トナカイ男
注意
2025.1.26
12月に入ったあたりだった。自宅に向かう帰路の途中、オーナメントでギラギラのクリスマスツリーのある大通りで不審な男を見かけるようになった。男はいつも同じ格好で、トナカイの毛を思い起こすような淡い栗色の全身タイツに身をつつみ、赤い鼻と頭にはトナカイ角のカチューシャをつけていた。ゆえに彼をトナカイ男と呼ぶことにした。
私がその通りを横切る時間は18時頃から遅くて23時をまわったが、いずれの時間帯にもトナカイ男はそこに居た。
「メリィークリスマス!」
「メリィークリスマス!」
「メリィークリスマス!」
いつも同じ声の調子で高らかにそう叫んでいた。まるでショッピングモールの抽選会で当りくじを引いた客を祝うイベントスタッフのようにハキハキとして快活な歓喜に満ちた声だった。
だがトナカイ男はイベントスタッフや何かの売り子をしている様子は全くなかった。彼はただツリーから半径数メートルのアーチタイルのなかを歩き回りながら叫んでいるだけだった。楽器を弾いているわけでもティッシュを配っているわけでもない。何か入れてもらうことを期待した箱なども置かれていない。一通り観察して、近頃ニュースで頻繁に耳にする犯罪行為が頭に浮かんだ。男の周囲をうろうろしながら注意深く観察したが、こっそり妙なチラシや袋を配っていることもタイツのどこかに意図的な穴が空けられていることもなかった。私はトナカイ男は清廉潔白に変人なのだと理解した。
帰宅しながらツリーの通りで彼の姿を確認しつづけ、20日が過ぎた。彼は相変わらず同じ調子だった。土日は通らないから知らないが、平日はいつもこの通りに居た。周囲の人の対応にも変化はなかった。子どもの手を引っ張って足早に通り過ぎる親、笑いながらカメラを向けている若者集団、まるで道端に巻き散らかされたドブネズミのゲロを見るような目を向ける人々、通行人の誰もが彼を集団から外れた異常者と認識していた。
だが私はそのどれにも該当しなかった。むしろ私はトナカイ男にある種の安心を感じていた。彼の行動は一切の目的を感じさせなかった。実際目的などないのかもしれないと思うほどだった。来る日も来る日も、好奇の目など見えないかのようにクリスマスを祝う。その不可解さが私の中で神聖さに変形していった。変人であることは事実である。しかし変人を嘲り笑うことで矮小な優越感に浸っているレベルの低い集団に比べれば、彼はよほど身のある人間に思えた。
22日、クリスマスが近づくにつれ以前より人通りが増え、彼の声は遠くからだと通行人の声に埋もれて聞こえなかった。人をかき分けてツリーの中心に近づくと彼がいつものようにそこにいるのが見えた。安堵していると突如、彼の身体が地面に倒れた。誰かに殴られたようだった。殴ったらしきスーツの男は呂律が回っていないのか、わけの分からないことを捲し立てていた。
私は怒りを感じた。人が理不尽に暴行を受けるのを目にして不快感や怒りを催すというのは自然な感情の動きである。だが私がそのとき感じた怒りは、そうした自然な度合いを遥かに通り越していた。正義感のような清らかな怒りではない、もっと憎悪に満ちた何かだった。言いようのない激しい感情を向けて、彼を殴ったと思われる男を睨みつけた。男は片手にビール缶を持っていた。よく見れば顔は火照っていて足取りはおぼつかない。男が酔っ払っているのは明らかだった。だがそれは許される理由にはならない。私はただ拳を握りしめていた。
25日が来た。今年は休日ではなく、夕方にケーキ屋に立寄った。1年でもっともケーキが消費される日であろうクリスマスの夕方。売り切れを覚悟していたが、幸いホールケーキが最後の1つ残っていた。生クリームが塗りたくられた生地の頂きに苺が円を作っていた。その中央にはおそらく砂糖菓子であろう、橇を引いているトナカイのキャラクターが乗せられていた。シンプルでテンプレートのようなケーキだったが、運命じみたものを感じて迷わず購入した。
雪がちらちら降り落ちるホワイトクリスマスの街並みを歩きながら通りへ向かった。イルミネーションの輝きは最高潮に達していた。賑わう人混みをくぐり抜け、ツリーのすぐ側に彼の姿を見つけた。メリィクリスマスが高らかに響いていた。
クリスマスの祝福はクリスマスの日で終わるだろう。その翌日にはツリーの装飾も撤去され、おそらくトナカイ男も居なくなる。クリスマスの数日前からその考えが頭を支配していた。
私は彼に歩み寄った。
こんばんはと会釈すると彼は小刻みに瞬きをして、丸い赤鼻が小さく上下した。
「…...はい?」
「12月のはじめから居ましたよね」
「そうですが……」
「平日毎日18時から23時の間にここを通るんです。それでいつも見ていました。嘘じゃないですよ。曜日によって微妙にイントネーション変えてましたよね?水曜日のなんかは特に。
先日の怪我は大丈夫ですか?
通りの人はどいつもこいつも薄情ですね。あの男、殴ってやりたいぐらいだったが、何も出来なくて、それが心残りでした。それで、もし」
「あのー、おじさん。何か勘違いしてません?」
えっ、と間抜けな声が出た。拒絶でも驚愕でもない、淡々と落ち着いた声で発せられた言葉に私は何も返すことができなかった。飼っているハムスターが突如喋り始めたかのような衝撃だった。呆然としていると、彼の背後から数人がぞろぞろと現れた。皆、彼と同じ茶色の全身タイツと赤い鼻、トナカイ角を身につけていた。背丈や身体の輪郭までほぼ同じだった。
「自分たち、1人じゃないんですよ。ちょっとした社会実験で、複数人で同じ格好をしてこの通りにいたんです。担当する人をローテーションしながら……」
私は混乱しながらも理解した。トナカイ男は一個体ではなく、集団の総称だった。
「土日は2、3人でやってんですけどねーっ」
「ホラーっされてるってえ勘違い」
トナカイ男たちはワイワイ喋り始めた。具体的な内容は耳に入らなかったが、この男たちが大学生だということはなんとなく分かった。今日まで数日間私が見続けてきた彼はもうどこにもいなかった。いや、最初からどこにも居なかったのだろうか。そう反芻するうちに徐々に冷たい外気が身体の内側に入り込んでくるようで、私は人々に背を向けた。
「あ、よいクリスマスを!」
誰かの声が聞こえたが、振り向く気持ちにはならなかった。
ホールケーキはその日に半分食べて、残りは冷蔵庫に入れておくことになった。
ケーキの上に乗っていたトナカイをひょいとつまんで口に入れると、奥歯が嫌な軋みをたてたので反射的に皿に吐き出した。カランと無機的な音を鳴らして倒れるトナカイを見て、ようやく理解できた。プラスチックの飾りだったようだ。




