若きウェルテルの悩み 作;ゲーテ
『若きウェルテルの悩み』
ゲーテ 作
竹山道雄 訳
読書記録を残そうと思う。その本を読んで、その時に感じたことを留めておきたいからだ。まず手始めに最近読んだ本について書いてみることにする。
『若きウェルテルの悩み』
そのタイトルの通り、これは青年期に訪れる苦悩を描いた「私小説」の部類にあたる物語である。ゲーテはこれを25歳のときに完成させ出版、当時のドイツの文壇に一石を投じた。賛否両論あったものの、当時の若者たちはこの物語の主人公であるウェルテルの姿を真似し、そして彼の言葉を深く吟味し議論し合ったという。
そして現在でも、この作品のテーマは我々のような若い人間を苦しめ、奪い、与え、成長させる。
純粋な感情は尊重されるべきであるのか。社会の掟というものの重要性が分からぬ訳でない、…だが自分だけが知る自分の考えは決してその掟と完全に一致するとは限らない。いやむしろ、それらが全て分かっているからこそ悲劇なのである。掟が、またそれを根底にする自分の良心が、自分自身の純粋な感情と相反する。
どうして社会というものは冷静に、堅実に生きよというのか。情熱があるからこそ生は感じられ、時代は動くのではないか。死せる生よりも、生ける死を望むのは罪であろうか。誰しも、そう考えたことはあるだろう。
この作品の主人公であるウェルテルは友人ウェルヘルムへ宛てた手紙でその苦しい心の内を吐露する。彼は厭世のきらいがあり、故郷と官職から離れて今で言う高等遊民のような生活を送っていた。知見のある人に招かれては離れる生活の中で、彼はロッテという美しい女性と出会う。
ウェルテルはロッテに情熱的な愛を寄せ、一途に彼女を思い続ける。しかしロッテはアルベルトという堅実で人柄の良い男との婚約が決まっており、近く結ばれることになっていた。ウェルテルはロッテとアルベルト両者にとっての親友であり続け、その実、心の内で苦悩する。今すぐにでも彼らから離れなければ、今に自分はロッテを力づくでも奪ってしまいそうだった。
ウェルテルはロッテの制止を振り切って、突然彼らの前から姿を消した。いかに情熱が尊いものか説いていた彼は、自身の狂おしいまでの情熱を抑え込んで、善良なアルベルトにロッテを任せたのだった。
ウェルテルは新たに選んだ地で役所の書記官の仕事をもらっていた。しかし、貴族社会や世間に対して絶望し、その傷心からやがて再びロッテのいる地へ戻ってくる。ロッテはアルベルトと幸せに暮らしており、彼らは共に愛し合っている。ウェルテルは消えることの無いロッテへの情熱と、アルベルトへの羨望、そして彼らとの関係に思い悩む。
一方ロッテも、ウェルテルからの愛に気付き、またそれを無下に打ち捨てることのできない自分に苦悩する。3人が友人のままに居られるように、ウェルテルに別の女性をと考えてみるものの、どうしてもどの女性も彼には合わないように思えてしまう。ロッテはウェルテルを友人以上に想っていたのかもしれない。無論、アルベルトをそれ以上に愛していたのだろうが。真相がどうあれ、確かにロッテはウェルテルの苦悩に触れたのだった。
またアルベルトもウェルテルの想いに気付いた。彼も、始めは一友人としての気使いもあり、葛藤で苦しむウェルテルの為にも、ロッテへ彼と会わないように言って聞かせた。しかし、ロッテはウェルテルの苦悩を知り、どうしても彼を一人には出来なかった。この夫婦にも、ウェルテルの情熱への考え方で、擦れ違いが生まれる。
そんな或る日、町で殺人が起こる。その犯人はある女主人に思いを寄せていた善良な召使の男で、だが女主人はその男に言い寄られても頑として首を縦に振らなかった。彼らはとても信頼し合っていた筈だった。遂に男は女主人を無理やり自分のものにするが、当然といえば当然、それ以前にもともと女主人の弟に嫌われていた事もあり、屋敷を追い出されていた。だがここでなんと、新たに雇いいれられた召使が、女主人と結婚するすることになったのだ。追い出された男は、ついにその召使を殺してしまった。ウェルテルはこの男に会っており、その恋路も聞き及んでいた為に同情、共感し彼を弁護する。しかし、そんなウェルテルを批判したのは、アルベルトであった。アルベルトは実直な人間であり、情熱に生きるウェルテルとは正反対の人間だったのである。…後に、この犯人の男は容疑を否認し、ウェルテルはいよいよ厭世の気を濃くする。
しかれど、この事件はウェルテルに暗い暗示を投げかけたのは事実であった。
この後、物語は伏線を収束させながら、ウェルテルの自殺によって幕を閉じる。自殺に使ったピストルは、ロッテの手から彼に受け渡されたものだった。作中に登場する、名も無き狂人が告げた『幸福であったとき』というのが理性をもたなかった時であるというのは、やはりこの小説のテーマの一側面である。
そしてウェルテルの自殺。自殺と自由意思の問題は哲学における論題の一つであり、大きな意義のある内容であると思う。ここではウェルテルは愛を永遠に得んが為の死であった。ウェルテルが自殺したのは先の召使の男のように自分を抑えきれなくなったから、かとも思ったのだが、それは理由のごく一部でしかないようだ。
しかし、この小説は高尚な哲学の本ではない。俗っぽい情熱的な芸術作品であり、その是非については意見が分かれるようだ。しかし、私はこんな情熱に満ちた生き方が出来るのは羨ましいと感じる所がある。今の我々に、これほどの情熱があっただろうか。口を開けば「詰まらない」と呟き、空想の世界の他者の情熱を写すだけの、醒めた人間ではないだろうか。例えどんな堕落した、太宰治のような人間であろうと、その身を省みない情熱はあった筈だ。
のたれ死んででも小説家として生きて行く。そんな情熱が、私は羨ましい。