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アカシック・ロード  作者: Janpon
本編
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第8話:ドブ川と鼠



 黄ばんだカーテンの繊維を透かす光が、ジワジワと三浦の瞼を貫通する。網膜の裏で不快な残像が暴れ、眉間の表情筋は頬をピクピクと痙攣させた。

 街は日常の駆動音を立てながら、喧騒の準備を完了させている。まるで、巨大な呼吸のように始まりの音が鳴り始めていた。

 枕元の目覚ましベルは音というより、内部で反響する衝撃として脳幹をぶん殴る。沼に嵌る重い杭を無理矢理引っこ抜く様に、三浦は意識を節々の痛みと共に下界へと引きずり出す。苦い唾液を飲み込み、「今日」という現実が始まった。

 

 アパート脇の道路を通過する車両の音がジンジンと鼓膜を揺らす。

 眉間に鉄の塊でも入れたかのような鈍痛に、三浦はフンと短く鼻を鳴らした。ウィスキーのこびりついた臭いが刺激を運び、胃から口への食道ラインを不可視の拳が擦り付ける。それは三浦の眉間の皺をさらに深くさせ、意識は奈落に落ちかけた。

 昨夜はまったく酔えない酒であったが、深酒の症状だけは律儀に、三浦の元へやってきた。

 

 張り付いた喉を水で強引に剥がし、ようやく思考の輪郭が整い始める。ねばつく肌の不快な感触は「昨夜、風呂に入る気力もなく寝落ちていた」ことを思い出させた。カチカチと鳴る時計は、急げば間に合うことを告げている。


 三浦は重い四肢を引きずるようにして、薄暗い廊下を共同風呂へと向かう。すれ違いざま、住民の女が顔を顰め、わかりやすく露骨に視線を逸らした。余程酷い顔を晒していたのだろう。三浦は取るに足らないと思いつつ、背中に刺さる視線から逃れるように少しだけ足を早めた。

 

 バランス釜のカチカチという点火の音が浴室に響き、湯が沸くの待ちながら、三浦は煙草の本数を数える。深めの溜め息をつきながら視線を落とした瞬間、思考が止まった。タイルの隅に硬直した四肢の鼠の死骸が、三浦を見るように横たわっていた。


 鉛を流し込んだような体を引きずり、三浦は事務所へと足を向ける。先ほどの住民の女が紫煙を吐きながら、ゴミを捨てに出てきていた。同じアパートの住民らしく夜に働く女なのだろう。溢れ出る生活感の中に生足の色気が混在している。

 バツが悪そうに三浦は軽く会釈し、裏を抜け大通りへ。道ゆく人、道路を走る車両、会社員。そんな気配が今は欲しかった。大通りは自分紛れ込ませてくれるからだ。


 ふと視線を上げると、アスファルトの対岸には、電子部品工場の制服に身を包んだ女性たちの群れが流れていた。朝の光を弾くしなやかな髪。赤信号でせき止められるたびに弾ける、鈴の音のような囁きと、瑞々しい頬を上気させる笑顔。彼女たちが纏う空気は、春の陽だまりのように軽やかで、生気に満ちている。


 彼女達は工場へ、三浦はドブ川の向こうの事務所へ。車両が行き交うアスファルトが境界線として横たわる。

 三浦は、乾いた唇で湿ったフィルターを噛み締めた。煙を吐き出すことさえ億劫になりながら、ただ前だけを見据える。視界の端で揺れる色彩を、網膜から振り落とすようにして。

 腐敗した川の気配を求め、彼は一人、淀んだ街の奥へと歩を進めた。


 ドブ川脇のタワークレーンはその背をさらに伸ばし圧迫感を強め、この辺りの無秩序な建設の中心のように見えた。この威圧と混沌の主の下には山田の「注意喚起」が眠る。

 そのことなのか、ドブ川の汚臭なのか、落ち着いてきた胃のムカつきが涎を込み上げさせる。

 地面にだけを見つめながら、靴を地面に強く押し付ける。足早に事務所へ三浦は向かう。


 三浦が事務所に着くと清掃業者が道具をバンに回収し撤収する場面であった。見るからに苛立ちを示す雰囲気が伝播しており、朝は誰しもを不機嫌にさせるものかもしれないなと、三浦はその光景を眺めていた。

 粗暴な音を立ててドアが閉まり、急発進しながら逃げるように業者のバンは遠ざかって行った。


 事務所の中から「雑だな」と、呟きながら山田が三浦に声を掛け、いつものように胸を探り煙草を咥えた。オイルライターで点火すると朝の空気にいつもと違う紫煙を吐き出した。

 いつもマッチを使用するのに、珍しいことをすると三浦は違和感を覚えた。


 山田のシャツには昨日の皺が深く刻まれていた。帰宅せず事務所で夜を明かしたのだろう。案の定、その通りであり、山田は帰宅を告げると、そのままドブ川の方角へ背を向けた。

 三浦は、酒の抜けない自身の肉体と、山田の乾いた頑健さを比較し、喉の奥に苦い自己嫌悪を覚えた。その時、昨夜の来客を思い出す。

 佐藤。あの鼠のような男。今朝、風呂場で見つけた鼠の死骸。硬直した四肢と粘膜の質感が、佐藤の輪郭に重なり、胃がせり上がった。

 視線の先で、山田がドブ川に何かを放り投げた。落下物は放物線を描き、音もなく水面に呑まれた。


 山田は欄干から、不味い煙草のパックを放逐した。

 そして手帳を開く。田中の名はどこにもなかった。野良犬の嗅覚にも触れぬ端役など、一顧だにする価値もない。

 それよりも、手元に残ったのは、佐藤が有力者の間を這い回って削り出した、通常業務のネタの宝庫。バイパス利権の範疇を逸脱した、実利の塊。

 新たに購入したいつもの紫煙。コクとまろみ、そして旨みが、濃密な重みを伴って山田の肺の深部へ沈着する。

 

 飲み干すのだ、何もかも、今は…

 

 今は、選択肢を剥奪した医者が優先か、

 山田は本日のスケジュールを素早く構築した。


 事務所に現れた山田の姿を捉え、三浦は足早に昨夜佐藤が訪ねてきたことを聞こうと、距離を詰めた。


 しかし、そんなことは、すぐに遠くへと消し飛んだ。

 本日は佐々木邸に山田と草津と三浦は出向くことになったからである。


 佐々木の眼光が三浦の骨を軋ませる。

 その時、タワークレーンが錆びついた歯車を軋ませ、重低音を響かせて旋回した。巨大な鉄の腕が空を切り裂く。その影が、足元を無機質に通り過ぎていった。


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