お父さんはとにかく甘い
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宮城県にある小さな島で生まれ育った世間知らずの、それでいて金も学歴もない美咲の父が東京に出てきたのは二十一年前のことだ。彼はその奔放ながらも生真面目な甲斐性あって、いわゆるいいとこのお嬢さんを物にすることに成功したが、子供に与える教育を選べるまでは(彼の言う教育がどんなものかよくわからないけど)子を持たない決心をした。おそらく自身にほとんど教養がないことを知っていたから、自分の子にそんな思いをさせたくなかったのだろう。けれども結局のところ美咲は結婚の一年後にはポンと生まれておぎゃあと元気な産声を上げた。とにかく美咲の父はそんな人なのである。
生徒会に任命された以上、僕は──それが単なる事務的な労働だとわかっていても──快く引き受けないわけにはいかなかった。というのも、僕には生まれ持ってのこれといった才覚がまるでないのである。だからせめてもの努力で、自身の溝を埋めていかなければならない。要するに、いつものように僕はこれを生活の一貫として受け止めたわけだ。確かに立候補者なんてものはひとりもいやしなかったけれど、僕には適材適所自分を運んでいく足を信条として持っていた。
「とにかくそう言うわけだから、よかったら話してみて」
僕を今日の午後自宅に招いた美咲は、付け足すようにそう言った。
「でも話せるかな」と僕は言った。
「どして」
「だって──ほらだって、やっぱりいちおう男なわけだし、娘を持つ父としてはさ」
そこまで言いかけたところで、美咲は高らかに笑った。それがやや品を欠いたといってもいいくらいの笑い声だったから、僕としては好感を持たないわけにいかなかった。
「アッハハハハ。別に大丈夫だって。そんな厳かな人じゃないんだし」
「そう。じゃあ」
「話してみる?」
僕は微笑んだ。「まあ機会があればね」
僕は自分のあずかり知らぬところで正式に招待を受けていた。その日の帰り、門をくぐろうとすると光沢ある銀のトヨタ・ハリアーのウィンドウが滑らかに開き、中から美咲が「おーい、こっち」と手を振った。隣に乗っていたのは喪服を着た中年の女性だった。僕は運転席に向かって会釈し、それから後部座席に乗り込んだ。車が発進する直前になって、美咲が「お母さんやっぱり私後ろにする」と言って僕の隣に席を移した。
「びっくりした?」嬉々とした顔で美咲が訪ねる。
「びっくりしたよ、聞いてなかったし。一回帰ってから電話が来るのかと」
「ほんとは私もそのつもりだったんだけど、お母さんがお葬式で近くに寄ったから迎えに来てくれたんだって」
そのとき「はじめまして」と湯本夫人が言った。僕が顔を向けると同時に、それを待ち構えていたかのような温かい笑みが返ってきた。それは正に絶妙のタイミングというものだった。その笑顔だけで、相手に自身の体験した人生の豊かさを伝えることができる。ある種の美しき所作は全てが経験によるものなのです、と言わないばかりに。
僕は同じように(なるべく恐縮しきらないように)、「あ、はじめまして」と言った。
「ほらお母さんこの子!」と美咲が突然叫んだ。
「この子って何が」
「前に話した文学少年」
「ええ?」僕は思わず声を上げた。
すると反対に「ああ」と湯本夫人が思い当たった声を上げる。「カラマーゾフを読むって子?」
「そう。──ね?」と美咲が僕に顔を向ける。
僕は実際に「カラマーゾフの兄弟」を学校に持って来て読んでいた時期があった。
「確かに読んでるけどまだ中巻だよ」
「え、遅い。チドクってやつ?」
「まあ」と僕は言った。「でも色んな小説を気の向くままに読んでるから」
「けど今の子は本なんて読まないじゃない?」と湯本夫人はあくまで否定的にならないよう語尾を上げる。「だから確かな教養ある本を読むってだけで、──それが重要なのよ」
「ですかね、ハハ」と僕は調子を合わせた。
「でもそのぐらいの歳なら何を見ても楽しめるからいいのね。ちがう?」
「どうでしょう」
「大人になるともう古いのしか読めないの。馬鹿らしくって。──じゃあもう車出すけどいい? どこから行くって?」
美咲が道を指定した。どうやら寄りたい箇所があるようだった。
トヨタがエンジンをどこかに隠してしまったおかげで、僕はひやひやしながら落ち着きなく座席に座っていた。しかしそれも初めのことだけで、やがて母と娘は好き勝手に話を始めた。葬式だと言っていたけれど、湯本夫人の表情には悲壮感のようなものは見られなかった。おそらく故人とはそれほど深い関係ではなかったのだろう。車が曲がり角を迎えるたびに喪服の襟で真珠のネックレスが震え、タイヤが砂利を掻き回す音が聞こえた。午後の太陽は早くも赤みを帯びて、屋根のあるガソリンスタンドを穴蔵に似た灰色に変えていた。
娘は母の前では子供に返った。些細なことで怒ったり笑ったりする。そんな美咲の姿を見るのは初めてだったから、僕としてはひとつひとつが新たなる発見だった。彼女は時おり、母との議論に夢中になると僕の方にぱっと顔を向けて「ねえ?」と同意を求めた。僕はそれが突拍子のないものだったら返答を愛想笑いにとどめ、僕にも判断のつくものだったら二三適当な言葉を差し挟んだ。つまるところ僕の今までの人生の役目はこういうときにこそ果たされたのだから。
「まあもうそれはいいでしょ。──赤木くん何食べたい。おばさんなんでも作るから」
「ああ、ずるい!」と美咲は素早く夫人を指差した。「勝てないからって味方につけようとして」
「あ、僕はなんでも食べれます」
「なんであんたも答えるの」とふくれっ面をした彼女はぴしゃりと僕の膝を叩いた。「いいんだから、そんなことしなくて」
「赤木くんどっちの味方?」
「お母さんの味方です」僕はそう言ってからハハハと笑う。
「裏切り者」
そう言った美咲の目に少なからず真剣味がそなわっていたので、僕は思わずたじろがないわけにいかなかった。でも僕の代わりに「ねえ、冗談でしょう」と母が咎めてくれたので、会話の中心人物は僕を逸れ、また母子の激論が始まった。
「だってお父さん甘いんだもん」
「別にいいじゃない。甘やかされてるうちが華なんだから」
「もっと厳しいパパがいい」娘は主張を譲らなかった。「私嫌なの。みんなにも『どうせあの子は甘やかされて育ったから』なんて言われるの。私大人になったら絶対ひとりで生きたいんだもん」
彼女の主張には少なからず内容があったと思う。けれど第三者世界に属する僕としては、正に今この瞬間の彼女こそが『甘やかされて育った子供』そのものに見えた。もちろんそんな意見をこの場で口にするほど無分別ではないけれど。
「もう。変な子」、夫人はそう言って暗に議題から中座した。
林道の木漏れ日(というにはいささか照明が暗すぎたが)を銀の車体が滑らかに反射し、道の終わりが見えたころになって午後六時の鐘が市中に鳴り響いた。住宅街の屋根々々に赤い陽が鋭角に切り込みを入れ、どことなく平らな景色をいくつにも分断している。我々は一旦また通りに出て、ツタヤでDVDを二本、「ジョー・ブラックをよろしく」と「ミート・ザ・ペアレンツ」を借りて、根本家に入った。それは僕が思っていたほど仰々しい邸宅ではなかった。小ぢんまりとした洋風の門を抜けると階段に鉢植えが並び、入り口にライオンの口を模したノッカーがついている。「さあ。どうぞ」とドアが開かれ、玄関に上がると赤茶色の毛をした小型犬(おそらくはダックスフンドと何かの雑種)がせわしく駆けてきて、尻尾を振り振り夫人の膝にしがみついた。
「でも鳴かないんだ。えらいね」
「ちがうの。声帯を切ってあるの」と美咲は指で首に真一文字を引いた。それから家の中をのぞくようにして「ねえお父さんいるぅ?」と大きな声を出した。
奥からは何の返答もなかった。夫人の手によって、廊下に連なった暖色系の照明がいちどきに灯され、真っ白な壁と数々の細かな装飾品、背丈の低い台に乗ったメモ用紙とその上にあるコルク・ボード(ボードには家族で撮った写真が三枚ほど)、居間に通じるドアがいっぺんに姿を見せた。
「どこか出かけちゃったんじゃないかしら」
夫人はほとんど習慣的に、下駄箱に載ったファブリーズを手に取って腰をかがめ、そこらに吹きかけだした。
「あーあ」と美咲は天井に向かってそう言った。「健ちゃんに紹介しようと思ったのに」
「また来るよ」と僕は笑った。
「またっていつ?」彼女は腰に手をやり、くるりとこちらに体を向けた。まるで駄目な召使いを咎めるような顔つきで。
僕は笑って返答を濁した。
「二人とも手を洗ってらっしゃい。お菓子お二階に持ってくから」
夕食までご馳走になるとは思ってもいなかった。そもそも美咲は運動部に振り分ける活動費の計算を手伝ってくれと僕を呼んだのだ。二階に上がった僕らは、夫人が一階で食事を作っているあいだ、彼女の部屋のロフトに上がって話をした。「部屋は何が出てくるかわからないから今日はここで我慢して」ということだそうである。僕はひとり掛けの白いソファに腰を下ろし、彼女の方はベッドのふちに座って借りてきたDVDを青い袋から引っ張り出しているところだった。
「何から見よっか」と僕を見る。
「うん。──でも、今日ってなんか計算の手伝いするんじゃなかった」
「ナ、なんのことだっけな」と美咲はとぼけて(おどけて)言った。「それより家には電話しなくていいの?」
僕のうちにそんな過保護な人間はいなかった。
「とにかくじゃあ部費の計算はいいんだね」と僕は整頓するように言った。「何か手伝おうか」
「部費は大丈夫。手伝わなくてオーケイ」とまとめて彼女は答えた。それからすぐにディスクをプレイヤーに挿し込み、屈託げに長い息をついてベッドに深く腰を沈めた。僕は彼女の後姿をじっと眺める。肩は狭く細く、まるで今までずっと窮屈な場所に閉じ込められていたんだよとでもいった風である。その上につぼみがあり、頂点に至ったところで五分咲きになっている。彼女自身それをお団子ヘアーと呼んでいた。──締めて十五秒間くらいの沈黙があり、ちょうどユニバーサルのオープニング曲と同時に彼女がこちらへ振り向き、何かささやいた。ごめん聞き取れなかったというと、美咲は手を招いて僕を立ち上がらせた。
「隣に座って」
彼女は親しげな笑みを浮かべながら円い瞳で僕を見た。僕はなるべく意味ありげな雰囲気にならないよう努めながら、三十センチくらいの間隔を置いて彼女の隣に腰を下ろした。
「もっとこっち来なよ」と彼女がお尻を動かす。「シングルだし狭いでしょう」
「うん」
「何。気使ってるの?」
僕は首を振った。「ううん、ちがくってさ」
「じゃあ何なの。もう帰りたいとか?」
「ちがうよ。あんまり女の子の部屋って来ないから、ちょっと緊張してるだけ」
「ふうん。健ちゃんも緊張するんだ」
「するよ」と僕はびっくりして言った。そりゃあ緊張する。
「あんまりしなさそうに見えるのにね。──ねえ私のお母さんどうだった?」
すでに映画は始まっていたが、彼女はそちらに見向きもしなかった。その笑顔のうちにはまた車の中でのときのように、子供っぽいあどけなさが浮かんでいた。すごく親切そうで素敵なお母さんだよと僕は言った。羨ましい限りだ、と。
「本当に? うれしいなあ」と彼女は言った。その口ぶりはまるで熱に浮かされているみたいだった。
テレビ画面にはちょうど僕らと同じようにベッドに腰掛けたアンソニー・ホプキンスが何か小難しい顔つきで腕を交差させている。僕はもういちど彼女のロフト部屋をしげしげと眺めた。
「いつもここで寝てるの?」
「そう」彼女は依然と夢見心地だった。それからふと我に返って「ねえ見て見て!」と立ち上がった(あるいは飛び上がったと言ってもいい)。はやる気持ちを抑えられないと言った風に洋服箪笥に駆け出し、中から何かを取って僕の横にまた腰を下ろした。
「見て」
美咲は箱を手に持って顔の前に掲げ、僕の目をまじまじと見た。箱にはヴィクトリア王朝時代風の装飾が施され、小人用にあつらえたような取っ手がついている。彼女は取っ手をぐるぐると回転させ、それからややもったいぶった手つきでゆっくりとふたを開けると、目を閉じて耳をぴったりとつけた。僕も同じようにした。
その薄暗く、クレア・フォラーニの映った平面テレビから漏れる光を別にすれば何も明かりの点いていない部屋で、僕らはジョン・レノンの「LOVE」を聴いた。美咲はオルゴールが音色を立て始めると、もう一方の手でリモコンを取り、音量をずっと下げた。結局僕らは、巻いた分の演奏が、その箱が奏でる感傷に満ちたオルガンが事切れるまで耳をひとつに寄せ合っていた。彼女の呼吸する静かな生命のふいごが、僕にむしろ愛よりも恋を感じさせた。曲が終わると彼女はゆっくりと目を開けた。
「どうだった」とささやく。まるでこの静寂をそっと見守ろうといった具合に。
「すごくよかった」と僕も同じようにささやいた。
「ね、でしょう。これ普通のオルゴールじゃないの」
「うん。違うと思った」
「パパが収集家の人に譲ってもらったの」それから美咲は指で数ミリの間隔を作った。「中にこおんなちっちゃいオルガンが入っててね。私も開けてみたことはないんだけど」
「すごい」
「ありがとう」
もはや映画を観る雰囲気でもなかった。気づくと僕らは親密で、なおかつちょっと危ない領域に足を踏み入れていた。一旦そうなってしまうと、今さらなにかを意味なさげに見せることなんて無理な話だ。美咲はじっと僕のお腹のあたりを見つめ、ほんの少し肩を強張らせていた。僕は自分が第三者の世界からすでに境界線を踏み越えていることを知った。そして白いブラウスの肩に手を回し、美咲が顔を上げ目をつむったのと同時に、僕は暗闇の中に落ちた。激しい心臓の鼓動と共に。
「大丈夫?」ひとしきり経つと、唇を離して僕はそう訊いた。
彼女は肯き、それから何も言わずに糸で引かれるが如くもういちど口をつけた。それは長いキスだった。僕らは雪崩のような恋の激情に押し流され、同時に立ち向かってもいた。好奇心に満ち、どんなに押し流されようと前へ前へと立ち向かう、冒険者のボートのように。……
やがてテレビから聴こえてくる、僕らにとっての挿話。
***
「ドリューを愛してる?」
スーザンは振り向くと、一瞬不思議そうな顔を見せてから、戸惑った笑みを浮かべた。
パリッシュ氏が繰り返す。「ドリューを愛してるか?」
「パパがママを愛したように?」
「人の話はいい」、パリッシュ氏は話に専念するため、手に持っていた書類をそばに置いた。眼鏡を外し、ジャケットの内側に潜らせる。「……ドリューと結婚する気はあるのか?」
「たぶんね」、スーザンはしばらく考えてからそう言った。
「いいか? 私はあの男を買ってる」とパリッシュ氏は続けた。「頭が切れるし、押しが強い。パリッシュ・コミュニケーションの21世紀を背負って立つ男だと私はそう思ってる」
娘は納得したように肯いた。「で、何が悪いの?」
「それをおまえに訊いてるんだよ、スーザン。おまえからドリューの話を聞いたことがない」
「聞こえてないだけなんじゃない?」
「いいや、ちゃんと聞いてるさ。だがまるで心が躍ってない。興奮のかけらもない。見ていても始終からのつらいほどの情熱もない。一度くらい恋に溺れてみろ。地に足が着かない思いで、歓喜の歌を歌い、踊り出してみろ」
パリッシュ氏は熱っぽくそう言い切った。
「それでいいの?」
「ああ、目も眩む幸せを知れ。いつも心を開いていろ」
「わかった」とため息のようにスーザンは言った。「目も眩むほど幸せに……うん、なれるよう努力する」
パリッシュ氏は続ける。「これも言い古された言葉だが、愛は情熱だ。妄想だ。それなしでは生きられない。……それこそが本当の愛だ。死ぬほど相手を好きになって、相手も同じだけ愛してくれる。そういう人と出会うには、考えずに心の声を聴くんだ。おまえの心からは声が聞こえない。愛する人がいなければ人生を生きる意味などない。冒険を冒し恋に落ちることもなければ、それは生きていないのと同じだ。そういう恋を見つける努力を何もしなければ、……生きる意味はない」
「ブラボー!」
その声でドリューがこちらに顔を向ける。二人は目を合わせると微笑み合った。
「父の助言を茶化すのか?」とパリッシュは呆れたように言い、形式的に書類を手に取った。
「ごめんなさい。ちゃんと聞くからもう一度言って。でも今度は手短に」
「ようし」、パリッシュ氏は頭を整頓するように両膝を手で軽く叩いた。「心を開いていれば、いつか稲妻に打たれる。──私が言いたいのはそれだけだ」
***
口づけが終わると僕らは互いを見つめあい、胸を震わせて静かに笑った。ちょうど誰かが階段を上がってくる音が聴こえ、僕らは申し合わせたように距離を置く。部屋のドアがノックされると、「入って」と美咲は言った。しかし誰も上がってこないので、ちょっと待っててと僕に手振りで知らせ、それから手に何か厄介な代物をくっつけているみたいに両手を挙げ(あるいは「まあ!」のポーズ)スリッパでぱたぱたとロフトの小狭い階段を駆け下りていった。
「お父さん!」ドアが開かれる音と共に、美咲のこんな声が飛び込んできた。「──ねえ健ちゃんちょっと降りてきて。お父さん帰ってきたから」
僕はあわてた。弾かれたようにソファから立ち上がり、口をYシャツの袖で拭って髪を簡単に整え、咳をして声を調節した。部屋に下りるとドアに立っていたのは紛れもない彼女の父だった。目がぐりぐりしていて体格がよく、日に焼けて顔にしわが多い。僕はどんな顔をして彼女の父に対すればいいのかわからなかった。第三者の世界を離れたことで僕の身を包むものはなくなり、ほとんどしどろもどろの状態だった。何より娘とキスしていたなんて極まりが悪い。
向こうも家に他人がいることにちょっと警戒しているような顔を見せた。僕が「はじめまして」と言うと、「うん。君か」と真面目に答えた。
「お父さんこの人健ちゃんね。赤木健一くん」
「うん」
「よろしくお願いします」と僕は頭を下げた。
「だからそんなにかしこまらなくっていいのに。ねえお父さん?」
「うん」
それから沈黙が降りた。僕とお父さんは互いに手持ち無沙汰で立っていた。
「どうする? 下に行って御飯待つ?」彼女はそう言ったあとで僕の表情に何かを見たらしかった。「どうしたの。そんなに緊張しちゃって。──お父さんまで」
「いやあ」と我々は声をそろえた。それから目を見合わせて苦笑した。
「じゃあお父さんはちょっと出てこようかな」
「どこに行くの」
お父さんは生返事をしてそそくさと階段を降りていってしまった。部屋の戸口に残された僕らは顔を向き合わせた。「変なの」と彼女がつぶやいた。
「でもしょうがないよ」
「やっぱり緊張するんだね、健ちゃんでもさ」と美咲は言い、微笑んだ。
「するよ。だって──好きな人のお父さんだもん」
彼女は興味深いものでも見るような目で僕を見た。
「いつからそんなことが普通に言えるようになったの?」
僕は赤くなった。
夕食に出たのは何もかもが小ぶりの、さしづめお手製オードブルと言ったところだった。ピザの生地を思わせる平べったい皿に、揚げたポテトやら海老やらから揚げが載っている。美咲は席に着くとほとんど同時にサラダをよそって僕に渡し、キッチンに立つ湯本夫人に向かって「ねえ、またお父さんどこか行っちゃったんだけど」と不満げに言った。
「あらほんと? でもお夕食はうちで食べるんでしょう」
「知らない」と娘は無愛想に言う。「健ちゃんとだって全然話さなかったし」
「フフフ、緊張してんのよ。あの人も」
「ねえ、健ちゃん?」と僕を見る。僕は笑っただけだった。
「じゃあお酒でも飲んでるのかしら」湯本夫人はそう言ってからすぐに否定した。「ちがうな。多分ね、お父さんサプライズ用意してんのよ。ほらあのときだって──」
「ああ!」と急に美咲は声を上げた。
正にそのとき、玄関から誰かが家の中に入ってくるのがわかった。廊下が軋みを立てると、娘は母に駆け寄ってこそこそと何かを耳打ちした。それからぱっと振り向いて「健ちゃん、気づかないふりしてね。なんにも知らないんだからね」とせっかちに喋った。僕にはなにがなんだかわからなかった。
「じゃじゃーん!」
その声で振り返ると、居間の戸口に立っていたのは両手を広げた格好で静止する邸宅の主人その人だった。それからすっと左手を下ろし、床に置いた袋を持ってテーブルに歩み寄り、袋から箱を取り出した。箱に入っていたのはローマの闘技場みたいなかたちをしたチョコレート・ケーキだった。
「うそ!」美咲はそう叫んでから僕を意味ありげに一瞥し、両手で口をふさぎながらテーブルに駆け寄った。「どうして! どうしてケーキなんて!」
「ハハ、買ってきた」
「どうして」
「だってお客様だもの」それからお父さんは僕を見てはにかんだ。「美咲の父です。よろしく」
ようやく意味を理解したところで、僕は顔から火が出るほど恥ずかしくなってしまった。要するに彼は僕に対するお近づきのしるしとしてわざわざケーキなんてものを買ってきたわけだ。
「お父さんはね、とにかく甘いの」と彼女は僕にこっそり耳打ちした。どこか楽しい秘密を打ち明けるみたいに。「だから優しくしてあげてね」
「うん。もちろん」
そして最後に「結婚したらあなたのお父さんでもあるんだからね」と言って両親の目を盗み、僕の頬に口づけした。
そのとき僕の頭の中で繰り返されていたのはジョン・レノンの「LOVE」をバック・グラウンド・ミュージックにした、ビル・パリッシュ氏の「目も眩む幸せを知れ、いつも心を開いていろ」という言葉だった。