6.宝剣「碧水剣」
6.宝剣「碧水剣」
機械重騎兵から排出された大量の蒸気がもうもうと立ち込め、視界を塞ぐ。
後続の帝国兵士たちが、敬愛する伯爵の勝利を確かめようと、そろそろと室内へ入った。しかし、彼らの期待に満ちた顔は、ほどなく驚愕に歪んだ。
立ち込める蒸気が晴れた時、兵士らが見たものは、機械重騎兵の頭部に取り付き、深々と宝剣を突き刺している翆玲の姿だったのだ。
装甲の継ぎ目から溢れる鮮血が、モンゴメリ伯爵が急所を貫かれただろうことを雄弁に語っている。
「……見事だ。まさか、我が鉄槌より逃れる者がいようとは。吾輩、慢心したと見える……」
「冗談じゃない。単に運が良かっただけさ」
翆玲の言葉に、茶化すような調子は微塵も無かった。じっとりと冷や汗に濡れた頬に、細かく引き裂かれた赤い服の端切れがはりつく。見れば、翆玲の腹部を覆っていた上着と帯は大きく引き裂かれ、腹から胸にかけてが露わになっていた。そこに、一本の大きなミミズ腫れが、わずかに血をにじませて走っている。
しかし、触れればそれだけで体を粉々にされるであろう鉄槌の一撃を、翆玲はいかにして避けたものか? かつてモンゴメリ伯を相手取った天竜道人は、その硬気功を頼りに真っ向からぶつかり、敗れ去ったという。翆玲がとった手段は、その真逆をいったものだった。
翆玲はおのれの内力すべてを軽功に注ぎ込み、自分の質量を限りなくゼロに近くしたのだ。音速を超える鉄槌の先端には、その速度ゆえに圧縮された空気の層が存在する。翆玲はその空気の層に、鉄槌よりも先に弾き飛ばされることで、致命的な一撃を避け得たのだ。
無論、言うほど簡単ではない。これは完全に博打の領域だった。あとわずかでも目測を誤ったなら、あるいは空中での身ごなしがわずかでも遅ければ、周囲に散らばっているのは衣服の破片ではなく、彼女自身の血肉であっただろう。
そしてもう一つ。天竜道人が鉄槌の頭に残した拳の跡、それが不規則な乱流を呼んだことも功を奏したかもしれない。
「うう、うわ」
扉付近に固まっていた兵士たちが、我先にと逃げ出した。翆玲が呆れる。
「薄情なもんだねえ。仇を討とうって腹の据わったやつはいないのかい」
「……そうでもない」
口角に血泡を浮かせたモンゴメリ伯爵が、にやり、笑ったその時だった。
がらららららららら!!
破られた扉を埋めるように、分厚い隔壁が下りた。ほぼ同時に、バツンという音を立てて中央情報室の照明、いや、すべての電源が落ちる。何事か、と翆玲が驚く間に、衝撃と轟音、そして胃の腑が浮くような不快な浮遊感が襲ってきた。
慌てて翆玲が飛び離れる。だが、まともに地に足がつかない。
「こいつは!?」
「なに、飛行船からこの部屋を切り離したのよ」
暗闇の中、モンゴメリ伯爵がぐぐぐ、と笑った。
「兵どもには、もし吾輩の敗れるようなことがあれば、即座にこの部屋を切り離せと命じてあった。いかに身軽な武侠と言えど、このまま地面に激突すれば、ひしゃげた外壁が、機材の山が、その身を押しつぶすは必定」
急所を貫かれ、もはや死が近いモンゴメリ伯爵の声が、不気味な重さをもって翆玲の耳に届く。そして、彼女の鼻腔に、妙な匂いが触れた。なんだ……?
「しかしな、吾輩とて王国貴族。このまま貴女の運命を地べたに任せるつもりはない」
しゅ、しゅ、ともれる蒸気の音。ぺきり、装甲がゆがむ音。翆玲の肌に触れる、奇妙な熱量。
「……野郎!」
「吾輩の最後の一撃、しのげるものならしのいでみせよ!」
ばきん、とひときわ大きく立った音が合図となった。死期を悟ったモンゴメリ伯爵が機械重騎兵の蒸気機関を暴走させ、限界まで高めた圧力が、今、破綻したのだ。
闇の中、機械重騎兵が大爆発を起こした。爆風が、鉄塊が、そして血肉が、閉鎖された部屋を埋め尽くす勢いで飛び散る。その渦中、翆玲がとった行動は。
翆玲は足元に転がっていたものを足先で跳ね上げ、その陰に身を隠した。モンゴメリ伯爵が破り、吹き飛ばした、この中央情報室のもともとの扉である。分厚い鉄の扉は、飛び散る装甲の破片に次々と串刺しにされながらも、かろうじて翆玲の身を守った。しかし、爆風そのものの勢いばかりは防ぎようがない。まるでおもちゃのように、翆玲は扉ごと吹き飛んだ。
とっさのこと、軽功を巡らせる余裕もない。翆玲は吹き飛んだ扉ごと壁に叩きつけられた。
「……くそったれ」
ほんの一瞬、気を失ったか。それがほんの一呼吸分か、それとも数秒が経過したのか、知るすべはない。この切り離された中央情報室が地面に激突するまであと何秒残されているだろう。このまま墜落すれば、文字通りこの部屋が翆玲の棺桶と化す。
背中がズキリと痛んだ。おそらく、激突した際にアバラを傷めたのだろう。呼吸するたびに、重い痛みが苛む。
「くそったれが」
ともすれば浮き上がろうとする両足を踏みしめ、腰の宝剣を抜き放つ。
だが、刀身が身長の半分にも満たないこの剣に何ができよう。機械重騎兵の装甲を貫く程度はなんとかなる。しかし中央情報室の壁も同様に、とはいくまい。切れ味はともかくとして、刃渡りが足りない。
……刃渡りなど、意に介さないとしたら?
翆玲が宝剣に内力を込めると、暗闇の中、わずかに青い燐光が浮き上がる。その時、不意にその刀身がぼやけた。
宝剣「碧水剣」。それは「斬る」と言う使い手の意志をそのまま顕現させてのける、崋山派に伝わる恐るべき至宝であった。その意志さえあれば、対象の硬度も、距離も、厚みも意味を持たない。「斬る」と思えば、どんな物質でも切断してしまうのだ。命を持ったもの以外であれば。
やろうと思えば、高層ビルの屋上から、ビルを横に三等分することさえ可能だろう。しかし、世の摂理を無視しようとするからには、それだけに膨大な内力を注ぎ込まねばならない。
墜落までに許された時間がどれだけあるだろう。その間に墜落を迎えれば、もはやなすすべもなく死ぬ以外にない。
(やるしかないってね……!)
練りに練り上げた内力を、全身の経絡を一つずつ通していくことでさらに増幅していく。腰を落とし、呼吸を整え、内力を碧水剣に注ぎ込むことに集中する。その勢いも、内力の大きさも、並みの武侠であれば耐えられぬほどに急速で、膨大だった。一呼吸ごとに、痛めたアバラが稲妻のような痛みを訴える。しかし翆玲の焦りも知らず、碧水剣は貪欲に内力を呑み込んでいくばかりだ。
三秒が経つ。五秒が経つ。あと、何秒残っている?
一秒。もう一秒。
(まだかよ!)
翆玲の焦りと疲労とが限界に達しようとしたとき、不意に手の中から重さが消えた。
「りゃあーーーーーーっ!!」
裂帛の気合いを爆発させ、宝剣を縦一文字に振るった。
まっすぐに落下する中央情報室が真っ二つに断ち割られたのは、墜落までわずか一呼吸残してのことだった。