言えない二文字の言葉
物心ついた時にはもう私の足はヒロくんを追っていた。
ヒロくんは私の隣の家に住んでいる二歳上の男の子だった。
にこにこと笑顔を浮かべていていつも優しかったヒロくん。どこへ行くにもヒロくん、ヒロくんとついて回る私を邪険にもせずに、手を引いてくれていた。兄妹みたいね、とお母さんもヒロくん家のおばさんも笑っていたから私はヒロくんを兄なんじゃないかって思っていた。それを言われる度にヒロくんも私の方を向いてちょっと擽ったそうに笑うから、なおさら。
小学校に入学しても行きや帰りはもちろん、休み時間だってしょっちゅう会いに行った。友達はいたけれどやっぱり私にはヒロくんが一番だった。友達と遊びたい時もたくさんあっただろうに、ヒロくんはきまってそんな私を笑って出迎えてくれた。時にはヒロくんの友達に混ざって鬼ごっこやかくれんぼをしたりもしていた。ヒロくんは優しい私の自慢のお兄ちゃんだった。
でも、違った。
ヒロくんは私のお兄ちゃんじゃなかった。
きっかけは小学四年生の時。友達の美穂ちゃんが私を嘘つきと言い出した。ヒロくんと私は血が繋がってないから兄妹じゃないって。他の子達も確かにそうだよね、なんてひそひそ言い出して、結局それは担任の友子先生が、二人は兄妹じゃないけれど兄妹みたいに仲良しさんなんだよ。だからそれは嘘じゃなくてね、仲良しだって言いたかっただけなんだよ。って言ってくれて、事態は収束した。その後クラスでは、一時期仲の良い人同士で私達兄弟だって言うのが流行った。
みんなはそれでその時は終わりだったけれど、私は友子先生にまで兄妹じゃないと言われたのがショックだった。
でも一番ショックだったのはそのことを家に帰ってからヒロくんに言ったときの反応。ヒロくんは驚いたように目をぱちぱちっと瞬かせて、僕達は兄妹じゃないよって言ったこと。あの顔、今でもよく覚えている。じゃあ何って聞いたら友達って当たり前みたいに即答されたのも。その時ヒロくんは兄っていう枠からふらふら抜け出してしまったけれど、だからといってヒロくんが友達の枠にすっぽりと収まるってわけにはいかなかった。今までヒロくんが友達なんて一度も思ったことなかった私には急にヒロくんが友達、というのは何だかおかしな気がしていたのだ。
あの時からヒロくんは私の中でお兄ちゃんから宙ぶらりんな立ち位置に変わった。
二度目の転機は小学五年生の時。段々と周りのみんながブラジャーをつけ出すようになって、胸がふくらんできた私も例に漏れずスポーツブラをつけるようになった。その頃になると私はヒロくんからだいぶ足が遠ざかっていた。けれどだからといって関係が切れちゃったわけじゃなくて、ヒロくんは中学生になったから行き帰りは違うようになったけれど放課後は遊ぶし時々夕飯も一緒に食べていた。
友達との話題は遊びから好きな男子や恋愛の話なんかに変化していっていて、サッカーがクラスで一番上手な佐藤くんが好きとか隣のクラスの森下くんがかっこいいとかばかり聞いていた。私は男子とも普通に仲が良かったけれど一番は変わらずヒロくんだった。友達にもヒロくんとのことがからかわれるようになって、ラブラブ、フウフ、などと言われるようになった。私と言えば、からかいには否定を一応していたものの特に気にしていたわけじゃなかった。一言で言えばヒロくんはそんな対象じゃない、みたいな風に思っていた。
その年の夏、保健の時間に男子だけ体育に変更されて、女子だけ教室で月経の話を聞いて私は初めて赤ちゃんができる仕組みを知った。早熟な子はもう月経がきている子もいて、私の友達では恵美ちゃんがそうだった。恵美ちゃんは照れたように赤ちゃんと何度か呟いていた。私は急に今年一歳になる従弟の笑顔とあのふくふくとした肌の感触と抱いたときの温かな重みを思い出した。恵美ちゃんが突然大人びてしまったように感じた。大きくなってしまった恵美ちゃんに、私はどうしてか中学生になって制服を着たヒロくんが思い浮かんだ。中学生っていうだけで、どうしてあんなに大人になってしまったように見えるのだろう。
永遠に埋まらない二年の差がとても大きいのだと私はやっと知ることができた。
月経がくると大人になるという幻想が崩れたのは案外早かった。
その年の秋には私には月経が訪れた。その日は日曜日だった。トイレにいくとパンツの真ん中が真っ赤になっていて、それを見た途端じんわりとお腹が痛くなってきた。怖くなってお母さんを呼ぶと、あなたもようやく大人になったのね、と笑っていた。笑っているお母さんがわけもなく急に憎らしく感じた。その日の夜はお赤飯で、たまたま私の家で夕飯を食べることになったヒロくんがお赤飯美味しいね、とにこにこと笑って言った。
その時、何故だか急に宙ぶらりんだったヒロくんがすっぽりとある枠の中に収まっていくのを感じた。お兄ちゃんでも友達でもない枠。けれどそれが何なのかわかったのはもっと後になってからだった。
私が中学生になった時、ヒロくんとの関係は随分と変わってしまっていた。
ヒロくんと遊ぶことがなくなった。ヒロくんと夕飯を食べることがなくなった。ヒロくんと話すことがなくなった。私が入学した時にはヒロくんはもう中学三年生だった。私が中学生になった時に大人だと思っていた中学生が実はまだまだ子供だったことがわかったから、今大人に見えている中学三年生だってきっと子供なんだろうって思うのにたまに見かけるヒロくんはとても大人に見えた。そしてまた同時に遠くも感じた。風の噂でヒロくんが相当遊んでいると、聞いた。中学生になるとみんな噂好きになる。たくさんある噂の中でも、ヒロくんの話題は尽きることがなかった。素行が悪いとか女好きっていう悪い噂もあれば、かっこいいとか頭がいいなんていう誉め言葉まで。
確かにヒロくんは昔から将来が楽しみね、とよく言われていた。昔はどっちかっていうと可愛らしい顔立ちをしていたヒロくんは中学生になって成長期に入るとめきめきと整った顔立ちはそのままに男らしさだけを増していった。
それにヒロくんは昔から物知りで、私の知らないことをたくさん知っていた。テストだっていつも百点ばかりだった。知らないことを教えてくれる度に私がすごいすごいと誉めるとヒロくんは照れたようにそんなことないよ、と言う。昔の私はそれを見るのが好きだった。
七月のいつだったか。
私はヒロくんが人気のないところで誰かとキスをしているのをたまたま見かけた。それを見た瞬間、体が強張った。足が地についてないようなふわふわとした感覚だけがやけにあって、他は全部遠くにいってしまったように感じられた。幸いなことに丁度私が立っていた位置は死角だったのだろう、二人は程無くして別れたけれどどちらも私に気付くことはなかった。二人が去ってから私は自分がショックを受けていることに衝撃を受けた。
繋がりがもうとっくに切れているのに私はヒロくんに何を求めていたんだろうか。
そんな自分が無性に情けなくなってきて猛烈に悲しくなってきた。正体の分からない不快感が胸をつく。うっすらと滲んできた涙を乱暴に拭って、私はやっとその場を後にした。
ヒロくんは風紀がゆるいと噂のそこそこ名のある進学校に進んでいったらしい。お母さん経由でヒロくんのおばさんから聞いた。
急に授業中起きてるようになったね。角田先輩のせい?と小学校から一緒の美穂ちゃんが言った。角田先輩とはヒロくんのことだ。ヒロくんの本名は角田弘人と言う。意味わかんない、と答えるものの、そういえば最近授業中眠くならなくなっていることに気付いた。いや、でもヒロくんが原因なんてまさかね。美穂ちゃんは面白そうな顔で、一途ぅーなんて茶化してくる。その隣にいた恵美ちゃんはお茶らけた美穂ちゃんとは対照的に、角田先輩はあんまり合わないと思うな、と眉を下げて言う。中学の時ヒロくんが女を取っ替え引っ替えしているっていうのは有名な噂だったから心配しているんだと思う。私は軽く笑って、別にヒロくんとか関係ないし、と言った。その言葉が随分と虚しく聞こえた。
そうは言ったけれど、私は確かに前より少しだけ勉強に熱心になってしまった気がする。授業中に居眠りをしないというだけだけれど、侮るなかれ。授業を真面目に聞いているかどうかっていうのは案外テストに反映されていて、私は成績が少し上がった。だからといって勉強をしようとも、ましてやヒロくんと同じ高校に行こうなんてこの時点では全く思ってなかった。
中学二年生の秋頃。
私は久々にヒロくんと顔を合わせた。隣といっても帰宅時間が大分ずれていた私達はそうそう出会すこともなかったが、偶然帰宅が被った。ヒロくんは昔と違う笑みを浮かべて、久しぶり、と声をかけてきた。変な緊張が体を駆け巡った。うん、そうだね。私の声は震えてないだろうか。久々に会ったヒロくんは明るい茶色に髪を染めていた。あの柔らかそうでしっとりとした黒髪が艶のない明るいだけの茶色になっていて全然似合ってないと思った。でも元がいいからやっぱりかっこいいし、当然高校でもモテてるんだろうなと思った。
「懐かしいな、お前とこうやって話すの」
ぽつりとヒロくんが言う。昔と同じ色の目が私をとらえている。昔と全然違うのに、急に懐かしさが込み上げてきて、私も、と気がついたら口走っていた。妙な沈黙が流れた。不思議と辛いと思う沈黙ではなかった。少ししてヒロくんは、上がっても、いい?と遠慮がちに言う。上がっていい、なんて私たちの間では聞いたこともなかった言葉だ。遠いと思った。でも、ああ。何を期待しているんだろうか私は。ここで頷いたらバカな女だ。私だって薄々わかっていた。これは恋だ。もうずっと前から私はヒロくんに恋をしていた。ヒロくんが好きだ。ヒロくんに私を見てほしい。ヒロくんとの関係を変えたい。ここで頷けば確かに私たちの関係はきっと変化する。でもそれは私にとっていい関係じゃないという変な確信があった。
「いいよ」
私は、バカだ。
ありがとうと言って笑うヒロくんにどうしようもなく胸がドキドキした。
家に上がったヒロくんは私の両親に出迎えられた。今日は部活で遅くなったとはいえお父さんが私よりも帰宅するのが早いなんて珍しいことだ。あれよという間にヒロくんは私の家で夕飯を食べることになっていた。ヒロくんは自然に私の隣の椅子に座った。小さい頃の私達は隣に座ってご飯を食べていたのを思い出して、やっぱりヒロくんはヒロくんだと思った。夕飯はロールキャベツ入りのシチューだった。ヒロくんは楽しそうに両親と昔話をしていた。私は食事中は無口になりがちだ。みんなそれを知っているから会話は大体三人で進んでいった。私はその会話を聞いていて、ヒロくんが私の領域にするすると音もなく入ってきているのを感じていた。早く追い出さなくては取り返しのつかなくなるようなことが起きる。でも同時にもうどうにもならないのも分かっていた。あの玄関は分岐点だった。昔はこのシチュー好物だったよね。もしかして、今も?とヒロくんが聞いてきて、辛いと思った。私は頷いて、ロールキャベツを口に運んだ。ああ、おいしい。シチューとキャベツが合わさるとどうしてこんなに優しい味になるのだろう。急に泣きたい衝動が胸をついた。辛い。ヒロくん、辛いよ。
夕飯を食べたヒロくんはわりと直ぐに帰っていった。それからヒロくんはまた昔のように私の家に来るようになった。
私は勉強を前よりやるようになった。宿題も完璧だし、予習復習もきっちりやる。両親は私にヒロくんと同じ高校を勧めるようになった。ヒロくんもまた一緒の学校通いたいなと言った。三年の春に配られた進路希望調査の紙の第一志望にはヒロくんの通ってる高校を書いた。美穂ちゃんはこれを見て私がヒロくんに本気だったのにようやく気付いて恵美ちゃんと一緒にやんわりとこの恋を諦めた方がいいと言うようになった。一緒の高校に行けばもっと辛くなるのは明らかだった。そんなの、分かってる。
家に帰ると週二くらいの頻度でヒロくんがお母さんと一緒に出迎えるようになった。私は受験生で家に帰るのが去年より遅くなったため、部活をしてないその二日はヒロくんの方が帰宅時間が早いのだ。私のいない内にお母さんとヒロくんがどんな話をしたかは知らないけれど、ヒロくんは私に勉強を教えてくれるようになった。ヒロくんの教え方は学校の先生より全然分かりやすかった。勉強を教える時、ヒロくんの体は少し私の方へ傾く。いつもより全然近い距離に私はドキドキする。でもヒロくんは私と近付いても、何も思わないんだろうな。ヒロくんにとって、私って何?昔同じことを聞いた時は友達と言われた。でも今の関係は友達というには変だ。じゃあ、私って何?子供の頃みたいに無邪気に聞くことはもうできなくなっていた。
私の成績はぐんぐんと上がっていった。もしかしたら第一志望受かるんじゃないか、と上機嫌な担任が私に言った。いっそ落ちた方がいいのかもしれない。私はこの恋にどうしても希望を見出だせなかった。第二志望は美穂ちゃんと同じところだ。きっとそっちなら楽しめそうだと思うのに、家に帰ると途端に息苦しい気持ちが私を支配する。
あの時、家に入れなければよかった。そうすれば、私はこの恋を諦められたのに。
私は第一志望に補欠で合格した。
ヒロくんは私の部屋で合格おめでとうと言った。夕飯が終わると私の部屋に二人で行くのは受験生の時の名残だ。ヒロくんは優しく笑って、私の腕を掴む。え、と思う間もなく唇に何かが触れた。キスだ、ということに気付くまで随分と長い時間が流れたような気がした。ヒロくんは私の頭を撫でて嬉しいよ、と言った。
私は何も言わなかった。ただ、この恋心が死んでいくのだけがはっきりと分かった。
キスをしたら恋人になれるのだろうか?そんなわけはなかった。
私はヒロくんと同じ高校に進学した。ヒロくんは高校でも有名人だった。来るもの拒まず。ただし、一回だけ。ヒロくんに関する噂はたくさんあったけれど一番多いのはこれだ。ヒロくんが関係を持つのは一回だけ。この関係っていうのは当たり前だけど付き合うって意味じゃない。エッチするってこと。因みにヒロくんには彼女がいる。可愛いと有名なサッカー部のマネージャー。年はヒロくんの一個下。ヒロくんは気紛れに告白された子と付き合うことがある。でもその間ももちろん浮気をする。それも、頻繁に。噂によると大体三ヶ月くらいでヒロくんと付き合ってる子は辛くなって別れ話を切り出すらしい。ヒロくんはそれを引き止めることはしない。その子を引き止めるほどヒロくんは女に困る人じゃないのだ。ヒロくんは酷い人だけどかっこいいから告白する女の子は後を絶たない。
高校に入ってもヒロくんは相変わらず私の家に来ていた。夕飯の後は勉強もたまに教えてもらっているけれど受験生じゃないからそんなにするわけではない。その代わりに私とヒロくんは二人でお喋りをするようになった。話すのは専らヒロくんで、私は聞き役に徹していた。ヒロくんが女関連の話をその部屋で持ち出すことは一度もない。大概がヒロくんの友達の話や先生や昨日見たテレビ番組の感想か何か。私の中にヒロくんの知識が段々と溜まっていく。ヒロくんが松本くんって人と仲良しだってこととかヒロくんの担任の清水先生は大学で倫理関係を専攻していて哲学っぽい雑談をよくすることとかヒロくんは月曜日の十二時過ぎから放送されるお笑い番組が好きで毎週見ていることとか。ヒロくんの話題は豊富で尽きることを知らない。ヒロくんはそれらを流れるように喋った後、思い出したように私にキスをする。触れるだけの優しいキスだ。キスをされる度に私は少しずつ死んでいっているような気持ちになる。
きっとお母さんは私達は付き合ってるんだと思っている。そりゃあ毎回夕飯の後は二人で二階に上がっていくのだ、そんな勘違いもしてしまうだろう。外堀だけが少しずつ埋められていく。中身は空っぽのままなのに。
高校に入って私には比較的仲の良い友達が何人かできた。その中でも一番仲が良いのは中里杏奈という女の子。少し派手っぽいけれど気が利くし、優しいところもある。杏奈は入学して二週間で一つ年が上の彼氏を作っていた。同じグループの子達は杏奈を除いてヒロくんに興味津々だったけれど、杏奈はヒロくんにあまり興味が無さそうでそこが結構好印象だった。他の子達が一度でいいからー、とヒロくんのことを言ってる時も杏奈は、私は恋愛はマジになっちゃうからそういうのできないなーと笑っていた。その話は私にも回ってきた。私は軽く笑って、私も遊びとか本気とか割り切れるようなタイプじゃないからと言った。
屋上に続く階段の踊り場でヒロくんが女の子に告白されているのを見かけた。どうしてか咄嗟に私は影に隠れてしまう。私はこんなものを聞いて一体どうしたいのだろう。
「一度でいいの。そしたら諦めるから…!」
懇願するような女の子の声が聞こえる。いかにもヒロくんが好きですといった声だ。本当に一度でいいのならこんなに辛くはならない。これがそんなに軽い気持ちだったら私はヒロくんに処女でも何でもさっさとあげてバイバイしている。私には一度だけという子達の気持ちが全くわからない。一度してしまったらもっと辛くなるとわかっているのにどうしてしようと思うのだろう。心の通わないキスは虚しい。唇だけじゃなくて他もヒロくんと触れ合ったりなんかしたら、もっと辛くなるなんて実際にしなくてもわかりきったことだ。
「一回だけだよ」
ヒロくんが笑ってその子にキスをする。そのまま二人は屋上へと上っていった。これから二人が何をするかなんて見なくてもわかっていた。私は道を引き返して教室に戻った。
その日、ヒロくんは私の家に来た。当たり前だけれど、ヒロくんはいつもと変わらなかった。今日の夕飯は筑前煮で、筑前煮が好物のヒロくんはいつもより少し機嫌がよかった。ヒロくんがお母さんと仲良く談笑するのを聞きながら筑前煮の筍を口に運ぶ。私はあんまり筑前煮は好きじゃない。昔は好きでも嫌いでもなかったけれど、中学に入ったあたりからあんまり好きではなくなった。
夕飯が終わると私達は二階に上がる。ヒロくんは松本くんが古典の授業に寝惚けて恥ずかしい失態をおかした話を面白おかしく聞かせてくれた。私は適度に相槌を打つ。話が一段落したところでヒロくんはそういえば、と先程の話題をしている時と変わらない口調で私に言った。
「覗き見って、中々趣味悪いんじゃない?」
私は固まった。何をとはヒロくんは言わなかったけれど、階段の踊り場で見たことを言っているんだと直ぐにわかった。隠れていたつもりだったけれど、ヒロくんは気付いていたのか。とりあえずせめて弁明しようとしたけれど、あ、なんて言葉にならない声が上がってしまっただけで、ヒロくんはそれを見てふっと笑った。
「まあ別に、構わないけどさ」
いつものようにキスをされる。あの女の子とキスをした唇で。とても辛くて、胸が苦しい。涙が込み上げてくるから慌てて目尻から零れ落ちまいと強く目に力を入れた。ヒロくんの前で泣くのは嫌だった。おそらく泣いたらヒロくんはそっと涙を拭ってくれて優しいキスをくれるだろう。もしかしたらそのまま丸め込まれてベッドインかもしれない。
でも、それで?その後は?
幼馴染みって関係は案外特別だ。そこに恋愛感情はないけれど、こうやって週に二回も家に来て夕飯を食べてお喋りができる。ヒロくんは恋人関係みたいに私だけのものにはならないけれど、興味を持たれないようなどうでもいい存在なわけでもない。
この関係が壊れたら、どうなるのだろう。いっそそうなったらもうこの恋にも諦めがつくだろうか。この辛さから逃れたい。中学生、いや本当は小学五年生からずっと苦しい。自分が女の子なんだとわかったあの日から、私はヒロくんが好きだった。でももう、全部終わりにしてしまいたい。
そう思うのと頬に涙が伝うのは同時だった。一度流れてしまうと涙はとめどなく溢れてしまって、もうどうにもならなかった。ヒロくんは優しく私の頬を手で包み込むと親指で私の目元を拭って、優しく私の唇を重ねる。大丈夫だよ、と繰り返し泣く私をあやしながら抱き抱えてそっと私をベッドに運ぶ。抵抗は、しなかった。
ヒロくんは私をベッドに寝かせるとまたキスをした。いつもの優しいキスじゃない、力強くて私の全てを持っていってしまう、そんなキスだった。
エッチをすれば関係が変わる、なんてことにはならなかった。
関係が切れることも、この恋が終わることもなかった。ヒロくんは週に二回、部活のない日は私の家に来る。キスもする。それに加えて、二週間に一度くらい体を重ねるようになった。そういう関係になって、私は学校の子達が一度でもと言う気持ちがわかるようになった。エッチの時、私はヒロくんを手に入れたような気持ちになる。この一瞬のためにみんな恋心を捨てるのだ。ヒロくんを一瞬だけ、手に入れるために。終わった後にとてつもない後悔が襲うことになっても、そうせずにはいられない。悲しい行為だ。みんなは一回だけだけれど、私は二週間に一回その気持ちを味わう。恐ろしいくらいの幸せと、死にたくなるような後悔が押し寄せてくるけれど、私がヒロくんを拒むことはなかった。
ヒロくんもいつか恋をするだろうか。その時、ヒロくんにもこの苦しみがわかればいいと思った。
杏奈が彼氏と別れた。あんなにラブラブで、のろけ話もよく聞いていたのに、終わりになると呆気ないものだった。振ったのは杏奈だった。
「始まりがあればさぁ、いつか終わりってくるもんだよね。学生の内に付き合っていて、ずっと、なんてまずありえないって思うよ。いくら好きでも運とかタイミングとか色々なことでダメんなっちゃう。倦怠期とかもあるしさ。変化がないってほどつまんないのもないよね」
杏奈は美人だ。別れた理由をそんな風に言っていた杏奈はまもなくして新しい彼氏ができていた。
ヒロくんもサッカー部のマネージャーと別れた。三日も空けずにヒロくんには新しい彼女ができた。私の隣のクラスの金澤さん。たれ目気味のおっとり美人。そして巨乳。でも私達の関係が切れることも、浮気をやめることもない。
前よりも辛くなってしまったこの気持ちを私は持て余していたけれど、どうすることもできなかった。
私が告白されたのはそんな時だった。
告白してきたのは馬場くん。クラス委員長をしていて優しくて頼れるから、クラスではそこそこ人気がある。私は確かにヒロくんに恋をしていたけれど、ヒロくんを諦めたいのもまた事実だった。杏奈も他の友達も付き合っちゃえば?って言った。他の人に目を向けるのが私には必要なんじゃないかと思った。
後日私は馬場くんにいいよ、と言った。それを聞いた馬場くんは顔を赤くして嬉しそうに笑った。それを見て私は馬場くんを好きになれたらいいな、と思った。
馬場くんとの付き合いは私の辛かった心には心地良かった。馬場くんと一緒にお弁当を食べて、帰りは一緒に帰る。馬場くんの家は私の家とはそんなに近くないけれど、馬場くんはわざわざ遠回りをして私を送って帰宅する。馬場くんは優しい。馬場くんと付き合うようになってから私はヒロくんのキスとエッチを拒めるようになった。ヒロくんはそう、と一言だけ言って、それからはお喋りだけになった。いい方向に向かっていっているのかもしれない。こうやって、この恋が過去へと風化していけばいいと思っていた。
馬場くんは毎日私を家まで送る。申し訳ないと思う反面、その気遣いが嬉しい。今日もそうだった。
「あれ、珍しいね?」
私の家の直ぐ目の前、じゃあまた明日、という時だった。ヒロくんがそう声をかけてきたのは。馬場くんはヒロくんを見てびっくりしていた。ヒロくんは屈託のない様子で、彼氏?と聞いてきた。私はうん、と言おうとしたけれど、どうしてか声が出なくなってしまった。代わりに少ししてから馬場くんが、はいと答えた。ヒロくんは、はは、何だか妹が大人になっちゃったみたいで悲しいよ、と言った。そのままヒロくんは馬場くんと二三言葉を交わすと自分の家に帰った。私はその間一言も発せられなかった。声が出なかったショックと、妹という言葉が頭の中でぐるぐるとしている。少し私達の間には沈黙が落ちてから、馬場くんが一言。角田先輩と、知り合いだったんだ。と言った。ただの、幼馴染み。と答えるのが精一杯で、馬場くんはその返事を返さずに、じゃあね、また明日、とだけ言って帰ってしまった。
馬場くんとはそれからちょっとぎくしゃくとした空気が漂うようになってしまった。そのまま変な空気のまま私達は破局。別れを切り出したのは馬場くんだった。ごめん、と一番始めに謝られて私は馬場くんにとても申し訳ない気持ちになった。謝らなきゃいけないのは、私だ。馬場くんは何も悪くなかった。ずっと優しくて、私はそれに何も返してはあげられなかった。
別れる間際、馬場くんが私に言った。
「なあ、本当は角田先輩のこと、好きなんだよな?」
私は頷くことさえできなかったけれど、馬場くんはわかってると笑って、それからありがとうと言って去っていった。傷付けてしまったのだと思った。ヒロくんへの恋心を精算しようと思った。いつも曖昧に流されてきたけれど、全部伝えてしまおうと決めた。
その日は丁度ヒロくんが私の家に来る日だった。
いつものように一緒に夕飯を食べて一緒に二階に上がってヒロくんが話し出そうという時に、私はあのね、と言葉を発した。ヒロくんは開きかけた口を閉じて私を見る。手が震えていて、まだ何も言ってないのに泣きそうになる。
「私、ずっとね、ヒロくんに言いたいことがあったの」
「うん、なあに?」
「私、もうずっとね、ずっと前から私、私ね、ヒロくんが、ヒロくんのことが、」
「うん」
「好き」
「うん」
「好きだった、ずっと。もう、ずっと前から」
声は終始震えっぱなしだし、涙もぼろぼろと溢れてきた。みっともないけれど、やっと言えることができた。振られてしまうのが今までずっと怖かったのに、言ってしまえば呆気ないものだった。これで、この長かった恋が終わりにできる。辛いばかりの恋だったけれど、終わりとなると案外悪いことばかりじゃなかったような気もする。この恋は辛かったけれど、ヒロくんはずっと私に優しかった。辛いことばかり見てきていたけれど、ヒロくんは昔と変わらない優しくて私の手を引いてくれるヒロくんだ。私はヒロくんの口から私を拒絶する言葉を聞いたことがなかった。ヒロくんはいつも笑顔でいいよ、と言っていた。だからこれが、初めてになる。不思議と辛いとは思わなかった。なのに。
「俺もだよ」
ヒロくんは、何て言ったんだろう。俺も?俺もって、何?意味がわからなくて、床に下がっていた視線をあげるとヒロくんが普段通りに笑っているのが見える。ますます意味がわからないし、あれほど流れていた涙もすっかり止まってしまった。
「俺も、ずっと前から好きだったよ」
「なに、言って……」
「信じられない?でも、本当」
頭の中でヒロくんの彼女だったサッカー部のマネージャーと隣のクラスの金澤さんの顔が浮かんだり、遊んでるという言葉がテロップみたいに頭の中に流れた。いつもと同じ笑顔のヒロくんが急にヒロくんじゃないみたいに思える。
「い、意味わかんな………だ、だって、彼女、いるじゃん………それに、い、いろんな人と、も、……」
「好きだよ、お前だけが」
ヒロくんはにこにこと笑っている。それが、昔の、まだ恋もわからなかったあの時のヒロくんの笑みと重なる。知ってるけど、知らない。矛盾している。それが怖くて堪らない。
「好きだよ。だから、付き合わない」
ヒロくんの大きな手が私の頬を包み込み、涙の跡を拭う。頬から伝わる温かな熱が涙腺を刺激したのか急にまた涙が頬を伝っていった。ヒロくんが私に優しいキスをする。私は震える手でヒロくんの肩を押すけれど、ヒロくんはびくともしなかった。ヒロくんはぐずる子供をあやすように私の頭を撫でて、抱っこした。急にこれから何が始まるのか気付いて逃げようとするけれど、ヒロくんには敵わない。大丈夫だよ、と何度も繰り返して優しくないキスを落とされる。
このキスが、いつもする時の合図だった。
ヒロくんは私に好きだと言うようになった。
この言葉が聞きたかったはずなのに、私は辛いままだ。ヒロくんも私を好きだというのなら、辛いと感じているのだろうか。
私達の関係は結局変わらないままだ。