繋ぎ止められる?
外の蝉が煩い。夏なんて大嫌いだ。夏休みで浮かれる学生は多いけれど、この驚異的な暑さの中で、楽しもうなんてポジティブな発想、とても考えられない。夏の私は蚊に何箇所か刺されているのが通常の状態だし、こんなにも暑さが苦手なのに、頼みの綱の冷房にも弱い体質で、どこへ出て行ってもすぐにぐったりと疲れてしまう。
それなのに、なんでこんな苦手な時季に、こんなダメージ受けるようなことをしてしまったのだろう。自分がよく分からない。好きすぎて、我慢がきかなかったのが事実。愚かな自分。体だけじゃなく、精神まで簡単にやられてしまった。
私は部屋の隅で壁に寄りかかり、携帯を握り締めている。
もう、死んでしまいたい。
昨日私は、失恋した。
失恋‥‥よく耳にする言葉。
恋多き先輩たちは、「そんなこと誰だって経験するよ。甘ったれるな」ってきっと怒ったり、笑い飛ばしたりするのでしょう。
でも、こんな痛みに耐えられるはずがない。私にはあの人だけだった。あの人は私の家庭教師で、勉強を教えてくれるだけではなく、色々な悩みの相談相手にもなってくれていた。
私には友達が殆ど居ないから、それだけで優しいあの人をどんどん好きになってしまった。「妹みたいに思ってる」考えてみたら当然のこと。
あの人は三十を過ぎていて、私は十六。ほんの子供だと思って、優しくしてくれていたに違いない。
失うくらいなら、望みをなくすくらいなら、言わなければ良かった。ずっと子供のままで良かった。
携帯を開いて、メール画面を見つめる。「僕みたいなおじさんじゃなくて、きっと、君に似合う素敵な人が現れるよ」茶化すような絵文字は一切無い。優しいだけではなく、とても誠実な人だから。
何故か高校に入ってすぐ、私は謂れの無いことでクラスメイトから無視され、いじめられてきた。
それは三ヶ月を過ぎた今も当然のごとく続いていて、この夏休みが明けてもきっと変わることはないのだと思う。
いじめといっても、口を利かない、陰口を叩かれる、冷たい視線で見られる等で犯罪や暴力があるわけではないので、まだマシな方なのだろう。
心を氷のようにして、耐えていけないレベルではない。
蝉は今だ鳴き続けている。畳に横になってみる。
やっぱり駄目。
失恋で死に逝く感覚、確かにあるんだね。一つしかない支えを失ったら、それに寄りかかっていたものは簡単に倒れるでしょう。
芯が冷えていると感じる。意識が遠くなる。
もっと思い切り泣けたら少しは楽になれるのに、心を氷のようにする訓練で、きっと涙腺まで凍り付いてしまった。
死んでしまいたい。だって、私になんてなんの価値もない。
価値がないから、無視されるのだ。
存在しなくてもいい人間。
そうだ、もういい。
死にたい、ではなくて、思い切って死んでしまおう。
生きていたって、私は、一生幸せにはなれないのかもしれない。
人って簡単に死ねるって、私が証明してみるのも悪くない。
よろよろと玄関に向かう途中で妹に声をかけられる。
「お姉、なんか今日一段と具合悪そうねえ。なんか買い物あるんなら、わたし行って来てあげようか?アイス買ってくる?」
妹は綺麗なブルーのワンピースを着て、能天気に話しかけてくる。誰からも好かれる、明るく可愛い妹。精神状態が悪いせいか、妹の好意すら疎ましく思える。
私は軽く横に首を振り、玄関のドアを勢いよく閉めた。
「お姉?」
妹の不思議そうな声が、ドア越しに小さく聞こえた。
私たち家族が住むマンションは社宅で、周り一帯は全く同じ十階建ての塔が何棟も連なっているというありがちな造りだった。棟の中心付近に小さな公園があって、私はそこのベンチに座って死ぬ方法を考えてみる。蝉の声はいっそう煩いけれど、外は思っていたより暑くはなかった。風があるせいか、中に居たときよりも、寧ろ爽やかで心地よい。
昔はここで妹や幼馴染たちと日が暮れるまで遊んだ。冬でも夏でもお構いなしに。
意地悪な子も中には居たけど、所詮は子供同士の喧嘩、あの頃は楽しかった。
マンションを見上げる。屋上からの飛び降りは、ベターだけれど、案外いいかもしれない、と考える。この高さなら確実に死ねそうだ。
気付くと、いつの間にか子供たちがやってきて、公園内を走り回っていた。一人の子が食べかけのアイスキャンデーの棒を持っている。
アイスでも買ってこようかと言った妹のことを思い出す。
突然私が死んでしまったら、あの子はどう思うだろう。家族は当然失恋のことも、私がクラスメイトに嫌われていてシカトされ続けていることも知らない。
優しい妹は泣くだろう。原因を究明しようと躍起になって動くかもしれない。事実を突き止めて、家族みんなで騒ぎ立てる光景が目に浮かぶ。
私が死ぬのは、クラスメイトのせいでも、学校のせいでも、ましてや大好きなあの人のせいでもないのに。
誰も恨んでなんかいない。
私が死ぬのは、私が弱いから。哀しさに耐え切れないから。
そして、自分になんの価値もないから。
私は自分をもう見限ったのだ。
家に戻って、すぐに遺書を書いた。
内容は、誰も恨んでないということと、弱くて、自分勝手でごめんさないという謝罪の言葉のみ。
白い無地の封筒に入れ、表には何も書かず裏に自分の名前を丁寧に書いた。
大分、日が落ちてきた。蝉の鳴き声はいつの間にか止んでいる。
屋上は髪が靡くほど風が強く、ノースリーブ一枚では涼しすぎるくらいだった。
私は周りを見渡して誰も居ないことを確認すると、遺書を下に置き、素早くサンダルを脱いで、飛されないよう重石代わりに遺書の上に置いた。
フェンスに近付く。
十階建ての屋上は、想像していたよりもかなり高い。フェンス越しにじっと下を見つめる。
「何してんの?」
突然ぶっきらぼうに声を掛けられ、私は驚いて振り向いた。
「何、これ」
まずいと思ったのと、彼が私の遺書を拾い上げたのは同時だった。
「返して。あんたに関係ないでしょ」
私は手を伸ばして遺書を彼から取り戻そうとするけれど、彼は背が高く、動きも機敏で、遺書を持ったまま簡単に私から離れていく。
何でこんなときに、この人が?
なんてタイミングだろう。
彼は勝手に封筒から遺書を取り出し、簡素に書かれた文章を馬鹿にしながらすぐさま声に出して、読み上げる。
「何、これ」
さっきと同じセリフ。でも、声のトーンが全く違っていた。
彼は私を見ている。
ああ、幼い頃から何度も見ている下等なものを見る、その蔑んだ眼差し。
彼の名前は、佐藤ハルト。嫌な奴に会ってしまった。
佐藤ハルトの父は私の父の上司で、小さい頃は一緒に遊んだりもしたけれど、昔からの感じの悪さは成長するにつれますますエスカレートし、今では極力かかわらないようにしている私の天敵ともいえる存在だ。
雰囲気はチャラいホスト風なのに、実際は容姿良し頭良しの才色兼備というのがまた、気に入らない。ただ、高校から学校が違っていることだけが唯一の救いで、彼は今、有名進学校に通っている。
学校での集団シカトの問題だって、実際のところ、この男が少なからずかかわっているのかもしれないと疑っている。
入学してすぐ、名前も知らないクラスメイトに「佐藤ハルトのこと好きなの?」と聞かれ、「私、嫌いです」とたった一言答えてから、周りの様子がおかしくなった気がするから。何故、彼女たちが彼のことを知っていたのか疑問に思いながらも、私は馬鹿正直にその時はそう答えることしかできなかった。
そして、未だ、自分にされている仕打ちの理由を、彼女たちの冷たい視線に怯え、問いかけることが出来ずにいる。私は、本当に弱い情けない人間だとつくづく思う。
遺書を見られてしまったのだから、どうしようもない。彼を無視して、一旦この場から離れようと扉に向かう。
「どこ行くんだよ」
彼が素早く私の腕を掴んだ。
「離して」
一言呟いた声は、自分でも驚くくらい掠れていた。
「死ぬんだったら、俺の前で死ねよ。勝手に死んだら制裁、下すからな」
頭がいい割に、子供みたいな言い方をする。
「何それ?どういうこと?」
「まずお前の親父をリストラにして、お前の妹と仲良くさせてもらおっかな」
「‥‥‥」
血の気が引く。絶句する以外ない。よくもまあ、そんなどこかで聞いたような陳腐なセリフ、すらすらと出てくるものだ。
恐くなって、腕を引っ張るけれど、凄い力で握られていて、びくとも動かない。
「自殺者を脅迫するつもり?私がどうしようと、あんたには全く関係ないでしょ?離してよ。そっとしておいて」
私は冷静になって、低い声でそう返した。
「だってこんな面白いこと知ったら、関わらないわけないじゃん。人が死ぬところなんて、そうそう見れるもんでもないし」
彼はおかしい。何を話したって無駄だと一瞬にして悟る。絶望的な気持ちの中で、私はコンクリートの床に映る自分たちの影を見ていた。影は不本意ながら繋がっている。そういえば、同じような光景を昔見た。動いた者は鬼に捕まる〔だるまさんがころんだ〕だ。
佐藤ハルトの手は汗ばんでいるのか、掴まれた部分が熱いし、なんだかヌメヌメとしているようで、気持ち悪くて仕方がない。こんな男の汗や体温なんて感じたくもないのに。
「つーかさ、一回やらしてくんない?どうせ死ぬんだからいいだろ」
自分が死ねよ、と思った。殺してやりたい。本当に、心から。
道連れに‥‥してやろうか。
しばらく無言のまま居たけれど、ここでこうしていたってどうしようもない。
私は最後の力を振り絞って、腕を引く。ようやく、離れた。慌てて腕を見ると、汗でべたべたの上、くっきりと彼の指の痕が残っている。
「生きて欲しいんだよ。俺とのセックスが良くて生きたいってのもいいんじゃない?それとも思ったより下手だったって、みんなに言って笑い飛ばしてくれてもいいからさ」
彼は、扉へ向かう私に、そう言った。
「俺のこと一生笑い飛ばしてくれて構わないから」
もう一度、震える声ではっきりと彼は言った。
私は振り向いて、何年かぶりに真剣にじっと佐藤ハルトを見つめた。
彼は俯いて、見たこともない泣きそうな顔をしている。
懐かしい光景だった。こんな彼を、私は幼い頃に一度くらい見たことがあるのかもしれない。〔だるまさんがころんだ〕の光景がよぎる。
いやだな、と思った。鬼に捕まってしまったのかもしれない。
二人で〔だるまさんがころんだ〕をやって、捕まってしまったら、誰も助けには来てくれない。きっと、助かりようもない。
彼のふざけたオレンジ色の髪は、風に靡いてそれはとても綺麗だった。
「暑さのせいでおかしくなったんじゃないの?」
厳しい声でそう言ってはみたけれど、自分の口元が可笑しさでゆがんでいる気がして、もう、どうしようもなかった。
お読みいただきありがとうございました。
感想などいただけましたら、大変うれしいです。




