表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

賽銭地獄

作者: をはち
掲載日:2026/08/15

返すべき価値を持たぬ者が落ちる、最も静かで最も重い地獄。



男の名は、忘れた。あるいは、最初から持っていなかったのかもしれない。


彼は夜の境内を徘徊し、賽銭箱の前に立った。指先が震えていたのは、寒さのせいではなかった。頭の奥で何かが蠢き、いつ爆ぜるかわからなかった。


その「何か」を、ただ少しだけ、静めてやりたかった。


「俺は今、何をしでかすかわからない。だから…これくらい、俺をなだめるために許されるだろう」


賽銭箱は、暗闇の中で静かに彼を見上げていた。まるで、最初から彼のためだけに置かれていたかのように。


彼は蓋をこじ開け、中の金を掻き出した。硬貨の冷たい感触が、指に染みた。笑い声が漏れた。自分でも、なぜ笑っているのかわからなかった。


ただ、胸の奥の怪物が、少しだけ目を閉じたような気がした。それから彼は、やりたい放題を生きた。


金を使い、欲望を貪り、誰かを傷つけ、誰かを踏みつけ、最後には自分自身をも食い尽くした。そしてある雨の夜、路地裏で息絶えた。


死因など、どうでもよかった。目覚めたとき、彼は真っ暗な岸辺に立っていた。目の前に、それはあった。賽銭箱だ。


だが、境内にあったモノとはまるで違う。石と鉄と、得体の知れない黒い木でできた巨体は、優に三百キロはあろうか。


表面には無数の硬貨と紙幣が、血のようにこびりつき、腐った花の匂いを放っていた。天国からの裁きだった。


声が響いた。どこからともなく、しかし頭蓋の内側に直接刻み込まれるような声。


「集めよ。奪ったものを、すべて返せ。賽銭を神に届け終わるまで、その箱はお前を離さぬ。その後、正式に地獄へ落とされるがよい」


男は箱に手をかけ、背負った。瞬間、背骨が軋んだ。肉が抉れ、肩甲骨が内側に折れ曲がるような痛み。息ができない。膝が沈む。


それでも、箱は背中に張り付き、決して離れなかった。皮膚が溶け、骨に食い込み、まるで生き物のように彼の体を貪り始めた。彼は歩き出した。


最初に向かったのは賽の河原だった。石を積む子供たちがいた。無数の、色を失った子供たち。


だが彼らが積む石は脆く、鬼どもが笑いながら蹴散らしていた。男は箱を背負ったまま近づき、声を絞り出した。


「少し…分けてくれ」


鬼の一匹が振り向いた。目がなく、ただ裂けた口だけがあった。


「賽銭などない。ここにあるのは、ただの石だ。お前のような大人が、子供の石を欲しがるのか?」


鬼どもは哄笑した。男は這うようにして逃げた。背中の箱が、ますます重くなった気がした。


次に三途の川へ辿り着いた。川面は黒く淀み、底の見えない闇を湛えていた。渡し守の姿はない。


ただ、亡者たちが岸辺に群がり、六文の銭を求めて泣き叫んでいた。しかし誰も、六文どころか一文さえ持っていなかった。


死者は、すべてを置いてきたのだ。男は箱を背負ったまま、川を見つめた。


「俺は…いくら払えばいい?」


答えはない。風だけが、嘲るように彼の耳元で囁いた。


「六文など、最初から持っていないだろう?」


そのとき、男は初めて自分の罪を、骨の髄まで理解した。彼は神に返す賽銭を集めなければならない。だが、この世に賽銭など存在しない。


地獄に落ちる資格すら与えられず、天国へ上がる道も閉ざされている。ただ、背中に三百キロの罪を背負い、永遠にさまよい続けるしかない。


箱は日に日に重くなった。肉が落ち、骨が露わになり、それでも箱は彼の背中に根を張った。


あるときは箱の中から、奪った硬貨が蠢く音が聞こえた。あるときは、死んだ夜に笑った自分の声が、箱の底から反響した。


彼はもう、叫ぶことすらできなかった。ただ、背骨を軋ませながら、暗い川岸を往復する。


賽の河原の石を崩す鬼たち。三途の川の黒い水面。どこにも救いはなく、誰にも賽銭を乞うことはできない。


男は今も、そこにいる。


三百キロの賽銭箱を背負い、骨が砕け、肉が腐り落ちる痛みを抱えながら、永遠に金を集め続けている。


天国にも地獄にも届かぬ、賽銭箱の底で。



読んで頂き有り難う御座います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「次」に行く資格の剥奪、か…。実に哀れ。 何かの奇跡で施しが為されても、返済額に足りる訳もなく。 そんな奇跡が積み重なるのを待っていれば「億劫(おくごう)」など簡単に過ぎる。つまりは永劫、叶わない。…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ