第9話:擦り潰す者
脂汗が滴る中、ミシ、ミシと弾ける感覚が、正座をしている脛の表面から発生している、それは「い草」の千切れる音か、己の細胞の潰れる音か。
草津は、肉体が底なしの沼に引きずり込まれるような、異様な圧の錯覚を認識していた。自重が二倍に増幅したかのような、骨を軋ませ、逃げ場のない畳へと圧着させられる異常な沈下。
畳に触れる脛の血流が急速に遠のいていく。
周囲の空気は、タールのように重く、粘り気を帯びていた。必死に酸素を求め、最大限の稼働にて肺胞は硬く収縮する。しかし、吸い込んだ大気は喉の奥で渋滞し、石のように固まって落ちていかない。肺がその機能を拒絶し、窒息間際へと追い立てられる。
ここは佐々木邸、最奥の間。用がなければ誰も立ち入らぬ、薄暗き終着点。
そして、魔人佐々木の眼前である。
闘争本能を剥き出しにした異形の怪物にとって、目の前に曝け出されている存在は、虫ケラにも満たない。
当初、そこいたのは、空間の均衡を歪ませ、吐き出す紫煙の一筋にさえ破滅の予兆を孕ませる、草津の知る「通常」の佐々木であった。
煙草を指に挟むという何気のない挙動一つで、耐性のない者の臓腑を握り潰し、内側から破壊してしまうような魔人。
自己が飲み込まれるような不快感と、生存本能のアラートを鳴り響かせる畏怖の老人。
すなわち、草津の既知の佐々木。
和服を端然と纏った佐々木は空気を震わせ、スーツを着用した三人に、上座から破滅の眼光を投射していた。
その鋭利な眼光が、毒針のように心臓の深部を射抜く。そのような極限の重圧環境下で、山田だけは、執務室で「テレビの相撲の結果」を語るかのような、平然とした調子で昨夜の利権の会議の報告を続けていた。僅かに呼吸のピッチが乱れる程度である。その通常の態度こそが、この空間では狂気的な強靭さに映った。少なくとも草津の目には。
対照的に、草津の躯体は悲鳴を上げていた。
何もしなくても背部を伝い落ちる汗。ここで精神の均衡を崩せば、二度と復帰することはできない。その直感により、草津は、体幹への異常なまでの力みを余儀なくされていた。しかし、その過度な緊張は硬く胸骨を締め上げ、ただでさえ薄い空気をさらに奪っていく。
そして三浦は、もはや俗世に存在していなかった。
頭部を深く垂れたまま、意識の底を流れるドブ川の濁流へと沈み込んでいく。網膜は焦点を結ぶことを拒絶し、虚空をさまよう。
ただひたすら、ひたすら地獄が経過するのを待つだけであった。
佐々木の眼前であって珍しくもない心神耗弱者。それは、俗に言う「炙り」と呼ばれる一様な反応である。猛火に晒された素材が、内側から耐えきれずに反り返り、歪んでいく。草津も三浦も、魔人の熱に焼かれ、「炙り」の渦中にいた。
山田のみが照り返し程度の状態を保ち続ける。
山田は、無機質な彫刻のような男だった。
冷徹を極めたその平常心。佐々木を前にしても1mmのブレすら見せない。構成する素材が違うかのように、炙れば反り返る三浦達とは異なる。どれほどの環境に身を置こうが、形を変えない不変な冷静さを宿している。
草津は、脂汗に滲む視界の端で、隣に座す山田の輪郭を捉える。己との差、それが絶望的な距離感であることを強く認識してしまった。
かつて山田は淡々と草津に進言したことがある。
「大砲の前に立たなければ、五月蝿いだけで当たることはない、佐々木は気が触れている男ではない。故に憂慮するような危機的な状況にはならない。」
草津にとって、佐々木を目の前にしての状況では、そんなのはただの理屈でしかない。
山田は目論見通りに事態が進行していること、後日の会議は山田が失脚させた人物達との、形式的な会合に収束する事実を伝えた。
佐々木の喉から漏れるのは、関心を示さず、退屈を隠そうともしない反復する生返事のみ。
事態は山田が土産話として田中のことに触れた時に急変した。
田中の話題が出た時点、厳密に言えば目立たぬ存在からの急変した話の場面。部屋の時間が凍結した。
佐々木を中心に全てが静止し、異変は魔神の肉体に現れた。頭髪は意思を持つかのように逆立て始め、微かに開いた鼻孔が、獲物の匂いを嗅ぎつけた野獣のように痙攣する。
直後、室内を埋め尽くしたのは、漆黒の圧力だった。暴力的な波動が噴出し、草津は「自身が壁の黒いシミ」に変質していくような錯覚に襲われる。存在を許さぬ恐怖が草津の骨を軋ませた。
佐々木の眼球は、眼窩から溢れんばかりに見開かれ、牙のような歯が糸を引きながら露出する。皮膚が引き攣る、感情を置き去りにした無機質な「捕食者の笑み」が文字通り溢れた。
それが抑圧していた闘争本能の解放に起因するものだと草津は即座に理解した。老いた眼光に敵対者を発見した活動エネルギーが灯ってしまったからである。
後日の会議に佐々木本人が直々に参加することが決定し、段取りが変更された。それは主に佐々木の暴威が波及される影響への対応である。
比較して合理的に計画を実行してきた山田にとって回避不可能な困難になる。
逃走を開始するように三人は立ち上がり、この部屋の外へ移動しようとした。
草津は、その時目撃する。畳に着座していた痕跡が、人の形をした焦げ跡のように畳を凹ませていることを。それが明確に出現しているのだ。
それは実際に沈没していたからか、尋常ではない量の汗の痕跡か。
顔色を変えていなかった山田の顎部から、いつの間にか汗が一滴、畳へ落下していくのを、草津の目は追っていた。
そして、それを剥き出しの左手首で拭ったことも。




