賽銭地獄
返すべき価値を持たぬ者が落ちる、最も静かで最も重い地獄。
男の名は、忘れた。あるいは、最初から持っていなかったのかもしれない。
彼は夜の境内を徘徊し、賽銭箱の前に立った。指先が震えていたのは、寒さのせいではなかった。頭の奥で何かが蠢き、いつ爆ぜるかわからなかった。
その「何か」を、ただ少しだけ、静めてやりたかった。
「俺は今、何をしでかすかわからない。だから…これくらい、俺をなだめるために許されるだろう」
賽銭箱は、暗闇の中で静かに彼を見上げていた。まるで、最初から彼のためだけに置かれていたかのように。
彼は蓋をこじ開け、中の金を掻き出した。硬貨の冷たい感触が、指に染みた。笑い声が漏れた。自分でも、なぜ笑っているのかわからなかった。
ただ、胸の奥の怪物が、少しだけ目を閉じたような気がした。それから彼は、やりたい放題を生きた。
金を使い、欲望を貪り、誰かを傷つけ、誰かを踏みつけ、最後には自分自身をも食い尽くした。そしてある雨の夜、路地裏で息絶えた。
死因など、どうでもよかった。目覚めたとき、彼は真っ暗な岸辺に立っていた。目の前に、それはあった。賽銭箱だ。
だが、境内にあったモノとはまるで違う。石と鉄と、得体の知れない黒い木でできた巨体は、優に三百キロはあろうか。
表面には無数の硬貨と紙幣が、血のようにこびりつき、腐った花の匂いを放っていた。天国からの裁きだった。
声が響いた。どこからともなく、しかし頭蓋の内側に直接刻み込まれるような声。
「集めよ。奪ったものを、すべて返せ。賽銭を神に届け終わるまで、その箱はお前を離さぬ。その後、正式に地獄へ落とされるがよい」
男は箱に手をかけ、背負った。瞬間、背骨が軋んだ。肉が抉れ、肩甲骨が内側に折れ曲がるような痛み。息ができない。膝が沈む。
それでも、箱は背中に張り付き、決して離れなかった。皮膚が溶け、骨に食い込み、まるで生き物のように彼の体を貪り始めた。彼は歩き出した。
最初に向かったのは賽の河原だった。石を積む子供たちがいた。無数の、色を失った子供たち。
だが彼らが積む石は脆く、鬼どもが笑いながら蹴散らしていた。男は箱を背負ったまま近づき、声を絞り出した。
「少し…分けてくれ」
鬼の一匹が振り向いた。目がなく、ただ裂けた口だけがあった。
「賽銭などない。ここにあるのは、ただの石だ。お前のような大人が、子供の石を欲しがるのか?」
鬼どもは哄笑した。男は這うようにして逃げた。背中の箱が、ますます重くなった気がした。
次に三途の川へ辿り着いた。川面は黒く淀み、底の見えない闇を湛えていた。渡し守の姿はない。
ただ、亡者たちが岸辺に群がり、六文の銭を求めて泣き叫んでいた。しかし誰も、六文どころか一文さえ持っていなかった。
死者は、すべてを置いてきたのだ。男は箱を背負ったまま、川を見つめた。
「俺は…いくら払えばいい?」
答えはない。風だけが、嘲るように彼の耳元で囁いた。
「六文など、最初から持っていないだろう?」
そのとき、男は初めて自分の罪を、骨の髄まで理解した。彼は神に返す賽銭を集めなければならない。だが、この世に賽銭など存在しない。
地獄に落ちる資格すら与えられず、天国へ上がる道も閉ざされている。ただ、背中に三百キロの罪を背負い、永遠にさまよい続けるしかない。
箱は日に日に重くなった。肉が落ち、骨が露わになり、それでも箱は彼の背中に根を張った。
あるときは箱の中から、奪った硬貨が蠢く音が聞こえた。あるときは、死んだ夜に笑った自分の声が、箱の底から反響した。
彼はもう、叫ぶことすらできなかった。ただ、背骨を軋ませながら、暗い川岸を往復する。
賽の河原の石を崩す鬼たち。三途の川の黒い水面。どこにも救いはなく、誰にも賽銭を乞うことはできない。
男は今も、そこにいる。
三百キロの賽銭箱を背負い、骨が砕け、肉が腐り落ちる痛みを抱えながら、永遠に金を集め続けている。
天国にも地獄にも届かぬ、賽銭箱の底で。
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