ノルウェイの森 作;村上春樹
恋愛小説、という括りが一つの固定観念として石のように頭の片隅を占めていた。
一回目、この村上春樹の傑作を読んだ時はこれは非常に優れた現代文学だと思った。現代人の抱える、こうモヤモヤした霞み、そして全てを知りつつもそこから逃れられない不条理な運命を、主人公ワタナベの回想からビートルズの「ノルウェイの森」をBGMに語られていく。
あなたの為の私、私の為のあなた。そんな相互関係は幻想だろうか。ヒロインの一人である直子は前者を求めながら後者に縛られ、またもう一人のヒロインの緑は後者であり前者でもあろうとした。私の推測ではこの二人のヒロインが得られた愛など結局無かったのではないだろうかと思う。また、これが女のエゴであるならば男のエゴもまた悲劇的である。ファウストのような男、永沢。異邦人のまま退場し、遂に最後までその消息が分からない同級生の「突撃隊」。ワタナベの親友であり直子の恋人であった男、キヅキ。まるで始めから噛み合わない歯車を並べたような構図である。これは確かに、ビートルズの歌の歌詞と似たものを感じる。
さて二回目。もう一度この小説を読み返し、一体「恋愛小説」とは何か考えた。一途に想い続けた人と結ばれるまでのサクセスストーリーか、それとも恋人が不治の病でポックリ逝ってしまう安価な悲恋か。私にはそんなイメージだった。しかし、である。これはあくまで「恋愛」であった。「愛」なんて完成されたものではない。不完全も不完全、矛盾を抱えてもがき苦しむことこそ恋愛であるのかも知れない。この小説の中で特に気に入った文が幾つもある。
例えば、直子の手紙にある「歪み」について。彼女はサナトリウムで暮す人々を自らの「歪み」に気付いた人間とし、普通の社会に暮らす人々を自らの「歪み」に気付かない人間だとした。歪みを正当化できない人間が狂っているというのは何とも皮肉だ。
また、のちにワタナベが喪失の中に見出した真実も、真に迫るものがある。
「どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ」
これは如何に言葉を尽くそうともこれ以上にないくらい悲しい気持ちをよく表している。胸を打つ文章というのはこういうのを言うのだろうと思う。
そして二週目になって気付いた一文。
「人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」
この永沢の台詞は小説冒頭、ワタナベが直子を失ってようやっと理解し始めたことに絡めているものでもある。
数々の名文に彩られ、男女の在り方への深い示唆を与えるこの小説。「1Q84」は正直イマイチだったが、これはとても面白かった。
未だ私にもこの小説のすべてを解釈し尽くすことは出来ないだろうし、ここに書いたことも見当外れの解釈かもしれない。しかし、この小説は間違いなく一読の価値のあった小説だと思うし、再読の価値もある作品だと思う。
人をどう愛すればよいのか。
恋愛小説の中枢は、かくあるべきだ。