第01話 メイドの朝は早い
とりあえず、言いたい事は第00話の後書きで言ったので、レッツラゴー。
「おはよう、フラン」
メイドの朝は早い。
自分が仕える主が起きる数時間前には眠気を地平線の彼方へと吹き飛ばして朝の仕事をこなさなければならない。
「おはようございます、メイド長」
眼帯をした少女、フランが広いダイニングに顔を出すとフランと同じ格好をした女性がテーブルの上を綺麗に磨いていた。
美しい金髪を腰まで伸ばしたこの屋敷のメイド長、メリスは威厳のある表情を変えることなくフランに挨拶をしてきたため、フランは軽く会釈をするとダイニングに隣接した調理場に向かう。
「おはようございます」
調理場はダイニングに隣接しているとはいえ、少々距離がある。もちろん、朝から調理している音などで目を覚まさせないためだ。特にこの時間帯は主と食事の時間を被らせないように早起きしたメイドが朝食を取るために否応なく物音は増えてしまう。
フランは調理場に入ると中にいた男性に声をかける。
男性はフランを一瞥すると小さく頷き、座っていた椅子から立ち上がるとキッチンの前に立った。
男性の名はデックス。
この調理場の王として君臨している。フランがこの屋敷の世話になる前からいるため、彼女は詳しい経歴を知らないが、腕は確かだ。作れない料理はない、とまで噂されているほどで、事実常人が思いつく料理はたいてい作れる。
デックスの調理姿を眺めながらフランは近くにあった椅子を持ってきてキッチンのスペースがある場所の前に置き、その上に腰かけて朝食を待つことにした。
しばらくしてデックスが皿にハムエッグとサラダを盛り付けてフランの前にやって来た。フランがそれを見て満面の笑みを浮かべると寡黙で無表情なデックスの表情も一瞬緩んだように思える。
デックスはこの屋敷の調理場を1人で切り盛りしている訳だが、主であろうと使用人であろうと分け隔てなく全力を以て調理してくれる事で評判だ。定期的に新作を考案してはその評価をメイドや執事に頼んでいるため、彼らの間ではちょっと得をした気分になれるそうだ。
フランは目の前に置かれたハムエッグと近くに切った状態で積まれていたパンを一切れ取って今日の朝食とすることにした。
「では、頂きます」
パンを手を千切って一口大にすると口の中に放り込む。ジャムなど何もつけずとも素の味で満足できるのも、このデックスの料理の特徴だ。
サラダにフォークを刺そうとした時、調理場の扉が開いてフランと同じメイド服を着た少女が入ってきた。青い空を想起させる青い目と髪が特徴的で、まだどこか幼さが残っているような少女はフランに気が付くと笑いながらその隣に椅子を持って歩いてきた。
「おはよう、フラン」
「おはようございます、クレア」
身長はフランとほとんど変わらない。一応フランよりも年上という事のはずなのだが、童顔のおかげで幼く見えてしまう。
「ナトリ、あたしにも同じのを頼むよ」
ナトリとは、デックスの名字だ。デックス・ナトリ、大抵の者はデックスと呼ぶが、ナトリと呼ぶ者も少なくない。とはいえ、片方しか使わない者の方が珍しく、その時の気分で呼び方はコロコロ変わっている。
デックスはクレアに小さく頷くと再びキッチンに向き合いフライパンに流れるような手つきで油を引いてハムを敷き、卵を落としていく。
「さっきね、ダイニングで姉さんに怒られちゃったよ」
「メイド長に? 今度は何をしたんですか」
クレアはメイド長であるメリスの妹だ。自分であろうと他人であろうと厳しいメリスも妹にだけは甘いかと思えば、そんな事はなく、むしろ妹であるがゆえに厳しい面もある。
そのため、クレアがメリスに怒られるのは別段珍しい事ではない。
だが、今日のようにそれを話すのは珍しい。
そう思ったフランは食事の手を休めてクレアに顔を向けた。
「それがねぇ、『後輩より起きるのが遅いのは先輩として失格だ』、ですって。フラン、明日からあと5分寝坊してぇ」
今にも泣きそうな表情をするが、こういう時はたいてい同情を誘っているのだ。特に怒られた原因が目の前にいるのだから、そう言いたくなるのも分からないではない。
「……クレアがあと6分早起きすれば済む話じゃないですか」
何事かと心配してしまった自分と、大事のように文句を言うクレアに呆れながらそう言うと、クレアが足をバタバタさせながら抗議をし始める。
「良いじゃない~、フランの仕事は7時からでしょう? ならそれくらい……あだっ」
クレアの抗議を遮る様に綺麗に拭かれたお玉がクレアの前頭部を軽く叩いた。見ればデックスが皿を持って立っていた。
「ほら、デックスも言ってるでしょう」
「……言ってないよ……」
額を摩り、渋々黙り込んだクレアはパンを頬張ってすぐに笑顔になる。
「ん~♪ やっぱり焼き立ては美味しいね~」
数十秒前の顔が嘘のように屈託のない笑顔に戻ったクレアに、フランもホッと溜め息をついて自分の食事に戻る。
「デックスはわざわざあたしたちのためにまで焼き立てのパンを作ってくれるし、本当に他の屋敷の料理人も見習うべきね」
「それはそうですね。まあ、ここ以外をあたしは知らないんですけれど」
他を知らなくても、デックスがこれ以上になく出来た男であるのは分かる。黙っていても自分のやるべきことと相手が望むことを合致させるという技を習得しているのだ。これで愛想も良かったらそれこそ完璧な人間になるだろう。
フランは先に来た分、クレアより幾分早く食べ終わった。
これからが本来の仕事であるデックスの手を煩わせるわけにはいかないので食事の後片付けはフラン自身がやる。「ごちそう様」とデックスに礼を言って皿とコップ、フォークなどを重ねて流し台へ向かう。
流し台は昨日の夜に水跡1つなく拭かれたままの状態で、フランは少し得をしたような気分になりながら蛇口をひねり、水を出して皿を洗い始める。
さすがに主が使う食器とは分別がされているが、次に誰が使うか分からない食器であるため、いつものように丁寧に、次に使う人が眉を顰めないように丹念に汚れを落としておく。
それが全て一段落した辺りでようやくクレアが食事を終えたが、その時には料理場の時計が6時20分を指そうとしていた。
「クレア、あなた今日はメイド長と同じシフトだったんじゃないんですか?」
「ほえ? …………あ」
「……はあ、洗っておきますから言い訳を考えておいた方がいいですよ」
「うわわ、1日2回なんてどんな顔して行けばいいんだよ~……」
今度こそ本当に泣きそうになっている。
さすがにこれには同情する。
メリスはとにかく厳しい。先ほどのクレアのようにちょっとした事から徹底的に教え込まれるため、フランもこの屋敷に来た頃は苦労した。
だが、その分面倒見が良いのも確かで、相手の物覚えが悪いからと言って文句を言ったり、放り投げたりは決してしない。あくまで自分の仕事は徹底的に仕上げるのが彼女のモットーだ。
今日のシフトではメリスとクレアが朝の掃除当番なのだ。掃除はなるべく早い時間帯に行われ、主が起きてくる頃には埃1つない状況にしておかなければならない。
本来掃除は6時頃から行われる予定なので、クレアも十分間に合う時間帯に起きているはずなのだが、食事にかまけている間に時は無情にも過ぎ去ってしまっていた。
「はわわ……」
情けない声を上げながらクレアは調理場を慌ただしく飛び出していった。
「まったく……」
先輩のはずなのだが、先輩らしい頼もしさの欠片もないクレアにため息をつきながらフランは手早くクレアの皿も洗っていく。
洗った皿は隣のかごに移していき、最後の皿を洗い終えるとタオルで手を拭いて一度時計に視線を向ける。時計は6時45分を指していて、フランの仕事が始まる時間が近づいている事を示している。
「……え~と、デックスさん、今日のお嬢様の朝食は?」
デックスに顔を向けると、デックスがキッチンの引き出しから1枚の紙を取り出し、フランに手渡してきた。そこにはフランの求める朝食の献立と使われる材料、さらにはその生産地までが事細やかに書かれている。
フランは書かれている字を目で追いながらそれを頭の中に叩き込んでいく。
「これだけは慣れませんね……」
一通り目を通すと紙を裏返して書かれていた情報を暗記できているかブツブツと呟き始める。何を聞かれても答えられるように覚えている訳なのだが、生産地などはそう毎日変わるようなものではない。それでも頭に入らないためにフランは毎日その日の献立をなるべく記憶の新しい場所に入れる必要がある。
「ええと、スープのトウモロコシは……フィ、……フィル、あれ、フィリ?」
そして案の定頭に入っておらず、何とか思い出そうと頭を抱えるがどうしても出てこない。
「……フィリアコフ産」
「そうです、フィリアコフ産です! ああもう、デックスさん、もっと短い名前の土地から仕入れられないんですか?」
それは無茶だ、という視線だけが返される。
材料の仕入れ先は基本的にデックスが決めている。彼自身が現地に赴き、納得がいく質、量、そして価格であればその場で交渉しているそうだ。
そのため、季節の変わり目になると時折デックスが調理場を空ける時がある。そう言う場合はメイドと執事で切り盛りするわけだが、デックスと比較して味が落ちてしまう事は回避できない問題だ。デックスの料理の腕に張り合おうとする人間が過去にはいたそうだが、その無双っぷりの前に誰一人として勝利を収める事は出来なかったそうだ。
あのメイド長であるメリスでさえ、勝利は叶わなかったとか。
そのおかげでデックスはこの調理場において絶対的な権力者として君臨している。彼が許さなければ調理場で調理する事すらままならないと言っても過言ではないし、そこまでして調理しても結局は彼と比較され負けるのが見えているこの屋敷の人間はそんな事をしない。
「むぅ、朝食はまだ覚えやすいはずなんですけど……」
朝食は寝起きという事もあり、さっぱりとしていてあまりたくさん出さない。そのため問題はむしろ夕食である。
それなりの量を出すし、必然的に材料も増え、覚えなければならない事が増えていく。朝からこの調子では今日一日苦労してしまう。
そんな事を考えながらもう一度献立と材料の産地が書かれた紙とにらめっこをし始める。
時計の針は6時55分を指そうとしていた。
「はぁ、結局全部は頭に入らなかった……」
朝食は基本的にフランたちが食べたものと変わらない。フランたちと違うのは温かいコーンスープが付いていることくらいだ。覚えるべき材料にしても、小麦や卵、肉と言った比較的安定した産地を持つものだけだったのだが、それでも小麦の産地を覚えると卵の産地を忘れ、卵の産地を覚えると肉の産地を忘れるという、どうにもならない状況に陥ってしまった。
「お嬢様、トウモロコシの産地だけは聞かないでくださいね……」
最終的に妥協したのはトウモロコシの産地だ。一番最初に覚えたような気もするのだが、そんな事もすでにフランの中では大昔の事になっている。
フランは今この屋敷の実質的な主の寝所へ向かうために廊下を歩いている。朝の日差しが窓から差し込んでおり、心地よい涼しい風がフランの頬を撫でていく。
時間は定刻きっかり、遅すぎず早すぎずと言ったところだ。そしてたとえ遅くなっても廊下を走るような事はしない。
足音を立てず、服が擦れる音すら極力出さないように心がける。
「……はぁ」
フランがメイドの基本的な事を守ろうとしているのに、屋敷のどこかからクレアの悲鳴が聞こえてくる。大方、メリスに叱られているのだろうが、本当に年上かと疑わせるほどクレアは子供っぽいところを持ち合わせている。
「お、フラン。時間きっかりだな」
目的地である部屋の前にたどり着くと、既にその扉の前には1人の執事が立っていた。背が高く、茶色の髪をオールバックにしているその執事はフランに気が付くと胸ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認した。
「すみません、グラントさん。朝の献立が頭に入らなくて」
「ふむ、では私も朝食に付き合おう。分からないことがあればフォローしよう」
わずかに小じわが見えるその執事、グラントは気さくに笑みを浮かべてフランの頭を撫でた。
傍から見ていれば父と子が話し合っているようにも見えるかもしれない。とはいえ、このグラント、40代後半を思わせる風貌だが実年齢は30代、歳の割に老いて見えてしまう事を彼自身もコンプレックスにしている。
特に年齢の話題を出されると年頃の女性を思わせるほど敏感に反応するほどだ。
フランはグラントの言葉に満面の笑みを浮かべる。
「グラントさん、この感謝は絶対に忘れませんよ」
「はは、それほど大それたことでもないだろう」
グラントはメリスと共にフランをメイドとして鍛えてくれた人物だ。メリスが家事全般を教えてくれたのに対し、グラントは外での仕事を中心に教えてくれた。
特にデックスがいない時や、自分たちで何か食べようと思った時のために近くの市場で食糧調達が出来るように実地で練習させられた時は、さながら小さい子供に初めてのお買い物をさせる父親のような目で見られてしまった。
あの頃はまだ頼まれた食材のイメージと実際の食材の姿が一致せず、間違った食材を買ってしまう事も多かった。今でこそとんでもない物を買うような事はなくなったが、それでもたまに似たような食材を間違える事はあり、その度にメリスやデックスにはため息をつかれてしまう。
「そういえば、奥さんの調子はどうですか?」
「今日の献立も覚えていないのに妻の事は覚えているのか」
「うぐ……」
悪気があって言っているのではない事はその表情を見れば分かるのだが、それでも何か頬を叩かれたような気分になってしまう。
「やっぱり、印象的な事は頭に残るっていうか、なんというか……」
「まあ、お嬢様の食事と私の妻を両てんびんにかけるなら、そうなるかもしれんが……」
さらっと執事として随分と失礼な事を言っているが、現在の彼の妻の状態がそれほどなのは確かだ。
「はは……、確か4カ月、でしたか?」
「そうだ、安定期になって随分だが、最近お腹が大きくなってきてな。ようやく実感が湧いたよ」
話の内容からも分かる様に、グラントの妻は妊娠している。執事としては既婚者であるグラントは現在3人家族、もうじき4人目の家族が加わろうとしているところなのだ。それ故にグラントも最近は仕事を早く切り上げたり、シフトを他のメイドたちとは軽くしている。
仕事と家族を両立させている数少ない成功例らしく、毎朝早い時間帯に自宅から徒歩通勤している。フランたちのように住み込みで働いている者が圧倒的に多い中ではかなり珍しい部類に入る。
「今日も早く仕事を終わりに?」
「そのつもりだが、まあそうも言ってられん状況になりそうなのでなぁ……」
フランの問いにグラントが渋い顔をする。
「……確か、お嬢様はクラスは……」
「うむ、私たちの予想通りになれば早帰りともいかん。妻にも今日明日は遅くなると伝えているし、問題なかろう」
グラントの言葉にフランは小さくため息をついてしまう。
ポケットから小さな手帳を開き、予定表のページに目を通すと、2人の懸念通りの事が書かれている。物忘れが激しいフランにとって手帳は必要不可欠、決して忘れる心配をしないで済む。とはいえ、時折「書いたという事実」すらスッポリ忘れてしまう事もあるのだが。
「先の事をくよくよ考えていても仕方ないな。さて、仕事に移ろう」
「ですね、では」
グラントが気を取り直して着ている服の襟を正し、フランも自分の服が不自然ではないか確認する。
そしてフランが準備万端になったのを確認してからグラントは両開きの扉を軽く二度ノックすると「失礼します」と言ってドアノブを回した。
グラントに続いて部屋に入ると、広い寝所が視界に入る。入って左手にベッドがあり、布団の中で丸まっている少女がいる。グラントは小さくため息をつきながらおそらく昨日のままの状態であったのだろう机の上の本や椅子の背もたれにかけられたままの服を片付け始める。
フランはそれを横目にベッドの横に立つと布団の中を覗き込む。
ベッドでは燃えるような紅い髪の少女が規則正しい寝息を立てている。
「お嬢様、朝ですよ」
それがフランの始業ベル代わりでもある。
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