第36話:円環
白髪が増えたな。下げられた頭が視界に入り、山田は素直にそう思った。あれから何年、何十年経っただろうか。
尋ねてきた三浦との邂逅。タクシーに乗り込む後姿にかつての若年さは無くなり、品のあるシックなスーツの着こなしがメリハリを作っていた。
無声映画のような、余白の中の貫禄と陰影。空気を閉じ込め、去っていくもの特有の余韻が漂う。切り取られたシーンごと遠ざかっていくように、タクシーは風景の中に消えていった。
山田の口角がゆっくり緩む。これが最後だという予感を自然に理解してしまった。
それを肯定するかのように何度もリペアに出したロレックスの秒針の刻音が老いた鼓膜を揺らす。
時代は変わりゆく。擦り潰すのは暴力でも権力でもなく社会そのものへと変化していった。みな檻の中に閉じ込められている。そのような閉鎖感が、熱狂の後の余韻のように地面に縫い付けられていた。
三浦は今の時代を掴みたいのだろう。かつての後継者を思い起こさせる。
瞼の裏に草津が浮かぶ。若くして亡くなってしまった。いや、奪われてしまったのか。超常に触れた者は寿命まで献上せねばならないのだ。
ならば、三浦の謎解きに接触する道理はない。時代の報酬の富はすでに自分に支払われた。やり残した最後の精算が残っている。
草津の残した「シンメイシン」は「新名神高速道路」としてあのバイパスよりも巨大な道路として計画中だ。「龍が立つ」そのものである。
しかし、それはもはや山田の手を離れたこと。
山田の中で最後に残り、しかしどうしても解せない事象があった。
老いてなお、巡る正確な秒針の刻み。それはあの会議を呼び起こす。あの山盛りの灰皿と喧騒。完全にコントロールされ、目論見と符合し噛み合っていた利権会議。そこに横たわる埋められない空白。
その完全な空間に誰が、関係のないシンナーの入った一斗缶を用意したのだ。そして、誰がそれを田中に投げたのだ。
しかし、それはどうにも届かない。故に最後の最後に残った空白。この精算を行うまで死ねないと決意を固めたが、ロレックスは時を刻み続けるばかりであった。
耄碌したという言葉を誰よりも明確に自覚するようになった晩年。左手首は痩せ細り、かつてのチッチッと鳴っていた歯車の刻音はポタリ、ポタリ、という点滴の音へと変わっている。
暗い引き出しの奥、埃を被ったガラス板の下で、誰にもその存在を知られることなく、ロレックスはただの眠る骨董品になり、ついにはその時を止めていた。
それでもあの空白は、山田を手放さない。
あり得ないのである。
会議の場にシンナーが入った一斗缶が存在することが。入り込む余地など存在しない。
あの会議を目論見通りにするため、全て整えたのは山田自身なのだ。
この時密かに、骨董品化したロレックスが、誰に聞かせることもなく静かに刻音を揺らし始めていた。暗い引き出しの中で気泡が弾け、腐敗した臭いが充満する。
それは、ドブ川が再び流れ出す音でもあった。
消毒アルコールの匂いに満たされた病院個室。ケーブルに繋がれた体がビクッと僅かに揺れた。
ピーと、心電図の音が終末期の極限のフラットを描く。
残響するそれに呼応するかのように。
ドブ川化した引き出しの中でロレックスの秒針が不規則に時を揺らすように刻みはじめた。音は事象の後に発生する。文字盤のガラスが光のない世界で反射光を放つ。
歳を取った、お迎えが来る。もう、すぐそこだ。
暗闇の中でロレックスの秒針は止まる。高く高く下降し、狭く狭く広がる空間の中、歯車は回り出す。秒針は逆走を開始した。
遠ざかる意識。閉ざされる光のその先、不意に燐光が世界を広げ、田中が現れた。
死ぬ間際に滴るのは顎先からの汗。山田を最も混乱させた男が無表情の笑みを浮かべる。
それが何を意味するのか山田はすぐに理解してしまった。
田中は手に一斗缶を持っていたからだ。
ケーブルが体から抜け落ちていく。薄くなった頭髪は黒々しく頭皮を覆い、気づけば白衣は濃厚な漆黒のオーダーメイドしたスーツに変わっていた。病院のシーツとは対極にある、上質なウールの重みと、肌を刺すような熱気、そして、染み付いたあの紫煙の匂い。
加速する事態の異変に、意識が追いつこうと歯車を高速回転させている中、ハっと気付けば、あの日あの時あの会議に山田はいた。喧騒と紫煙にまみれた熱気が支配する空間。つい先程まで点滴の管が突き刺さっていた手の指の関節に引き裂くような重量感が食い込む。
目に鈍い光が飛び込んだ。ギラつく光を放ち、それとは裏腹に絶対零度の侵食を伴う金属容器。
今、山田は入り込む余地などなかった、あの一斗缶を手に持っているのだ。
あの日、誰が用意したのかと呪い続けたその鉄塊が、他ならぬ己の腕を引き絞っている。
トプンと、シンナーの揺れる音が遅れて鼓膜に焼き付く。それだけではない、自身の鼓動の音も遅れて発生している。吐き出したはずの呼吸が、数秒遅れて肺の奥からせり上がってくるような倒錯。
山田は理解した。今自分は田中の理の中へと閉じ込められているのだと。
一斗缶と共に託されてしまった。山田は田中の超常に託されてしまったのだ。物語を始める存在になることを。
ステキな音が響いた時、世界の解像度は跳ね上がり、剥き出しになった事象の流れが稲妻のように会議室を蹂躙する。そして、その全てが田中の中へと吸い込まれていく。
一斗缶を投げた山田はアカシックレコードが田中と接触するのをハッキリと見た。
接触した田中の望みを叶えるべく、アカシックレコードは起動する。
その時あの会議で田中が望んでいたもの。
それは自分が関わるプロジェクトが上手く行くこと。
田中という人間は、そう、平々凡々な真面目な男であった。
アカシックレコードは田中の望みを叶えるべく最適な人物配置と役割を運命づけた。
山田は最重要人物に選ばれたのだ。




