっちゃってごめんね」
「そうよ! 遅い……遅すぎるの。…………でも、生きて帰ってきてくれて私……私……!」
辛くて辛くて、何度も死にたくなった。だけどやっぱり死ななくてよかった。
僕が死んだら、誰がアーリアを抱きしめるんだ。生きて、アーリアのそばにいられる事がどれほど幸せか。
「ねえ、アーリア。僕の遺書ってやっぱり読んだ?」
「………読んだわよ。何、あのふざけた手紙。あんなの、遺書じゃなかったら火にくべて燃やしてたわ」
どうやらアーリアにはお気に召していただけなかったらしい。シリウスにもダメ出しされていたしなぁ。
「アーリア、僕ね。あんなこと書いたけど、僕が死んで、アーリアが他の人と好き合うなんてやっぱり耐えられないんだ」
「…………うん」
「君を幸せにするのは、僕がいい」
「……うん」
「僕はずっと昔から、アーリアを愛してる。これからも先も、死ぬまで。だから、僕の妻としてこの先も一緒にいてください」
「ええ、もちろんよ」
アーリアは、そう言って笑った。細めた目尻から流れ落ちた涙を拭ってやって、それからキスをする。額を合わせて、鼻先をすり合わせ、見つめ合う。
「私も、ずっと愛してるわ。ロン」
泣き笑いを浮かべながら、アーリアは僕にそう言った。
もう、幸せでとけてしまいそうだ。
アーリアをギュッと抱きしめて、それから口づけを落とす。
美しい君の顔は、幸せそうに笑ってくれていた。
ちなみに、それから僕がアーリアへ手紙を書く時は決まって同じ言葉を綴るようになった。
“愛する妻へ”
ってね。
勢いで書き上げたので至らぬ点が多々あると思いますが、読んでくださってありがとうございました。