1.女侠、「紅翠鳥」 劉翆玲
「ふう、ちょいと暑いね」
劉翆玲は、眼下に流れていく雲を見下ろしながら、胸元をくつろげてパタパタとあおいだ。奥にいた操縦士が、ぎょっとして振り向く。翆玲の襟からわずかに覗いた白いふくらみに目が行ったわけではない。「冗談だろ……」と呆れたように呟いた操縦士の吐息が、毛皮の防寒着に貼りついて白い霜に変わった。
上空8千メートル。吐く息すら凍りつく極寒の中、翆玲の格好と言ったら丈の短い上着とズボンだけなのだ。特殊な処理を施した特注品ではあるのだが、それは主に防刃、防弾の類である。にもかかわらず、翆玲は凍えるどころか、むしろわずかに汗ばんですらいる。作戦を前にして、全身の経絡に、練り上げた内力(いわゆる「気」というやつだ)を駆け巡らせているのだ。少々の寒さなど、物の数ではない。
わずかに残ったそばかすを除けば、美女、と呼んで差し支えあるまい。歳のころは二十代半ば。赤を基調にした上下の服を、鮮やかな翡翠色の腰帯がまとめ上げている。帯の左右には、長剣と鉄扇。そう。劉翆玲は武芸と内功を鍛え上げた武芸者なのだ。人はそれを、「武侠」とも呼ぶ。
翆玲に課せられた任務とは、この高度から単身降下し、下を通過するトライカミリア王国軍大型飛行船に取り付いて潜入し、内部の情報を持ち帰るというものだった。
王国軍大型飛行船「スパーム・ホエール」。完全武装の兵員を満載し、機体自体にも多数の火砲を備えた最新型の空の要塞である。これに空中で乗り移って入り込もうなど、普通に考えれば正気の沙汰ではない。乗員が、翆玲にパラシュートを渡しながら言った。
「しかし……こう言っちゃなんですが、よく引き受けてくださいましたね」
翆玲が手をひらひらと振りながら答える。
「軍にはうちの門派も世話になってるからねえ。お偉いさんに頭下げられちゃ、嫌とは言えないのさ。断りゃ、崋山派の面子にかかわるってね」
面倒くさい話さ、と苦笑した翆玲は、渡されたパラシュートのバッグをそのまま床に放り投げた。
「え、あの……?」
「遠足に行くんじゃないんだ。昼飯前には終わるだろうから、弁当は遠慮するよ」
悪い冗談だ。そう思った乗員は、もう一度手渡そうとバッグに手をかけた。しかし、そこに翆玲の足が軽く乗せられる。ただそれだけで、バッグは全体が石にでもなったかのように微動だにしなくなった。
「この劉翆玲がいらないって言ってんだ。信用できないってのかい?」
トン、と翆玲の足がバッグを叩いた。次の瞬間、バッグが膨張したかと思うと、ひどい音を立てて破裂した。中のパラシュートは、まるで原形を留めていないまでにズタズタになっている。乗員がひきつった顔で翆玲を見上げる。彼女はニッと笑うと、
「なに、定食屋のおばちゃんから唐揚げちょろまかすよりは楽な仕事さ」
とバッグを端っこに蹴り飛ばした。
その時、天井から吊り下げられた鈴が、コロコロ、と乾いた音を立てた。
「しっ! 静かに願います!」
すかさず、担当の乗員(仮に鈴探士、とでも呼ぼうか)が鈴の音に耳をそばだて、コロコロカラカラと鳴る鈴の音から必要な情報を聞き分ける。
「目標接近。ざっと5分後に、当機の直下二里半(約千メートル)を通過します。進路このまま」
「はー、よくそれだけの音で分かるもんだね」
「はは、ようやく慣れましてね」
鈴探士が、げっそりとした顔で苦笑する。
翆玲たちは今、神仙から借り受けた宝貝「信天翁」の機内にいた。その名の通りアホウドリを模した、ひどく不細工な飛行用宝貝である。翼長10メートル足らずの上に木造(紙張りの箇所すらある)という頼りなさだが、これが実際に8千メートルを超える高さを平然と飛んでいるのだから、翆玲などには悪い冗談だとしか思えない。
機内には、翆玲の他に乗員が四名。いずれも稜帝国の軍人である。それぞれに剣を帯びてはいるが、今回の任務は翆玲を目標地点まで運ぶことだけだ。
先ほど鳴った鈴は、いわゆるレーダーのようなものだ。その動き方や音色で、目標物の接近を知らせる。「もっと分かりやすくなんないのかい?」というもっともな翆玲の言葉に、鈴探士が答えた。
「これを作った仙人様によると、『この方が風情があるじゃろ』だそうですよ」
憔悴しきった彼の顔から、鈴の音から情報を聞き分けるために費やされた時間と労力が見て取れる。操縦士が、同情と共感をこめた視線を向けた。彼もまた「この方が楽しい」という理由で、足こぎペダルを絶えずグルグルと回す羽目になっているのだ。
宝貝とは、修行を極めた仙人が作り出した、極めて強力な宝物である。空を飛ぶものばかりでなく、枯れ野に大河を呼ぶもの、一呼吸のうちに満漢全席を並べるもの、とそのバリエーションは仙人の趣味の数だけあると言っていい。だが、それらのほとんどはそれこそ仙人の趣味で作られたようなものである。そのため、どう見ても無駄にしか思えない機構が積まれていることも少なくない。その例にもれず、操縦席のペダルも「いや、意味はないよ」と作った当人に明言されてしまっている。しかし、ならばと言って足を止めれば即座に失速するのだからたまらない。宝貝はたしかに強力なのだが、ふんだんに盛り込まれた製作者の「粋な遊び心」には、使用者の多くが泣かされる羽目になっていた。
翆玲とて、他人事ではない。彼女の腰に剣と一緒に下げられた皮袋には、同じ仙人が作った宝貝が納められているのだ。作戦の要となる宝貝であるだけに、余計に不安がぬぐえない。
「目標接近! あと一分で通過します。降下準備を!」
鈴探士の声に従い、翆玲は「信天翁」横腹の扉を開け放った。ごう! と風の音が耳を叩くが、不思議と機内の気圧は地上と変わらぬままだ。これは仙人の気遣いだろうか。翆玲は何故だかイラッとした。
その時だった。
「信天翁」のすぐ脇を、何かが高速でかすめ過ぎた。わずかに遅れて叩きつけるような乱流が機体を揺るがし、貼られた紙が何枚か吹き飛ぶ。
「何だい今のは!?」
そう怒鳴る翆玲に応えたのは、金属が軋むような声だった。
「目標に捕捉されタ!」
鈴探士ではない。呆然とする彼の目の前で、天井から吊られた鈴が、鈴口をパクパクさせながらわめき立てていた。
「次、撃ってきタ! 当たるゾォ! 着弾まで、2、1、」
ばがん!
衝撃、轟音、目の前で吹き飛ぶ「信天翁」の左翼。機体はバランスを失って横転し、開け放たれた扉から翆玲を放り出した。
翆玲が身に帯びているのは、先に述べたものだけだ。パラシュートの類などは無い。寒風が全身を打ち、急激な気圧の変化に、鼓膜が悲鳴を上げる。内力を巡らせていなければ即座に意識を失っていたところだ。
渦巻く気流にもみくちゃにされる翆玲が次に見たものは、第三射の直撃によって飴細工のようにバラバラに砕け散った「信天翁」の姿だった。
先手を打たれた。本来、降下は相手に気付かれないように行うはずだったのだ。しかしこうなった以上、手の内は読まれていると思った方がいい。「スパーム・ホエール」に近づけば嵐のような対空砲火に見舞われるだろう。
翆玲は目を閉じ、気息を整えた。全身の経絡に再び内力を巡らせる。再び目を開けた時、それまで風に弄ばれるばかりだった翆玲の姿勢は、嘘のように安定した。
「……そうこなくっちゃね」
さっきまで言葉を交わしていた者たちが死んだのだ。恨みに思わないことはない。しかし、命のやり取りは武林(武術界)の常。命の借りは命で返してやるだけだ。戦争をやっている相手となればなおさらである。
まっすぐに下を見据える。眼下には分厚い雲。そのさらに下に、目指す「スパーム・ホエール」が待ち構えている。翆玲は、すらり、と腰の宝剣を抜き、刀身に内力をみなぎらせて真一文字に雲を薙いだ。
ずばっ! と轟音を上げて分厚い雲が真っ二つに切り割られた。一気に降り注ぐ陽光が、眼下に遠く、「スパーム・ホエール」が姿を浮かび上がらせる。
途端に、飛行船から雲霞のように対空砲火が放たれた。機銃弾が一発かすめでもすれば、人間の体など簡単に引き裂かれてしまうだろう。
しかし翆玲に恐れはない。怯みも無い。
獲物を捉えたカワセミのように、女侠は一直線に急降下した。
彼女の名は劉翆玲。人呼んで「紅翠鳥」。武林の名門たる崋山派でも最強と言われる「五聖華」の一人が、今、具現した災厄そのものとして巨大飛行船に襲い掛かる!