番外編 テトパニック!
息抜き 兼 繋ぎ です。
次からかなりシリアス(的な何か)が続くので今のうちに。
では、どうぞ。
薄暗い部屋。
灯っているのは机の上の小さなランプだけ。
そのランプに照らされ、ぼんやりとその輪郭だけを見る事の出来る人影が机に向かって黙々と作業を続けている。
一心不乱に、机に置かれた数本の試験管の中身を混ぜたり分けたりを繰り返し、時折ランプ以外の炎が灯って何かが沸騰するような音が僅かに鼓膜を揺らす。
うっすらと見えるその人影の横顔にはわずかに笑みが浮かんでいる。
だが、その目は未だ一切の油断もしていない目で作業する手は一向にそのスピードが衰える気配を見せない。
煮だった液体を持ち手の長いスプーンで掬い、慎重に試験管の中に戻していく。試験管の口の近くを指で持って軽く振ると、液体がその振動に合わせたかのように次々と色を変えていく。まるで液体そのものが生きているかのような錯覚を受ける。
それを見て横顔がより笑みを深める。
「ふふ、これでようやく、フランを我のモノに……」
それはテトであった。
他に人がいないためか耳と尻尾を出した姿でテトは試験管の中身を爛々と輝いた目で見つめている。
「予想外じゃったのは素材集めが難航した事じゃな。よもや絶滅危惧種までおったとは」
完成が近いのか、テトは今までの行程を振り返る様に独り言を呟き始める。
何かの粉末を試験管の中に入れ、さらによくかき混ぜていく。
よく見ると、テトの身体を中心に右と左で同じ道具が並んでいる。試験管立てがあり、まだ空の三角フラスコが用意されている。
「とはいえ、完成したら一度実験をしておく必要があるじゃろうなぁ。本人に使う前に効果を確認しておきたいが……」
それまでかき混ぜていた右の試験管立てに戻し、続いて左の試験管立てから試験管を1本取り出すと先ほどと同様に粉末を加えていく。
すると今回は小さな破裂音を響かせて試験管の中身が膨張し始める。あわや溢れ出すかと思いきや、液体は試験管の口ギリギリで膨張を止め、再び元の位置まで下がっていく。
「危ない危ない、デリケートな作業だという事をうっかり失念しておった……」
試験管にヒビが入っていないかと顔を近づけ、特に異常がないことを確認するとテトは小さく安堵のため息をついた。
そしておもむろに先ほど右の試験管立てに立てた試験管をもう片方の手に持つと、その両方を1つの三角フラスコに入れていく。二種類の液体がフラスコの中で触れると接触面が淡く輝き、虹色の液体に変わっていく。
「うむ、完成じゃ」
テトは満足げに頷くと、コルク栓で三角フラスコを密閉する。
中で発光する虹色の液体を見つめながら、テトは妖しげな笑みを浮かべていた。
「猫の失踪事件、ですか?」
とある日の夕方、レティアと共に学園から帰宅するとクレアが特ダネだと言わんばかりのテンションで駆け寄ってきてそう告げてきた。
「ここ最近この町の野良猫が全然姿を見せないの。いつも餌をあげている魚屋のおじさんが訝しんでいたわ」
とはいえ、野良猫だ。
人間のように決まった時間に起きて、決まった時間に朝食を取り、時間に追われるように生活しているわけではない。そういう日が続いてもおかしくはないとフランは考える。
ところが、それを告げるとクレアはそれだけじゃないと言いながら話を続ける。
「昨日、野良猫がどこかで大量死でもしてるんじゃないかと思って町中の野良猫を有志の人たちが捜索したのよ」
「それで、その結果は?」
「ゼロよ。死骸どころか、生きている野良猫の姿すら、1匹も確認できなかったわ。猫の大移動なんてあるわけないし、だとすると何かの事件だと思わない?」
「思いません」
クレアの真剣な眼差しと疑問を一刀両断、間髪入れずに斬り伏せる。
確かに昨日、数人単位で何かを探しているような挙動をしていた人とすれ違ったり、視界に捉えたのは確かだ。野良猫が1匹も見かけなくなったということに事件性を見出すのも無理はないかもしれない。
「もしかしたら、まだ探していない場所があるかもしれません。野良猫は案外あたしたち以上にこの町に詳しいかもしれませんしね」
屋根から屋根へと飛び移り、塀の上を移動して細い場所を潜り抜けていく彼らにとって、町というのは大きな遊び場のようなものだ。その中でかくれんぼをすれば、猫の方が上手だろう。
「とにかく、あたしたちに出来る事はありませんし、大人しく仕事に戻りましょう」
「む~、これだけ話しても分かってくれないなんて~」
クレアがふて腐れて頬を膨らませながら文句を言うが、早く着替えて仕事に戻りたいフランは適当にあしらいその場を後にしようとする。
「あ、あと猫で思い出したんだけど、最近テトも見ないよね?」
「え?」
クレアが思い出したようにそう言い、フランも足を止めて最後にテトを見たのはいつだろうと記憶を掘り起こしてみる。
記憶が正しければ、1週間ほど前からほとんど姿を見せなくなったように思える。フラン自身安眠妨害をする存在がいなくなってむしろ喜ばしいと思っていたが、これだけ長い時間屋敷にいないことは今までなかった。
しかし、1週間もいなければさすがにフランでも気が付いたはずだ。だが実際はクレアに言われるまで気が付かなかった。食事の時間くらいは一緒にいた記憶があるが、昨日は食事の時間もいなかったように思われる。
「やっぱり、何か起こってるんだわ……」
「まさかとは思いますが……。一応メイド長にも伝えておきましょうか。テトも家族ですし」
そう言うとクレアが嬉しそうに表情を明るくして何度も頷く。
その姿を見て本当に彼女は年上なのだろうか、何かの間違いじゃないだろうかと本気で考えてしまう。
とはいえ、今はテトの話が先決だろう。フランはクレアと共にメリスの部屋に行く事にする。
メリスの部屋は玄関からそれほど遠くないため、ほどなくして部屋の前にたどり着く。数回ノックして返事があった事を確認して、ドアを開けるとデスクワーク中だったのか眼鏡をかけたメリスが椅子から立ち上がろうとしているところだった。
「お帰りなさい、フラン。どうかしたかしら?」
「ただいま戻りました、メイド長。実はテトの事なんですが……」
とりあえず、ここ1週間テトの姿をほとんど見ていない事を説明し、クレアに急かされて猫の失踪事件についても話をかいつまんで説明する。
メリスは終始黙ってフランの話を聞いていたが、フランが話し終えると机の上に置かれた一通の手紙を手に取り、フランとクレアに見せた。
「これは先日学園の方から保護者宛てに届いた手紙よ。内容は猫の失踪、何か知っている事があれば知らせてくださいという、ね」
「野良猫ですか?」
「いいえ、飼い猫よ。飼い主の隙を見て逃げ出したそうなのだけれど、この1週間で15匹、それも夕方から夜にかけての数時間に集中しているわ。誰かが猫を引き寄せているようにね」
どうやら、クレアの話はもう一段階進展していたようだ。
野良猫ばかりではなく、飼い猫すら消えている。
「そこにテトも、となると……。あの子も一応猫ではあるし……」
メリスが思案顔になって考え込んでしまう。
フランとクレアは黙ってそれを見つめていた。
しばらくして考えがまとまったのか、メリスは顔を上げる。
「仕方ないわ、テトに関しては捜索願を出しましょう。そのうちヒョコッと戻ってきそうな気もするけれど、この町で起きている事を考えると楽観視するわけにもいかないでしょう」
そう言うのが早いか動くのが早いか、壁のフックに引っかかっていた帽子を手に取ると頭にかぶり、メリスは部屋を後にした。
後にはフランとクレアが残される事となった。
捜索願を出してきたメリスが帰ってきた頃には、テトの話はレティアやグラント、デックスの耳にも入り、リビングでは緊急の家族会議のようなものが開かれていた。
とはいえ、いつの間にか、という表現が似合うテトの失踪に関しては、そのうち戻ってくるだろうという意見が強かった。
しかし、猫の失踪に関しては、グラントが楽観視していなかった。
グラントは自宅で大型の猫を飼っている。到底猫とは思えない大きさだが、自宅に猫を飼っている以上、やはり不安も大きいようだ。
最近はよく夕方窓の外を眺めるような仕草が多いと言う。大型であるが故に逃げ出すことはできないようだが、それでも何かに引き寄せられるというのは確かなのかもしれない。
メリスは明日にでも有志の猫捜索隊の者とアポを取って話をすることにしている。今日もその事で先方に連絡を取っていた。
しかし、結局家族会議程度では具体的な対策など浮かぶはずもなく、レティアが翌日に備えて寝ることにしたのをきっかけに流れ解散、フランも寝ることにした。
テトの事もあってベッドに入ってもしばらく眠れなかったが、テトを探すにしても体力がなくてはどうしようもない。しっかり動けるようにと考え直して早く寝る事にする。
(テト、どこに行ったんでしょうね……)
以前はあれほど毎晩のようにベッドにもぐり込んできて「フラン~♪」と抱き付いてきたテトが1週間もフランを襲いに来ていない。喜ばしい事であるはずなのに、心のどこかで寂しく思っている自分もいる。
その行為自体は当然ながら間違っているが、テトがかけがいの無い家族である事を再確認させられる。
(明日は少し注意して町を歩いてみましょう……)
もしかしたら、何か手がかりになるようなことに気が付けるかもしれない。
猫の1匹でも見かける事が出来たら、レティアには悪いが猫を追わせてもらう事にしよう、と考えつつ、布団を頭から被る。開け放たれた窓から涼しい風が入ってくるが、今日に限っては妙に寒く感じられた。
(…………ん?)
どれほど時間が経っただろうか、不意に何かの気配を感じて目が覚める。
布団を頭から被っているので目を開けても視界は真っ暗ではあるが、何かの動く気配を感じたのは確かだ。
ムクリと起き上がり部屋を見渡すが別段異常は見当たらない。耳を澄ませてみるとわずかではあるが廊下の方から何かが軋むような音が聞こえてくる。壁掛けの時計に目を凝らすと2時を少し回ったところ、こんな夜分に屋敷を移動する者など滅多にいないため、フランはベッドから抜け出すと扉を開けて廊下に顔を出す。
「…………ん?」
キョロキョロと左右を見渡していると、月明かりの中、わずかに動く物を視界に捉えた。
(まさか、泥棒……?)
そんな可能性が脳裏を過る。
別にありえない話ではない。治安が良いとはいえそういう事を考える人間が皆無というわけでもないだろう。フランは部屋に戻ってアフェシアスだけ持ち出すと先ほどの怪しい人影を追って廊下に出る。
一瞬、メリスに知らせるべきかと思ったが、その間に見失っては意味がないと考え直して再び気配を探ると意外にもすぐに見つける事が出来た。何のことはない、暗い廊下をフラフラと歩いている後ろ姿が視界に入ったのだ。
「……あれ?」
何か既視感を感じ目を凝らすと、それが見知った人物である事に気が付いた。
「クレアじゃないですか」
それはクレアだった。寝間着姿ではあるが、その後ろ姿は確かにクレアだった。
「こんな夜分にどうしたんですか?」
お手洗いであれば、ここにいるはずがない。方向が逆なのだ。
そう思って訊ねるが、何故か返事がない。ただフラフラとまるで夢遊病の患者のように廊下に突っ立っている。不審に思って近寄り、その肩に手を置くとビクンとクレアの身体が震える。
そしてゆっくりとクレアが顔をフランの方に向けて来る。
「クレア……?」
「…………お」
「お?」
「お、姉ちゃぁんっ!」
「え……、きゃあっ!?」
突如、クレアがフランに飛び掛かり、そのまま廊下に押し倒した。
フランの上に馬乗りになったクレアは妖しげな薄ら笑いをしながら焦点の合わさっていない目でフランを見下ろしている。
「えへへ、お姉ちゃーん」
ゾクッとフランの背筋を悪寒が走る。
クレアの笑みに身の危険を感じたフランは反射的に身体を回転させてクレアの体勢を崩すとクレアの拘束を抜け出し、クレアから距離を取る。
「なんで逃げるの~? 一緒に楽しい事しよう?」
「クレア、どうしたんですか……?」
明らかに、様子がおかしい。
そもそもクレアはフランの事を「お姉ちゃん」とは呼ばない。それは本来メリスに対して使われるべき言葉である。寝ぼけてフランとメリスを間違えているという可能性はあったが、それにしてもおかしい。
「あは、あーそーぼー!」
まるで幼児のようにニパッと笑うとクレアは再び飛び掛かってくる。
今度は横に避けるとクレアが真横をすり抜けていく。そしてその首筋に軽く手刀を入れると、クレアが意識を失い廊下の倒れ込もうとするのでそれを抱き止める。
「これはメイド長に知らせるべきですね……」
意識を失ったクレアを肩に担ぎ、フランはメリスの部屋へ向かう事にする。
ふと、甘い匂いを感じる。
すると頭がボンヤリして視界が歪み、平衡感覚が失われていくのがフラン自身にも分かった。慌てて壁に手を付いて転倒を防ぐが、甘い匂いは身体から力を抜き取っていく。
(これは……いったい……)
この屋敷内で何かが起こっているのは確かなようだ。
ぼやける意識と身体に鞭を振るい、肩に担ぐクレアを落とさないように気を付けつつメリスの部屋へ急ぐ。
「メイド長、すいません、起きていますか?」
真夜中にメリスの部屋に来るのは初めてだ。
基本的にいつ寝ているかも分からないのがメリスなのだが、さすがにこの時間なら寝ているだろうと思って軽めのノックと小声でメリスに声をかける。
だが、いくら待っても返事はなく、部屋の中からは動く気配も感じられない。
(おかしい、いくらなんでもメイド長は寝起きが悪くないはず……)
不安になって「失礼します」と言ってからドアノブを回すと、鍵はかかっておらず静かに扉が開いた。
部屋の中は暗く、視界も悪いため恐る恐る部屋に入ると辺りを見渡しながらメリスの執務机の上にあるランプに火を灯す。
すると部屋が明るくなり、隅々まで見渡すことが出来るようになる。
「ふう、とりあえず――――――、うわっ!?」
クレアをメリスのベッドに寝かせてメリスを探そうと振り返ると、目の前にメリスが立っていた。
いつもの皺ひとつないメイド服に身を包んでいるメリスが俯いた状態でフランに身体を向けている。
(い、嫌な予感しかしないのですが……)
物凄くデジャブを感じたフランは、慎重にメリスに近づき、その顔を覗き込もうとする。
「メ、メイド長……?」
「フ、ラン……」
俯いたメリスの口からわずかにその単語が聞こえ、ホッとため息をつく。
「良かった、メイド長は正気でってぇ!?」
安堵した直後、メリスがいきなり愛用している剣を虚空から引っ張り出してフラン目掛けて横薙ぎにしてきた。身体を反らせてそれを回避すると、即座に部屋の出口目掛けて走り出す。
「フラン、どうして逃げるのかしら……」
「逃げます。全力で、余力を残さず、一目散に、なんといわれようと逃げます!」
一瞬振り向いた時に見たメリスの目で全てを理解した。
メリスもまたクレアと同じ状態にあると。
だが、クレアと違いメリス相手に戦う事は自殺行為に近い。意識を失ったクレアを床に放置したまま、フランは脱兎の如く部屋を飛び出すと振り向きざまに部屋の扉を勢いよく閉める。外から鍵を閉める事は出来ないので、そのまま走り出すと間髪入れずに扉が3枚に下ろされる。
そしてゆったりとした足取りでメリスがその姿を現すと、フランは戦慄した。
メリスは笑っている。まるで狂気に飲みこまれたかのような笑みだ。特訓と称してメリスの地獄の鬼ごっこをした時でもあそこまでではなかった。まだ理性が残っていたが、今のメリスは違う。もはや獲物を狩るためだけに存在する猟犬のような目をしている。捕まる事は死を意味すると本能的に理解出来る。
「まさか、この調子じゃお嬢様も……」
「フラン……、どこに隠れたのかしら……?」
レティアの事を考えつつも、後ろから聞こえてきたメリスの抑揚のない声に戦々恐々とする。
速度を緩めることなく、階段を上がりレティアの部屋を目指す。後ろからゆっくりと階段を上がってくる足音が聞こえる度に心臓を掴まれるかのような恐怖に襲われる。
「お、お嬢様っ、起きてますか?」
部屋の前にたどり着くと極力冷静を装って扉を叩く。
だが、そうしている間にも足音が近づいてくるのが聞こえてフランは自分でも身体が震えているのが分かった。
「……フラン? ちょっと待って今開けるわ」
部屋の中からレティアの声が聞こえ、安堵すると共に廊下に視線を向ける。
月明かりが窓から差し込む中、暗闇からメリスが姿を現し、フランは目が合った。
「みぃつけた……」
笑みが吊り上る。
死すら覚悟させられるようなその笑みを見た直後、鍵が開く音がして部屋の扉が僅かに開く。
「どうしたの……きゃ!?」
「失礼します、お嬢様!」
開いた扉に手をかけ、押し開けると即座に身体を滑り込ませ、すかさず鍵を閉める。
荒い息のままフランはレティアをベッドの方に押しやり扉から目を離さない。
「ちょ、どうしたのよ、フラン。こんな夜中に」
「説明している暇はありません。とにかく大変な事になっているのだけは確かです」
「大変な事?」
いまいち状況が理解できていないレティアはきょとんとした表情をしている。
そうこうしている間にも足音が大きくなり、扉の前まで来ると足音が止まる。扉の隙間から差し込む月明かりが遮られ、扉の前にメリスが立っている事をフランに知らせる。
最悪、レティアを連れて屋敷から脱出するという事すら考える。グラントの自宅へ行き、助けを求めるべきか。
ただ、この屋敷にはまだデックスもいる。姿を見ていないが、もしかしたらまだ無事かもしれない。
(メイド長すらあの状態、デックスさん、無事だと良いのですが……)
カシャ
ふと、何かの音が聞こえ、手首に違和感を感じる。
「え?」
視線を落とすと、右の手首に鉄の輪のようなものが取り付けられている。鉄の輪には鎖があり、その先にもう1つ鉄の輪がある。
10人中10人、それの名称を問われれば「手錠」と答えるだろう。
頭の理解が追いつくよりも早く身体を背後から引っ張られ、ベッドに押し倒される。再びカシャッという音が聞こえ、手錠のもう片方がベッドを支える柱にかけられる。フランは右手を万歳に近い角度まで上げて仰向けに倒れている状態だ。当然、アフェシアスを握っているのは右手なので慌てて左手にアフェシアスを持ちかえようとするとその左手をレティアに押さえつけられてしまう。
「……な、なんの真似ですか、お嬢様……」
もはや、冷や汗しか流れない。
「ふふ、良い事、しましょう?」
「まさか、お嬢様まで……」
レティアの手には手錠が握られている。
それを今度は左の手首にかけ、右腕と同じように支柱に固定してしまう。今度こそ完全に万歳の状況にされてしまう。
「お、お嬢様、正気に戻って下さい!」
「何を言ってるの? あたしは正気よ? これが本当のあたし、他の誰かにフランを取られる前に、あたしが貰ってあげる」
「な、なにをですか!? いや、本当に止めてくださいよ!」
もはや懇願に近い。
「だけど……」
そこで一度言葉を切ると、ベッドから立ち上がってレティアは扉の方へ向かう。
そしておもむろに鍵を開けると、扉を開いて目の前に立っていたメリスを部屋の中に招き入れてしまう。いつの間にかメリスの背後にはクレアがおり、妖しい目をした3人が逃げる事も出来ないフランを見下ろす。
「さあ、フラン――――――」
「一緒に――――――」
「アソビマショウ――――――」
「い、いやあああああああああああああっ!!」
フランの声が屋敷中にこだまする。
ガタンッ
何かが落ちる音がして今まさにフランに伸ばされようとした腕がピクリと止まる。
一斉に顔を上げ、扉の方に視線を向けると、そこに人影があった。
「ななな、なんじゃこの状況は……」
「テト!」
そこに立っていたのは腕に猫を抱えたテトであった。
その足元にも猫がいる所を見ると、抱えていた猫を取り落してしまったようだ。
テトは部屋の中の状況にワナワナと震え、何かが切れるような音を発すると猫を床に下ろして大きく息を吸い込んだ。
「お主ら、我のフランで何をしようというのじゃ! そんな羨まっ、……けしからんこと我が許さんぞ!」
途中何か言おうとしたがあえてフランは聞かなかった事にする。
テトは部屋の中に飛び込んでくると瞬く間にクレアをノックアウトし、剣で応戦しようとしたメリスの手首を蹴り上げて剣を吹き飛ばすと身体を捻って回し蹴りをメリスに食らわす。そして最後にレティアの頭に強烈なチョップを食らわせるとあっという間に部屋で立っているのはテトだけになっていた。
「ふう、一体何があったというのじゃ……、フラン、無事か?」
「た、助かりました。ついでにこの手錠も外してもらえると助かるのですが」
「ふむ? 手錠とな……? なんでそんなものがレティアの部屋に……」
不審に思って考え込むテトはふと視線をフランの身体に向け、その視線を2つの手錠に向け、そしてフランの顔に戻した。
「…………」
「テト、まさか……」
「もしや、これはフランを我が物に出来る最高のチャンスかの?」
「冗談じゃありません! さっさと手錠を外さないと後で後悔しますよ!?」
そんな事になっては元も子もないので語尾を強めてテトに叫ぶ。
「分かった分かった。ほんの冗談なのじゃ……」
おもむろにテトはポケットから小さな金属製の鍵を取り出し、ベッドに膝を乗せるとフランの身体の上を通って手錠を外す。
腕が自由になったのを感じて身体を起こし、手首を摩りながら部屋の状況を見渡す。
クレアとメリスは床に突っ伏し、レティアはベッドに寄りかかる様にして気を失っている。
「一体何があったのじゃ?」
「分かりません。ですが1つだけはっきりしている事があります」
「ほう、それは?」
「これです」
バガンッ!!
言うのが早いか引き金を引くのが早いか、フランはテト目掛けてアフェシアスの引き金を引いていた。
済んでの所でテトは避けたようだが、フランはテトを思い切り睨み付ける。
「な、なにをするのじゃ!」
「あなた、今さっき自分がした行為に気が付いてないんですか?」
「な、何にじゃ……」
フランは自分の手首を指差しながらアフェシアスの銃口をテトの眉間に向ける。
「テト、手錠の鍵を外したでしょう。どうしてあなたが鍵を持っているんですか?」
「あ――――――」
バガンッ!!
再び発砲。
今度はテトの髪の毛は数本切ったが、命中には至らない。
「つまり、何をしたのか知りませんが、この状況の原因はテト、あなたにあるということでしょう?」
「いやいや、ちょっと待つがよいのじゃ! 確かにその手錠は我がいつかのために用意していたモノじゃ。じゃがレティアには渡してないし、そもそも我はさっき帰ってきたばかりなのじゃよ!?」
「今までどこで何をしていたんですか?」
そう訊ねるとテトはばつの悪そうな表情をしてドアで爪とぎをしている猫に視線を向ける。
「その、なんじゃ、野良猫を集めて餌付けしていたというか……」
「最近町で猫を見かけなくなったと思ったら、テトが集めていたんですか」
話題が変わったのを感じてテトはガバッと顔を上げるとフランに顔を近づける。
「そ、そうなのじゃ! あまりに野良猫たちが可愛くてな、ついやってしまったのじゃ!」
「ですがそれとこれとは無関係ですよね? 一体何をしたんですか?」
「だから、何もしておらんのじゃ!」
した、していないの応酬が続く。
テトは本当に心当たりがないようで、必死に自らの無実を訴え続ける。確かに心当たりがあればむしろ開き直るテトがここまで言うのだから、本当に何も知らないのかもしれないという気がしてくる。
「ですが、だとするとあの奇行は一体……」
「奇行? それはどんな奇行なのじゃ?」
「心ここにあらずと言った感じで、妙にあたしを追い回してきました。まあ、結果はテトもご存じの通り、このベッドに固定されてしまったのですが……」
そう言うと、テトが考え込むような動作をして、次の瞬間勢いよく部屋を飛び出していった。
「ちょ、テト!?」
突然いなくなったものだからフランも反射的にテトを追いかけるべく部屋を出る。気配を頼りにテトを追うと、使われていないはずのグラントの執務室にたどり着いた。
僅かに開いたその扉から中に入ると、執務机の前で茫然としているテトがいることに気が付く。
「ば、馬鹿な、我としたことが……」
「どうしたんですか、テト」
気になってそう聞くが、テトはあまりのショックにフランの声も聞こえていないようだ。
がっくりと膝をつくと、机の上の試験管立てに立ててあった1本の試験管を振るえる手で持ち上げ、半泣き状態でそれを見つめている。
「そんな……2週間の苦労が……」
試験管の中には何も入っていない。唯一何かの液体が入っていたのか跡が残っているのだけは確認することが出来る。
「テト、正直に言ってください。正直に言えば、怒りません」
静かにフランが言うと、テトはゆっくりと起き上がって手に持つ空の試験管をフランの方に見せる。
「惚れ薬、魅惑の薬、呼び名はたくさんあるが、要は他人の心を手中に出来る薬じゃ。2週間前から原材料を集め始め、時折効能を猫で確認しておったのじゃ」
「誰に使うつもりだったのですか?」
答えは分かっているが、念のため聞いておく。
「むろん、お主にじゃ。とはいえ、もはやばれてしまった上、完成品も失ったとなれば諦めるしかない」
がっくりと項垂れるテトの様子から、準備に相当労力を費やしたことは容易に想像がつく。
だが結局、フランに使うことすらできず、薬は気化して屋敷にいたレティアたちに使われてしまったようだ。
「残念でしたね、テト」
「うむ、実に残念じゃ……」
「それでは思い残すことはあるでしょうが、言い残す事はないですね?」
そう言うとフランはおもむろにアフェシアスをテトの眉間に押し付ける。
「……怒らないと言っておらんかったか?」
テトが尋常ではない汗をかいているのが分かる。
そんなテトにフランは小声で最後通牒を突きつける。
「怒らないとは言いました。ですが殺さないとは言ってません」
「さ、詐欺じゃあああああああああああああっ!!!!」
直後、乾いた発砲音が響き渡った。
「うう、ん、なんか頭痛い……」
「お嬢様もですか、実は私も今朝から頭痛が酷くて……」
「あれ? 皆もなの?」
翌日、朝食を食べるレティアを中心にメリスとクレアが頭を抑えながらそんな事を話している。
「フラン、何か知らない?」
「し、知りません」
本当の事など言えるはずがない。
言ったら恥ずかしさで顔から火が出かねない。フランもだが、レティアは自然発火してもおかしくないだろう。
「頭痛でしたら、後でデックスさんに頭痛薬を貰ったほうが良いのでは?」
だから素知らぬ顔でそれだけ言う事にする。
「そうね、そうするわ。それとテトの件だけれど、今日少し外を探してみるわ」
「あ、その件ですけど、テトは見つかりました」
メリスの言葉に思い出したようにフランが人差し指を立てる。
その言葉にレティアとクレアが顔を上げ、意外そうな顔をする。
「あら、帰ってきたの?」
「はい、昨夜のうちに。今は眠いのかあたしの部屋のベッドで寝ています」
「はは、フランも大変ね」
「まあ、あたしが拾ってきた猫ですから……」
大広間で乾いた笑い声が響いた。
「むぐ――――――ッ!」
その頃、テトは自分の手錠でベッドに縛り付けられ、猿ぐつわをされた状態になっていた。
眉間の先には天井から包丁が1本吊り下げられており、その包丁の紐は壁を伝ってベッドの横に置かれたろうそくの上に繋がっている。
つまり、ろうそくに火が灯ればほどなくして顔面に包丁が命中するというわけだ。
しかし、今はまだ火はついていない。マッチが器用にろうそくの上の部分に固定されており、そのマッチは時計の針に結ばれている。時計の長針には小さな剃刀が付いていて、12時を指す頃には短針に結び付けられた紐をそれが切るようになっている。
今は7時前なのだが、フランの部屋の時計は時間が進められていて11時55分を指している。
そして長針が僅かに動く度に、テトの息が荒くなっていく。
テトは心の底から詫びた。
だが、後悔はしていなかった。
それが、テトであった。
因みに騒動に巻き込まれかけた人物がもう1人いる。
デックスだ。
彼もまた屋敷に住みこみで働いている。
幸いにして彼が寝ていたのは屋敷の端、調理場の横で彼自身がとんでもない事になる事だけは避けられたのだ。
あの騒動が起きている間、当然デックスもそれに気がついてはいた。
だが、さすがにあの状況の中に飛び込む勇気はさすがのデックスにもなかった。
1つはメリス、彼女が剣を抜いているのだ、飛び込むのは自殺行為。
1つはクレア、あの子もあの子でなかなかしたたかだ。
1つはレティア、彼女とフランの間に割って入ったら殺されかねない。
以上の状況からデックスは内心フランに詫びながらも、助けに行くことはしなかった。
(俺がおかしくなったらそれもそれでやばいだろう)
そんな事も考えていた。
歪みないテト。
あえて騒動を無視することで保身に走ったデックス。
まあ、そういう事もあります^^;
番外編とありますが、正直普通の話にしちゃっても良かったんです。ただ字数が軽く1万超えていたので。
誤字脱字報告、ご感想などお待ちしております。
では、また次回。